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その6・「ユダヤ人がゲットーに至るまで」はここをクリックしてね!

その5・「英国の三枚舌外交」

 前回は、西洋での英雄「アラビアのロレンス」について、文献を頼りにその英雄伝説の知られざる真実を検証し、西洋人がつくり出したロレンス神話をつまびらかに紐解き真相を白日の下に晒し、彼が決してアラブのために奔走したのではなく、あくまで大英帝国の先兵でしかなかったということを解明させてもらった。更にはアラブの独立を阻み、彼らを翻弄する英国、仏国のしたたかな深謀遠慮が見え隠れする弱肉強食を地でいく白人植民地主義の横暴な振る舞い。それが故に、ロレンスを信じたアラブ人の悲哀は名状しがたいものなのだが、その事こそが、現在まで続くパレスチナ問題の幕開けの時代でもあった。

 さて、そんな第一次大戦前とは、列強が虎視眈々と植民地政策を繰り広げていたわけであるが、それまでアラブを支配していたオスマン・トルコの凋落は目も当てられないほどの状態で、往時の威厳は跡形もなかった。その弱体につけ込んで英国、仏国が暗躍していたということなのだろうが、そこで、ロレンスが関わっていたと言われる、イギリスの「三枚舌外交」とはいかようなものであったのか、これを機会にしっかりと頭にたたき込んでおこうと思う。

 1914年7月に第一次世界大戦が始まった。大戦の原因についてはここでは紙面の都合で述べないが、まあ、とにかくことの背後にはヨーロッパ列強の確執、特にドイツとオーストリアを中軸とする同盟国と、英国、仏国、ロシアを中心とする協商国との対立があったのは言うまでもない。

 問題のオスマントルコはその頃仲良しになったドイツ側について同盟国として参戦した。この結果、トルコ領だったパレスチナを含む東アラブ地方は中東戦線の主要な戦場となり、英仏両国軍とオスマントルコ軍がぶつかり合うことになった。

 その戦いの中、英国は東アラブ地方の戦後処理について、内容の矛盾する三つの条約を結んだ。その一つは、英国、仏国そしてロシアなど協商国でオスマントルコ帝国の領土をどのように分け合うかを取り決めた例の「サイクス・ピコ条約」である。

 交渉に当たった英、仏それぞれの代表マーク・サイクスとジョルジュ・ピコの二人の名前を取ってサイクス・ピコ条約と名付けられた。

 この条約は戦後、東アラブ地方を英仏間で分割することが盛り込まれていた。それによると、仏国は現在のイラク北部からシリア、レバノンの各地域を自分の統治とし、英国はイラク中部から南部、及びヨルダンに更にパレスチナ南部を自分の統治地域にすると言うことが合意されていた。また、エルサレムを含むパレスチナ北部は国際管理地域とされ、その条約は一切公表されなかった。

 英国は、東アラブ地方の戦後処理に関し、仏国とのこのような約束をする一方、メッカの太守フセインには、戦後、東アラブ地方にアラブの独立国をつくるとの約束を与えていた。メッカのフセインは、イスラム教の創始者ムハマンド(モハメット)の血筋を引くアラブの名門ハーシム家の当主で、現在のヨルダン、先ごろ逝去した国王フセインの曾祖父にあたる。

 フセインはオスマントルコ帝国の支配に変わって、独立アラブ王国を建設しようとの野望をかねてから抱いていた。フセインの野望を英国はしたたかに計算した。フセインそしてアラブ民族主義者達も英国に味方すれば、アラブでトルコ軍を脅かすことが出来る。更に、オスマントルコ解体後のアラブ地域に親英的な王国を建設することもできる。

 そこで英国はフセインに対して、東アラブ地方とアラビア半島に独立アラブ王国を建設することを支持すると約束した。しかし、英国はフランスとの秘密交渉に縛られていたのである。ましてや、フセインはサイクス・ピコ条約の存在すら知らなかった。

 そんな、何も知らないフセインは、1916年6月にアラブ独立を宣言、トルコに対する「アラブの独立」を起こした。いやはや、政治は騙し合い、権謀術数のせめぎ合いだね、常にしたたかでなくては列強と言われる支配する側の位置にはとどまることは出来ないのだろう。これは日本の政治の世界やビジネスにおいても同じことが言えるのだろうね。

 さて、ちょうど同じ頃(1916)シオニストグループがユダヤ人国家建設について英政府に対して懸命の工作を行っていたとは、神は何といたずら好きなお方であろうか・・・。 ちなみに、英国の三枚舌の一つは英国のフセインに対する裏切りだが、もう一度順を追って第一次大戦における英国の矛盾に満ちた中東外交(三枚舌外交)を、ロレンスを思い浮かべながらご説明しよう。

まず第一が、アラブへの約束、第二が同盟国仏国への約束、第三がシオニスト(ユダヤ建国運動家)への約束、その三つである。一はカイロの英国政府マクマホンがトルコ領から自力で解放した地域に英政府は干渉しないとの約束(マクマホン=フセイン書簡と言われる)。この結果フセインは独立の旗を掲げた。これがロレンスも加わった「アラブの反乱」である。二が英国と仏国が結んだ密約で、戦後西アジアのアラブ世界(アラビア半島以外)を仏国と山分けしようというもの。そして三が、シオニストがパレスチナにナショナルホーム(民族的郷土)を建設することを英国は承認し、かつ支援するという1917年11月の英政府(バルファ宣言)声明である。結果的には平和会議のもたつきにしびれを切らしたシリア人は、ダマスカスで国民会議を開き、フセインの三男ファイサルをシリア王に、次男のアブドッラーをイラク王に推戴すると宣言。しかし、かねてからシリアに野心を持っていた仏国がその野望を砕く。次男のアブドッラーは、チャーチルの力添いで(妥協案)、パレスチナの東半分、つまりヨルダン川東を受け入れる。かくして、1921年4月、トランス・ヨルダン首長国(後のヨルダン・ハシミテ王国)になり、英国統治領パレスチナからは切り離されたのだが・・・。

