「22話・スエズ運河の主権をめぐって」

21話・アラブの英雄ナセル

 中東で名を馳せたと言えば、最近ではイラクのフセイン大統領だろう。日本では悪役として見られる向きもあるが、アラブにおいては世界の警察官アメリカと戦ったのだから、その度胸に賞賛を送らない人はいないだろう。  さて、予定としては中東の国々をご紹介するつもりだったが、英雄と言うことでエジプトのナセル大統領を中心に、第二次中東戦争のもようを大国の動向を踏まえながら、イスラエル・パレスチナ問題を眺めてみたいと思います。

 1956年7月26日、大衆を前にエジプト人のナセルが「民衆の尊厳と誇りを取り戻せ」、と演説した。

 エジプトは古代発祥の地だが、その歴史は近代に入ってから苦難の道だった。52年にクーデターが成功するまでエジプトは「エジプトのエジプト」ではなかった。

 さて、ナセルの演説が終わった瞬間、大群衆は狂気乱舞したといわれる。「エジプトの栄光」・・嗚呼(ああ)、何と長い間忘れられていたことだろう。スエズ運河を国有化によって取り戻す。これがナセルらエジプト軍若手将校の秘密組織「自由将校団」の革命の要旨であった。そして、実権を握ったのが52年。さらに4年後の1956年7月、ナセルはスエズ運河国有化を宣言した。

 しかし、英仏両国にとって、スエズ運河はインド洋方面への生命線、運河会社の大半の株を所有している両国にとっては、とても承伏できるものではなかった。さらに、両国はもともとアラブ団結のスローガンを掲げるナセルを嫌悪していた。また、イスラエルもナセルの登場により、エジプトの支配下にあるガサ地区からのゲリラ攻撃に手を焼いていた。

 英仏両国は、さっそくイスラエルに働きかけ「ナセル打倒」を目標に共同作戦を練ることになる。1956年10月29日、スエズ動乱(第二次中東戦争)の勃発である。最初は英仏、イスラエルの三国の思惑通りにことは進んだのだが、しかし、米ソ両国の対応は今までと違っていた。

 ソ連は、この機会に中東への発言権を高めようと軍事介入も辞さぬぞと三国にエジプトからの撤退を迫った。

 一方、米国はソ連の進出を警戒し、出来るだけ事態の早期収拾を望んだ。

 米ソ大国の強い圧力を受けた英仏両国は不承不承2ヶ月後の12月下旬までにエジプトから撤退、イスラエル軍も翌57年3月、シナイ半島から全面撤退した。

 スエズ運河国有化に成功し、さらに英国フランス、イスラエル三国軍と渡り合ったナセルは、アラブ世界、さらには第三世界の新しいリーダー(カリスマ)として確固とした地位を築き上げた。1960年代にかけて、アフリカ各地で民族主義反植民地主義が燃え上がったのは、このナセルの活躍によるものである。

 それに反して、過去中東で主役を演じてきた英・仏は、この時を境に脇役にならざるを得なかった。代わって登場したのが米ソ両大国であった。中東は米ソの冷戦構造にしっかり組み込まれることになる。

 さらに、石油の存在が中東の重要性を否が応でも高まらせることになる。1970年代のオイルブームの到来までにはまだ時間があったが、それでもアラビア(ペルシャ)湾や北アフリカでは大油田が次々に発見され、産油国に厖大なオイルマネーが転がり込んだ(フセインがクゥエートに攻め込んだ理由の一つにこの石油成金に対するやっかみもあるのだろう)。

 これらの変化が、中東の以前からの政治システムや社会的枠組みに影響を及ぼしたのは当然である。その顕著な例が1962年のアルジェリアのフランスからの独立である。

 この間、イスラエルへ来るユダヤ移民は後を絶たず、1948年の独立当時、わずか65万人だったユダヤ人口は、1960年には190万人、1965年には230万人を数え、イスラエルの存在は確固としたものになっていた。

次回は、アラファト登場です。

[その22でーす] /welcome:

 お約束のアラファトに焦点をあてるつもりでしたが、その前にスエズ動乱(第二次中東戦争)を今一度おさらいして、そして参考文献を頼りに関係した各国の動向などを検証してみたいと思います。

 ユダヤ・シオニストの手によるアラブ各国軍の敗退は、アラブの若い世代に大きな衝撃を与えた。とりわけエジプトにおいてはその思いは強かったようだ。その若い世代の代表的な青年将校の一人が、 アブドル・ガマル・ナセル(1918〜70)である。

