「20話・中東戦争」

19話・南レバノン情勢(ゴラン高原)

 久しぶりにこの企画の更新をすることになった。新聞上で知る限りイスラエル・パレスチナ問題は今もって進展しがたい様相を呈している。そんな折もおり、レバノンにおいて日本赤軍支援の学生が、ベイルートの日本大使館で座り込みをし、岡本公三ら五人の日本人への引き渡し反対と政治亡命の認定を求めたそうである(岡本公三はイスラム教に改宗しようと画策しているらしいし、ほかの4人もなにがしかの宗教に改宗しようとしている)。

 5人は禁固三年の判決を受け、本年三月に刑期が満了する予定だ。日本政府はレバノン政府に刑期満了後の引き渡しを求めているのだが、それにしても岡本公三が、レバノンの若者にとって英雄扱いとは、イスラエルとの関係を鑑みればそれもやむなきことと思われるが、日本人にとっては少なからず訝る方もいるのではないかと思うのだが。

 さて、わしはさほど新聞をしっかりと見るほうではないが、イスラエル・パレスチナ問題の記事にかんしては触覚は鋭くしなくてはと常日頃思っていた。そんな矢先、地元の某新聞社の夕刊に、タイトル「シリア大統領」と銘打って大々的に掲載されているかなりの行数の論文に出くわした。

 それによると、シリアとイスラエルの和平交渉が、四年近くの中断のあと新たに再会されたにも関わらず、早くも行き詰まっているとのことだ(その後2月10日の新聞によれば、イスラエル軍が八日深夜、レバノンのイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラの攻撃に対する報復として、二夜連続で同国空爆を実施したと報じていた)。

 両国の行き詰まりの原因というのは、イスラエル側がゴラン高原の全面返還を確約しないことにシリア側が反発したからだ。もちろん、その中にはシリア大統領のアサドのしたたかな計算があるとも言われている。

 さて、そのゴラン高原だが、1967年の第三次中東戦争でシリアがイスラエルに占領された所なのだが、ゴラン高原全面返還を悲願するアサド大統領がクリントン大統領から野心を満たすような保証を受けたのではないかともっぱらの噂だそうだが、実はイスラエルのバラク大統領も交渉再開を前に「痛みを伴わない合意はあり得ない」と、ゴラン高原の全部または大半を放棄する覚悟をみせていたのだ。

 しかし、その後イスラエル側は撤退後の安全保障措置と両国関係正常化の議論のほうに話が集中してしまい、すぐ合意に達すると期待していたシリ側をいらだたせてしまったのだ。

 米国のクリントンの任期もあと一年足らず。レバノン南部に駐留するイスラエル軍を七月まで撤退させると公約したバラクだが(ヒズボラへの攻撃で否が応でもことはもつれるだろうが)、一方的にレバノンから撤退するよりはシリアとの安全保障の合意を先に実現したいと考えている。それはアサドにも重々承知なことなので、これからの駆け引き上ではシリア側には焦りは感じられないとのことであるが・・

 ちなみに、シリア側は、ヒズボラの攻撃を正当な反占領闘争と擁護している。その背景には、シリアはイスラエルと和平を結ぶまで、自らが「イスラエルの覇権主義と戦うアラブの盟主」としての立場を維持するためにも、ヒズボラを抑止するわけにはいかないようだ。

 それに対し、イスラエル側は、ヒズボラが急に活動を活発にさせたのは背後にシリアが糸を引いているためと見て、シリア側がヒズボラを抑えるまで和平交渉を再開しないと警告している。

 こうしたことから、今後の両国の動向が懸念されるわけであるが、結局はアメリカの媒(なかだち)を必要とし、実際アメリカは特使を派遣してことの鎮静化に苦慮しているのだが、とどのつまり、このイスラエル・シリア問題をクリントン大統領がうまく治めて、有終の美を飾るのではと言われている。がしかし、こと、この問題にかんしては「予断を許さない」、と釘を差すキッシンジャー博士のような人もいるにはいる。実際、過去の「イスラエル・パレスチナ」の歴史を顧みるならば、20世紀のうちにこの問題(ゴラン高原)が解決されると言うのは、どうも甘い、希望的観測だと言わざるを得ないのではないだろうか(ちなみに、イスラエルと米国が、戦闘激化の責任はヒズボラにあるとしているのに対して、シリアを中心とするアラブ側は、協定”96年に成立したレバノン停戦協定”で禁止された民間人地域を攻撃したのはイスラエルであると非難、真っ向から対立している)。2000/2/22

次回は「中東戦争」もしくは、アサド大統領です。

[その20でーす] /welcome:

 パレスチナ人が「パレスチナ戦争」と呼ぶ戦争は、普通「第一次中東戦争」と言われる。イスラエルにとっては「独立戦争」であろう。戦争は確かに一度は終わった。イスラエルは独立を守った。しかし、ロードス島で結ばれた休戦協定はあくまで軍事的で、イスラエルの支配下に入った地域は、パレスチナ全土の約三分の二を占めていた。

 それにより、何十万人というパレスチナ人が、イスラエル誕生により難民になってしまった。難民であったイスラエル・ユダヤに変わってパレスチナ人がディアスポラ(離散)になってしまったのだ。なんという歴史のパラドックス(逆説)なのだろうか。

 ヨルダン川西岸とは別に、地中海に沿って南北に細長く続くガサ地区は、エジプト人の占領下におかれた。パレスチナは結局、新生イスラエルとヨルダン、それにエジプトによって事実上分割されてしまった。ヨルダン川西岸、ガサ地区、レバノン、シリア、ヨルダンの各地では、故郷すら帰ることが出来なくなったパレスチナ人が仮設テントの中でひしめくように暮らし始めた。

 1956年10月29日、先ずイスラエルがガサ地区とシナイ半島へ進撃、つづいて英仏両国軍がエジプトへの攻撃を開始した。スエズ動乱(第二次中東戦争)の勃発である。しかし、米ソ両国の強い圧力により、英仏両国、イスラエルは1957年3月、シナイ半島より全面撤退を余儀なくされる。

 米ソ両国はこれを機に、中東への発言権をたかめようとしたのである。両国は三国(英、仏、イスラエル)に対して軍事介入さえほのめかした。これにより、過去中東の舞台で主役を演じてきた英国とフランスは、スエズ動乱を機に、脇役に廻ることになる。

 次回は中東の国々です。

                 

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