その7・「ゲットーに至るまで」
前回はユダヤ人がイエルサレムより、彼らの遺産である律法書(トーラ)や歴史書、詩編などを含む聖書や口伝書(タルムード)を携えて、各地へ四散していったところまでお話しした。今回は、その後のユダヤ人に対してのキリスト教がいかように関わっていったかをお話ししてみたい。
さて、ユダヤ人はローマ帝国内で、課税の単純化を目的としたカラカラ帝(在位211〜217)のローマ市民権付与法(211)以来、ローマ市民権保有者となていた。紀元313年6月、コンスタンチヌス大帝(在位306〜337)はミラノ勅令を発して、キリスト教を公認した(ちなみにキリスト教は250年にはローマ帝国による大迫害を受けている)。
これ以後、衰退しつつあったローマ帝国はキリスト教化は急速に進み、4世紀後半に入ると、早くもキリスト教は、テオドシウス大帝(在位379〜395)下で、ローマ帝国唯一の合法宗教たる国教にまで高められ、すべてのローマ人はキリスト教信者の受容を強制されるようになった。そして、ローマ支配下の人民のユダヤ教は383年以降法的に禁じられた。このようなキリスト教の政治的勝利のもとで、ユダヤ人は法的な差別や制限を受けざるを得なくなるのだが、395年には東西ローマ帝国に分裂し、476年西ローマ帝国が滅びる。
ローマ帝国なき後のヨーロッパ秩序を回復したカール大帝(在位768〜814)の保護下で、ユダヤ人が商人として東西貿易に活躍したことは前述したとおりであるが、カール大帝以後のカロリング諸王のもとでも、被保護者の立場にあった彼らは、国王の商人の名の下に、特別な保護を受けている者もいた。単に商人としてのみならず、国王や軍隊の水先案内人、物資の調達者として軍隊や軍需物資の輸送などに従事し、王に忠誠を誓い、見過ごしがたい重要な役割を果たしていた。
そして、カロリング王朝下で、異教徒のキリスト教への強制改宗の試みはあったものの、ユダヤ人は聖書の民として特別な保護も受けていたし、中世初期から10世紀は概してユダヤ教徒とキリスト教徒間には共存できる寛容さも存続していた。
キリスト教徒とユダヤ教徒の決裂が決定的になったのは、10世紀〜11世紀にかけての西欧社会の大きな社会・経済的変化があった十字軍時代であろう。キリストの聖地を取り戻すというスローガンのもとに糾合された十字軍は、異教徒に対する戦いと言う異常な宗教的情熱意識を生み、その最初の犠牲者となったのがライン川沿いの古都に居住していたユダヤ人だった。
十字軍以来、「改宗しようとしないユダヤ人の根絶(アウスロツトウング)」と言う思想が初めて現れるのである。これ以後、西欧ユダヤ人の迫害史が正式に開始されることになる。大量殺害を伴う十字軍のユダヤ教徒との決裂は決定的な段階に入り、将来におけるゲットー成立の重要な背景になってゆく。
中世から近世にかけてのユダヤ人迫害の最大の理由ともなるいわゆる「聖体冒とく」(キリストの聖体、ホステイアを盗んで冒とくすること)と「儀式殺人」(ユダヤ教徒が儀式のために、キリスト教徒の幼児をさらって生き血を吸う)のデマがまともに受け入れられるようになってゆくのも、十字軍のまっただ中である12世紀中頃からである。これらの根も葉もない主張のうらには、ユダヤ人を社会からすべて隔離し、絶交しようとする動きが見られる。その根底にあるものは「神(キリスト)」を殺した者達へのキリスト教徒の蔑視・差別であるところの反ユダヤ主義なのは明らかであろう。
次回は、中世ドイツにおいてのユダヤ人、そしてゲットーに至るまでをお話しいたします。
参考文献・大澤武男著「ユダヤ人ゲットー」講談社現代新書
最後に、中世ドイツにおいてのユダヤ人についてお話ししたいと思う。
ドイツ国王は「キリスト殺し」のレッテルを貼られたユダヤ人に対して、特別に保護している点が非常に興味深い。そして、その保護する代償として彼らが種々の納税義務を果たしたことに注目したい。
しばしば迫害に遭う弱い立場の彼らは、為政者による保護を必要とした。ドイツ国王にとって、そう言うことはとりもなおさず経済的な感心に外ならなかった。
ドイツの分裂した領封体制下で全ヨーロッパに四散していたユダヤ人の国際通商能力、経済力は国王にとって重要な収入源となったし、ドイツ全体のユダヤ人を自らの直接の保護下におくということは、国王の権威を全ドイツに知らしめる上でかっこうの論拠となり、更に実益にもなった。
13世紀にはいると、国王の意に反してユダヤ人はドイツを去ることが出来なくなっていった。ハプスブルク王家出身のルドルフ1世(在位1273〜91)は自分の許可なくして聖地パレスチナへ移住しようとしたユダヤ人を重罪に処し、彼らの財産もすべて没収している。その論拠は、すべてのそして個々のユダヤ人は王庫の”下僕”として、その人物、財産ともにすべて国王一人に属するというものであった。
こうしたドイツ国王のユダヤ人に対する特別保護、徴税権は皇帝特権の一つとなった。そればかりか、財政難に陥った国王はユダヤ人に対する徴税権を抵当に入れ、借金をすることも常のようであった。そして、もともと国王の特権であるユダヤ人保護、徴税権は、王権の動揺や財政窮乏下で次第に諸侯や司教、都市の手に移っていった。
その後のユダヤ人に対するキリスト教徒の差別は過酷で、服装を「とんがり帽子やマント、頭巾」を義務づけされたのも、その当時であるし、ユダヤ人が公職に就くことを禁止したのもその当時である。そして、ユダヤ人を決定的な孤立へと陥れるもう一つの取り決めがあった。
それは、キリスト教徒間での利息を伴う金の貸し借りを破門を持って厳格に禁止したことである。しかし、教会法の対象外となるユダヤ人は、堂々と利息を取って金を貸すことができた。すでに職人組合ギルドから締め出され、店舗を構えて商売もできなくなり、国際商取引も大幅に制限されたユダヤ人は、教会法に拘束されなかった金貸し業や両替商に活路を見いださざるを得なかったのだ。そして、キリスト教で言う”隣人愛”に反する金貸し業を営むユダヤ人はますます孤立に追い込まれるに必然であった。それ故、15世紀後半にゲットーに閉じこめられるのを待つまでもなくユダヤ人の隔離は現実化していった。
ユダヤ関係は一度お休みを頂き、その間は「アルコール中毒」に付いて皆様としばしお勉強してみたいと思います。これは専門分野ではありますが、自分自身がお酒という「薬物」を扱っているという認識を深めるためにも、今一度お酒に対して真摯に向かい合ってみようとする私自身の所信表明でもあります。なーんて、(^^;たいそうなこと言いましたが、そんな硬いものではなく(わし自身がいくらかアルコール依存でございまして、へへへ)アルコール中毒なるものがいつの時代から存在するかと言うことが急に知りたくなったということでございますよ(^_^)。