 トルコの帽子に変わり、アラブの頭にぐいとかぶせられた英仏と言う二重の帽子・・・これをいかにはねのけるかが、第一次大戦後のアラブ民族主義者の共通目標になったのは言うまでもないだろう。同時に彼らはパレスチナでシオニストと対決する。英国がこのアラブの土地をバルファ宣言に基づいて統治することにすることに決めたからなのだが、メッカのフセインはこの宣言の受託を拒否したために没落の道を歩む。アラブにとって1920年は「災いの年」と呼ぶ。そんな状況下で、ロレンスがどんな役割を演じたかは、想像に難くないだろう。

 次回はバランスを取るためユダヤ人寄りのお話、彼らがいかにゲットーにまで至ったかを、お勉強したいと思います。


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その6・「ゲットーに至るまで」

 ちなみに、「ゲットー」と言う言葉は我が国でも広く知られているが、「ゲットー」の語源が何処に由来するかは必ずしも明確ではない。しかし、ヘブライ語で「分離→隔離」を意味する「ghet」と何らかの関係があるそうです。そこで「ゲットー」なのですが・・・

 ヨーロッパとキリスト教が中世の暗い時代を終わらんとしていたその時、ユダヤ人の宿命として350年(15世紀後半から19世紀はじめ)に及ぶゲットーでの生活が始まるのです。

 「ナチスのユダヤ人憎悪と仕業をキリスト教思想に直接結びつけるのは憚れるのではあるが、ユダヤ人の悲劇や宿命の根源がキリスト教の反ユダヤ人観にもあることは何人(なにびと)も否定することは出来ない。差別、隔離され、現代の常識では想像もできない様な処遇を数百年にわたって強いられてきたユダヤ人ゲットーの姿とその歴史は、中世における教会側からの主張や要求なくしては考えられない」大澤武男著・ユダヤ人ゲットープロローグより(講談社現代新書)。

 ゲットー以前のユダヤ人は中世初期以来、商人として知られており、中世の史料ではユダヤ人と商人はしばしば同義語として用いられたくらいである。そして宗教、言語を同じくしたユダヤ人はその四散したディアスポラの特性と同胞意識を生かして、ヨーロッパからアジアにまたがる複雑多岐な大商業圏網を有し、国王や司教の特許や保護を得て、13世紀に至るまで、東西貿易に中心的役割を果たしたのである。

 また、商人として多種多様な貨幣に関する知識を持ち、価値の査定、交換などについて抜きんでた技術を有していたこともあって、金にまつわる仕事として金貸し業、両替商、質屋業、古銭の収集、売買業などに従事することにもなった。そして、放浪の民であるユダヤ人にとって、金さえあれば何処へ行っても生活できたわけであるから、金にまつわる職業はユダヤ人にとって、もってこいのものとなっていった。

 しかし、十字軍などにより東西交通が発達し、都市の成立が見られるようになり、一般のキリスト教市民が遠隔地貿易にも乗り出すようになると、ユダヤ人の遠隔地商取引はそれに押され、禁止されるようになり、14世紀にはほとんどが消滅した。そして第4回ラテラノ宗教会議以後、ユダヤ人が次第に公職から追放され、土地所有、ギルドやツンフトの同業組合などからも締め出され、店舗を構えて商売することや農業もできなくなり、キリスト教徒からの隔離とユダヤの孤立化が進んでいった。

 その結果、ユダヤ教徒として、キリスト教会の法則に拘束されない利息のからむ金貸し業、両替商などがほとんど唯一の生業となっていった。

 とにかく、ユダヤ人をキリスト教徒から引き離して差別し、蔑視、敵対視しようとする傾向はその度合いはともかく、すでに一世紀初代教会に見られる。その反面、ユダヤ人とキリスト教徒の共存が古代から中世をとおして存続していたことを伝える史料も少なくないと言われる。

 とはいえ、原典(旧約聖書)を共通にしながら、相異なる一神教を信奉、主張していたユダヤ人とキリスト教徒が初めから多かれ少なかれ対立関係に陥ることは必然的な帰結であった。

 こうした初代教会の反ユダヤ思想は、初期キリスト教教父達のもとで、ユダヤ人や異教徒を改宗させ、布教効果をあげるための手段として用いられたことを忘れてはならない。したがって、「キリスト殺し」「永久に呪われた民」という考え方は単に純粋な神学思想としてだけでなく、布教政策上の産物であったと見なければいけないだろう。

 そして、紀元後70年のローマ軍によるエルサレム神殿の徹底的な破壊は、救世主キリストを殺した者への天罰と見なされた。宗教的民族共同体の拠点としてのイエルサレムを失ったユダヤ人のディアスポラ(離散)と「永劫の罰を受けた民」の放浪の運命は決定的となった。さらにバルコフバでの最後の抵抗(133〜135)も、ハドリアヌス帝のローマ軍に殲滅され、ユダヤのディアスポラには一段と拍車がかけられた。

 その時、ユダヤ人は、イエルサレムより宗教上の精神的遺産である律法書(トーラ)や歴史書、予言書、詩編などを含む聖書や口伝書(タルムード)を携えて、各地に四散していった。このお話は次回に続きます。

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