「21話・インティファーダに戻る!」

「20話・パレスチナ騒乱」

パレスチナ問題の構図・19話「インティファーダの再燃か?」

 10月2日、読売新聞13面に「和平プロセス崩壊の危機」の大きな見出しがわしの眼前に躍(おど)った。それも、今回の騒乱の直接の原因は、イスラエルの野党リクードの党首シャロンが9月28日の「神殿の丘」訪問が発端と伝える。

 さて、今回のイスラエル治安部隊への投石などを繰り返したパレスチナ人の行動は、民衆の反イスラエル感情の噴出と言う意味で、前回までの表題でもある1987年から始まった反イスラエル闘争「インティファーダ」の再燃とも言える。主力が若者だったこともインティファーダの構図に酷似している。

 しかし、最大の相違点は、約10年前のインティファーダが非武装だったのに対して、今回はパレスチナ人が武器を持っていることだ。暫定自治後に組織されたパレスチナ警察とイスラエル治安部隊が衝突し、「力には力」で対抗すれば本格的な戦闘にエスカレートすることは必然だった

 アラファト議長は「自体を放置した」との非難を浴びているが、しかし、アラファトがパレスチナ人の行動になにがしかの歯止めをかけるならば「裏切り者」のそしりは免れないだろう。いや、ひょっとして命の保証も危ぶまれるのではないか。

 それにしても、今回のアラブ・パレスチナ側の不満の一つに最大野党のリクード党首アリエル・シャロンのエルサレム詣でにあることに注目したい。

 実は、月刊サピオ「10月11日」号において、かの有名な落合信彦氏がA・シャロンのインタビューに成功している。その詳しい内容については後述するとして、まず、そのA・シャロンについてお話ししたい。

 シャロンは1928年生まれの現在72歳。1948年の第一次中東戦争(イスラエル独立戦争)に参加して以来、主要な戦争だけでも56年の第二次中東戦争、67年の第三次中東戦争(六日戦争)では装甲師団長としてシナイ半島侵攻作戦で活躍した。さらに、69年から73年にかけていわゆる千日戦争(持久戦)を指揮し、73年の第4次中東戦争では戦車師団を率いてスエズ渡河作戦を指揮した。

 73年に退役した後、ベギン率いるリクード党に参画、翌年に国会議員に選出される。77年、ベギン内閣で農水相として入閣した後、外相、商工相など6つの大臣を経験している。国防相在任中(81〜83年)には、レバノン侵攻作戦を指揮した。

 シャロンは、既述の通り軍人として活躍し、軍人在籍中は現在首相を務めるバラクの上官でもあった。しかし、バラクは労働党(ハト派)、シャロンは元首相のベギン、ネタニアフに通じるタカ派のリクードである。とにかく「こてこて」のナショナリストである。それだからだろうか、穏健派であるバラクのやり方がまどろっこしくてしょうがないのかも知れない。ハト派こそが和平を実現できると言う甘っちょろい理想主義なやり方にしびれを切らしたのかもしれない。

 しかし、シャロンの考えはともかく、バラクはアラブに対して大幅な譲歩をした。それ故、彼の政治活動は窮地に追い込まれた。それにもかかわらずアラブの不満を抑えることが出来ないのはいかなる理由によるものなのか。

 シャロンによれば、バラクの犯した最大ミスは、交渉に「9月13日」というデッドライン(最終期限)を設定したことだ。期限を切ったことによりアラブ側は、イスラエルは焦っていると読み取り妥協を拒否、和平合意を先延ばしにする手段を取り、さらなる妥協を求められたことである。このことから見ても、シャロンの目にはバラクは交渉者として非常に未熟であると映った。

 落合氏曰く、日本人の多くは「タカ派のリーダーは好戦的だから和平交渉には不適当、ハト派のリーダーこそが和平を実現できる」という甘ったれた幻想(イリュージョン)を持っているが、現実はそんなものではない。世界の歴史を見ても「平和が大事」と叫ぶだけで平和が訪れたためしは一度もない。「平和」などと言う言葉を安直に口にせず、互いのぎりぎりまで主張したタフな交渉の末に和平交渉は実を結ぶものなのである。ゆえに、アラブとの交渉はハト派のバラクより、タカ派のシャロンを注目するのだ。

 落合氏の言うように、バラクは未熟な交渉者で、リクード党首A・シャロンが交渉者になれば、その時こそ事態は進展するのであろうか??冒頭で述べたとおり、今回の騒動の端緒が当のシャロンその人であることに一抹の不安があるのだが、それでも落合氏はタカ派である人物こそが和平を実現すると言い切れるのだろうか?今後のイスラエル・パレスチナの動向に今後も目が離せない。

[その20でーす] /welcome:

 10月5日付読売新聞朝刊には「米に仲介ぎりぎりの折衝」の見出しが躍っていた。それが示すようにパレスチナ・イスラエルの自体の深刻さがうかがえる。さらに驚くことに、「イスラエルの虐殺、イラクが止める!」、とフセイン大統領がアラブ諸国の弱腰を避難し、変わらぬ健在ぶりを誇示した。

 そして、10月8日。パレスチナ騒乱はレバノン国境に拡大、イスラエルは、ヒズボラの攻撃に対して空爆を敢行した。バラクイスラエル首相は、レバノンとシリアに対してヒズボラの戦闘行為をただちに停止させるよう要求した。さらに、パレスチナ民衆は、聖地「ヨセフの墓」に突入して放火、さらに内部を破壊した。同地では連日の衝突でパレスチナ・イスラエル双方に死者・負傷者が続出し、それに対してバラク首相は流血回避のために臨時措置としてイスラエル軍の撤退を指示した。イスラエル軍事声明によると、パレスチナ治安当局が「墓」を守ることで合意したという。

 しかし、イスラエル軍がパレスチナ側の武装闘争の前に聖地から撤退するのは初めてのため、イスラエル国民は衝撃を受けており、野党、右派勢力は激しく反発している(8日夕方のニュースでは、バラク首相は、パレスチナに対して抵抗をやめないなら2日後に軍を出動するとの最後通告を突き付けた)。

 一連のパレスチナ・イスラエル騒乱の発端となった先日の28日の衝突から、93年のオスロ合意で終息したインティファーダ以来最悪の事態となったことは確かなようだ。世界各国は、この中東情勢から当分は目が離せないだろう。

 さて、第5次中東戦争が懸念されるほど事態は混迷を極めているのだが、このコーナーでは過去を遡るのが使命なため、今一度これまでに至るまでの中東の紆余曲折を調べてみたいと思うのです。

[その21でーす] /welcome:

 プロテストとしての復興運動(原理主義)、原理主義という言葉を聞くと反射的に「テロ」という言葉が頭に浮かんでくるのであまりよいイメージがない。しかし、我々が風にたなびく日の丸を他国のスタジアムで見るなら、なぜだか分からないが目頭が熱くなったり、そのスタジアムで応援する人達が日本古来のいでたちで応援している姿を見ると「あーわれわれは日本人なんだなあ」、と思うこともある意味では「原理主義」に通じることなのではないだろうか。極左の人でない限り、人はおのが国の歴史の流れの中で生きていると感じることが出来る。だから我々も過激でないが「原理主義者」なのであり「ナショナリスト」なのである。ただ人をあやめてまでそうしたいと思っていないだけである。そのことも踏まえながら、中東問題を考えてみるのも意義があることではないだろうか。

 ちなみに、ナショナリズムとは、ある特定の人間集団における「運命共同体」、つまり「民族」として捉え直し、その集団の政治的自立を目指すイデオロギーないし運動を指す。この点ではイスラエルユダヤの「シオニズム」も例外ではない。

   さて、1987年以来国際政治の基本用語になった「インティファーダ」は、世界にパレスチナ問題をもう一度思い起こさせた。その衝撃は中東に深くかかわってきたアメリカでも強く感じられた。その結果、アメリカのユダヤ人のイスラエル観、そしてパレスチナ人観が決定的に変わった。

 アメリカのユダヤ人の対イスラエル感情には微妙なものがある。と言うのは、イスラエルの生存は保障されるべきであるという立場を取りながら、アメリカのユダヤ人でイスラエルに移住し、その建設と防衛に献身しようとするものは少ないからだ。これまで度々重なる迫害の歴史に苦しんできたユダヤ人にまたいつ迫害が起こるかもしれないと言う恐れ、その時の避難場所としてイスラエルが必要なのだと言う議論を支持しながら、実際その場所であるイスラエルに住もうとしない。イスラエル国民にその建設と防衛義務を押しつけている後ろめたさだ。

 したがってアメリカ人は、イスラエル人に対して奇妙な劣等感がつきまとう。毎年多額の寄付を様々な形でイスラエルに対して行い、また、アメリカ政府の政策をイスラエル寄りにするために活発な政治活動を続けているアメリカのユダヤ人が、お金を受け取っている方のイスラエルに遠慮がちなのである。イスラエル国民が血を流しているのに、アメリカのユダヤ人は小切手にサインをしてイスラエルに寄付をするという奇妙な状況が存在していた。

続く。

 

ここもアメリカのユダヤ人解説

まずはユダヤ人について

中東関係その3 中東関係その2 中東関係その1

アラビアのロレンス 英国の三枚舌外交 ユダヤ・ゲットー

富裕なユダヤ人 フランス革命

ロスチャイルド 差別・迫害