 ナセルは、軍の内部に第二次世界大戦中からエジプトの完全独立を目指す「革命委員会」(後に自由将校団と改名)を組織していた。そのメンバーには後にナセルの後継者となるアンワル・サダト(1918〜80)もいた。前回もお話ししたが、この自由将校団が1952年にクーデターを決行し、エジプト王政(18世紀オスマン帝国の支配を受け、1798年〜1801年にはナポレオンの侵略を受ける。ナポレオンの撤退後オスマン帝国のよう兵隊長ムハマンド・アリーがアリー朝をつくる。ありーは1820年、スーダンを征服しやがてオスマン帝国とも戦った。アリー朝は世襲しながらも名前を変更し1953年まで存在した)を崩壊させた。

 さて、スエズ運河地帯は、エジプトのなかにありながらエジプトの主権の及ばない特殊な地域となっていた。ナセルはこの地域への主権の回復を目指したのであった。しかし、イギリスはエジプト軍に任せるにはあまりにも弱体すぎるとナセルの要求する武器の調達にも手を貸さなかった。軍を強化するに対してはフランスもアメリカも強く反対した。なぜなら、兵器がイスラエルを脅かすことになるのではと懸念したのである。

 ところが、このエジプトに、1955年ソ連が兵器を供給したのであった。表向きはチェコスロバキアが兵器を供給すると言うことで、ソ連製の兵器がエジプトの綿花と「バーター」の形で供給された(バーターとは金銭を伴わない物々交換)。

 共産圏以外に初めて大々的にソ連製兵器が流れ始めた。ソ連のエジプトへの武器供与の背景にはクレムリンの第三世界戦略の変化があった。

 以後、米ソが新興諸国の支持を求めて激しい援助競争を展開することになる。ちなみに、ナセルはソ連のフルシチョフを信用しきれず、北京の中華人民共和国政権を武器供与の考えを踏まえ承認することになる。この決定はアメリカとの関係を悪化させることになるのだが。

 アイゼンハワー政権(1953〜61)は、ソ連の武器に対抗してエジプトへの大規模な経済援助を予定していたのだが、ナセルの北京政府承認により、それを反古とした。ナセルはこれに対してスエズ運河国有化をもって応えたのである。その後の成り行きは、前回お話ししたとおりである。

 さて、米ソが英仏そしてイスラエルに侵略行為と撤兵を求めたのだけれど、特にアメリカのアイゼンハワーにいたっては三国の行動に対して相当激怒したというのだ。

 三国は、米ソ大国とりわけアメリカの反応を完全に読み違えていたのだ。イギリスはイスラエルの軍事干渉への参加を求め、しかも十月末を作戦の期日に選んだのは、アメリカの反発を抑えるためでもあった。

 イギリス首相イーデンは、11月初旬に予定されていた大統領選挙を考慮すればアイゼンハワーはイスラエルの参加したこの軍事行動には強い態度はとれないと高を括っていたのだ。600万人アメリカユダヤ人の存在をアイゼンハワーは考慮せざるを得ないとの読みだった。1948年のトルーマンのイスラエル承認をイギリスのイーデンは想起していたのだ。しかし、アイゼンハワーは英仏に対して怒り心頭した。

 では、なぜアイゼンハワーは英仏に激怒したのだろう?それは、1956年のちょうどこの時期、ハンガリーで民衆の反ソ蜂起が発生していたからだ。フルシチョフは軍事でこの暴動を鎮圧した。逆にアイゼンハワーは、世界の目をハンガリーに集めることでソ連を牽制しようとしていた。その矢先、スエズ動乱が始まった。世界の注意が中東に移るなか、フルシチョフはやすやすと武力を首都ブタペストに突入させ、ハンガリーの反乱を押さえこんだ。スエズが煙幕になったわけだ。

 それではなぜ、ユダヤ票が選挙の趨勢を帰すると言われているにもかかわらずアイゼンハワーイスラエルを巻き込んでの対エジプト軍への軍事干渉に非難することが出来たのか?大統領選をひかえて、ユダヤ人の反発を心配する必要はなかったのだろうか?

 実は、共和党推薦の大統領候補であるアイゼンハワーは、いずれにしてもユダヤ票をあてに出来ない立場にいた。と言うのは、伝統的にユダヤ人は民主党支持であるからだ。また、現職でしかも、ノルマンディー上陸作戦を指揮したヨーロッパ解放の英雄でもあるアイゼンハワー将軍は国民的人気をはくしていた。1948年のトルーマンとは違っていたのだ。

 戦後の中東史を貫く三つの大きな流れがある。民族主義の台頭と、イギリス・フランスの凋落である。そして米ソの進出。この三つの流れが交差したのが1956年のスエズであった。19世紀以来、中東に君臨してきたイギリス・フランスの最後の軍事行動がエジプトへの干渉であった。なお、こうした一連の展開は、「スエズ危機」、「スエズ動乱」、「スエズ戦争」、あるいは「第二次中東戦争」などと、様々な名称で語り継がれている。

 参考文献・講談社現代新書・高橋和夫著「アラブとイスラエル」より。

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