ユダヤ編

その11・「不世出のナポレオン」ここをクリックしてね!

その10・「フランス革命」

 前回は、ユダヤ人の中にはゲットーに住んでいるにも関わらず、富裕な人々が少なからず存在すると言ったが、それはキリスト教徒が、彼らを公職から追放し、ギルドなどの同業組合から締め出し、店舗を構えて商売することも、農業もできなくし、その結果としてキリスト教の法規に拘束されない利息のからむ金貸し業・両替商などの生業をせざろう得なかった結果であると言うことを忘れてはならないだろう。それ故、なにか事あるごとに、ユダヤ人のせいにするのは許し難いことであって、差別されるユダヤ人にとって、納得のいかない理不尽なことに他ならないのである。

 さて、今回はフランス革命についてお話しするのであるが、こんなタイトルだと、なんか学校のお勉強みたいだが、わし自身は、学生時代はとんと縁のないことなので、とても新鮮である。でも、皆さんの中には、うんざりする方もいらっしゃると思いますが、どうか「いまさらなんでえって」言わないで、暫しの間、おつき合を願います。

 さて、「人は自由かつ権利に於いて、平等なものとして生まれ、かつ生存する」これは人権宣言第1条だそうだが、このフランスの掲げる崇高な名文句であるところの、フランス革命が勃発した時、ドイツの他の都市やフランクフルトでは、インテリ層や学生は大いに感動したようじゃが、数百の領封君主の集合体である立ち遅れた社会条件の下でのドイツではどうすることもできなかったようだ。それを如実に顕す出来事は、中世以来の神聖ローマ帝国の選出と戴冠(レオポルド2世、在位1790〜92)が盛大に行われたことだろう。

 啓蒙思想の発展と共に高まったユダヤ人解放の動きは、フランス革命の勃発の進展とは逆に、ドイツに関して言えば、保守勢力の結集と旧秩序維持の高まりの中、もみ消されてしまったようだ。

 その後、1792年4月フランス対プロイセン・オーストリアとの戦いになるのだが、フランス軍が優勢で、10月、遂に革命軍の先遣隊はフランクフルトの市城壁前に姿を現す。そして、一時フランクフルト市はユダヤ人の市民的平等を表明するのだが、形勢がドイツ寄りになると、市は前回の表明を撤回する。

 しかし、その数年後フランス軍は再度フランクフルトに迫った。そして、フランス軍の激しい砲火は3日間もつづき、ユダヤ人ゲットーもその時全焼する。その結果、ゲットー住民の三分の二にあたる2000人近いユダヤ人が焼け出された。実は、このフランス革命軍の砲火によるゲットー焼失こそ、330年の長きにわたって壁と門で閉ざされたゲットーからのユダヤ人の解放するための決定的事件に他ならなかった。

 その後、ゲットー管理者である市参事会は再建を計画したものの、従来通りのものを再建することがいかに時代錯誤であり、フランス革命精神に影響を受けつつある世論もそれを決して許さないであろう事を、十分承知していたように思える。しかし、資金的に余裕のない市側は、ゲットーになにがしかの手を加える決定をするのに、6年以上の日々を必要としたために、新しい世紀、19世紀へとゲットー問題はずれ込んでしまったのだ。

 この長い6年間の月日は、しかし、ユダヤ人とキリスト教徒市民との相互理解の月日になった。ユダヤ側も、とりわけキリスト教徒との接触やドイツ語、ドイツ文化の受け入れに批判的・懐疑的であった保守・正統ユダヤ人のグループが、1801〜3年にかけ、ゲットー及び近隣のユダヤ人居住地区にドイツ語を学ぶために寺小屋式教習所を設けたのは、一つの顕著な出来事だった。

 しかし、こうしたユダヤ人解放の動きに対して、フランクフルトの市参事会側はきわめて保守的でかたくなな態度を持ち続けた。この恣意的な態度は19世紀全般を通してなお固持されていく。これは多分にユダヤ人に対する恐れであったとしか考えられない。

 みじめな生活を強いられれてはいるが、財力と商才に富んだユダヤ人を解放したら商業交易都市フランクフルト(ここは中世以来解放性を誇り、見本市や国際貿易で大いに栄えた)がユダヤ人に牛耳られてしまうことを恐れたためであろう。結局、ユダヤ人のゲットーからの法的・制度的解放は、フランクフルト市がナポレオンの支配下に入り、フランス革命精神に則った諸改革が実施されるのを待たねばならなかった。

 次回は不世出の英雄ナポレオン、お楽しみに・・・。

[ここでーす] /welcome:

 現代に於いても数々の書物で語り継がれる不世出の英雄ナポレオン、フランス革命の落とし子として登場した彼にとっても差別の象徴であったユダヤ人ゲットーの壁は、是が非でも取り壊さなければならないものであったようだ。実際、フランス革命の自由・平等・博愛の不可侵性において、ゲットー廃止こそが不可欠だったのだが。

 しかし、ナポレオン自身のユダヤ観はどうも一貫しておらず、少なからずユダヤを軽蔑していたようにも思われる。それにも関わらず、彼の行く先々で解放者としてユダヤ民衆から熱狂的な歓迎を受けたことはよく知られているそうだ。フランクフルトもその例外ではなかった。

 ところが皮肉にも、当時権力の絶頂期にあった皇帝ナポレオンは、全市を挙げての、また数千人に及ぶユダヤの歓迎の熱意にはほとんど注意を払わなかった。それは、フランスに於いて彼らユダヤ人に付与された市民的平等権やヨーロッパ人解放を制限したナポレオンの行動により如実に顕れている。

 しかし、神聖ローマ帝国が消滅した結果、フランクフルトは帝国自由都市の地位を失い、隣接地域を含むフランクフルト公領となった。その領主の座にはライン同盟(ナポレオンの保護の下に西南ドイツ諸侯が結成したもの)の盟主でナポレオンの寵児、マインツの大司教であったカール・フォン・ダンルベング(在位1806〜13)が就き、ユダヤゲットーの解放に理解を示した。

 しかし、こうした動きの中でも、市の元老院会(以前は市参事会と呼んでいた)は、ユダヤ人の商取引制限について検討したが、現状を全く変えようとしなかった。革新意欲に燃えたライン同盟の盟主ダールベングといえども、フランクフルト市民ならびに上層階級のユダヤ人解放に対する、きわめて保守的な態度を無視することは出来なかった。当時新しく成立したウエストファーレン王国が、宗教の如何に関わらずあらゆる人民に完全な市民権を認めた直後であっただけに、フランクフルトのユダヤ人に与えたショックと失望はきわめて大きかった。

 さらに、ドイツでユダヤ人が最も多いプロイセン王国、また、ドイツの都市でユダヤ人が最も多かったベルリンでの進歩的な動向が伝えられると、ユダヤ人のフランクフルトに対する失望は限界の域に達したことは想像に余りある。

 前回述べたように、当時ユダヤ人の半数以上はすでに1796年の火災以降、ゲットーの壁の外に住んでいたわけであるから、10年以上市内での生活に慣れたユダヤ人がゲットーへの帰還を受け入れるはずもなかった。市側はあくまでもユダヤ人を元のゲットーとその周辺地区へ帰還させようと執拗に迫るのであった。

 しかし、ユダヤ人解放の糸口となるフランクフルト公ダールベックの意向でもあった焼失した家屋のあったゲットー北部一帯23区購入問題には、しぶしぶではあるがユダヤ人の一部の者は、市の要求通り市価の相当する値段で妥協に応じた。結果として、元のゲットーへの帰還となったのだが、その後は市からの借用としてではなくユダヤ人本人達のものになり、一応解決したかに見えた。しかし、市内にすでに住み着いてしまったユダヤ人全体を元のゲットーに戻すことは到底出来なかった。

 結局、ユダヤ人を元のゲットーへそのままそっくり戻すことは不可能であったし、かといってユダヤ人が何処へ移住すれば良いかの具体案もなかったため、ユダヤ人の永続的な市内居住は既成の事実となってしまった。これより、1810年10月7日をもってユダヤ人ゲットーはその機能を停止し、隣接する市地域と共にユダヤ人居住地区と化した。そして旧ユダヤ人ゲットーの通りユーデンガッセには、徐々にキリスト教徒の住民も住み着くようになり、古物商、雑貨商、骨董商、ユダヤ教の宗教用具店、信仰生活に則した食料品店、野菜・果物店などが立ち並ぶ特別な姿を持った通りになっていった。

 ゲットーへの強制移住が行われた1462年から350年にして、フランクフルトのユダヤ人ゲットーは遂に法的・制度的に廃止されたのであった。

 ところが、ロシア大遠征に失敗したナポレオンの失脚により、フランス革命の人権思想からなるユダヤ人に対する諸権利や市民的平等が、再び無効とされたのである。

 ナポレオンの支配から解放されたドイツの諸地域が、とりあえずフランス支配以前の制度を復活させとことを思えば、それはそれで致し方ない事と思われるが、しかし、それは必ずしも全ユダヤ人がゲットーへの逆戻りを意味するものでもなかったようだ。一般社会もその様なことを望んでいなかったようだ。ただ、数百年間ゲットーに閉じこめられた数々の規制の中で生活してきたユダヤ人が、フランス支配の下で急に解放されたことに対する怒りと嫉妬、恐れと不満が、後進ドイツ全体を支配していたのであり、ユダヤ人に対する何らかの規制を従来通りいくらかは残していきたいというのが彼らドイツ人の本音のようだった。

次回は英国ロスチャイルド家についてお話ししたいと思います(ロスチャイルドもゲットーから)です、お楽しみに。

参考文献・大澤武男著「ユダヤ人ゲットー」講談社現代新書

 

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