19世紀後半になっても、ヨーロッパ大陸からアメリカに大量の白人がわたってきていた。その多くは、ヨーロッパの中でももっとも貧困と迫害に悩んだ人達だった。例えば、東ヨーロッパでロシアのために住むところを奪われた人々(ユダヤ人)、あるいはイギリスに収奪されたアイルランド人などが、それである。
特にアイルランドの場合は19世紀の中頃、人口900万人の島で250万人も人口減になったと言われている大飢饉が起こった。この250万人のうち、約半数は餓死し、約半数は移民したのである。ほうほうの体で難民同然、アメリカへ渡ってきた者の数は、100万人を超えたと推定される。
もちろんこういった移民達は、ようやく大西洋を渡っても東海岸に住むことはできない。すでにそこには数百年も前から白人が住んでいたからである。それで、まさに憧れの未開の地、西部へと大平原を横切って進んでいったのである。
ところが西海岸の近くへ行ってみると、すでにそこには中国人達が相当の生活を営んでいたのである。その時の貧乏な白人達の失望、落胆、怒りは、いかがばかりであったろうか。今で言う、フラストレーションの爆発である。なんと、白人達は中国人を襲撃し始めたのだ。彼ら白人の中には「十字軍」と称して、中国人排斥運動を始めた者もいる。その多くがアイルランド移民であった。
かくして、生き残った中国人もほとんど経済的基盤を喪失し、白人のかんに触らない形でのみ生存する哀れな存在に落ちてしまった。この中国人排斥運動は、ワシントンの連邦政府をも動かし、1902年(明治35)に中国人移民を完全に禁止する法律が生み出されるところまで行ったのである。
大西洋に向かっては、ニューヨークに自由の女神を建て(1886=明治19年)、「悩めるもの来たれ」という一方、大平洋の門戸は完全に閉ざすと言うアメリカの方針、すなわち東から入ってくる白人は歓迎するが、西からの有色人種は許さないと言う態度が、この法律で明確になった。次回は「日本移民」です。
こうした中国人移民に代わって、太平洋を越えてきたのが日本移民たちであった。しかも、その多くは日清戦争の後、つまり、アメリカ人たちが開拓すべきフロンティアの消滅を認識した1890年頃から移民したのであるから、日本人に対する白人の敵意はさらに強烈なものがあった(アメリカは1889年以降、汎米会議を指導して、中南米進出を企てた。また、1889年にはハワイの主権を事実上奪う)。
日本移民は、中国人に劣らず勤勉で総体として教育レベルも高かった。しかも、日露戦争に勝ったのであるから、白人に負けるわけがないといった信念が強かった。西海岸の良好な農地の多くが、日本人移民の開拓、あるいは所有するところとなったのは当然の成り行きであった。これに対する白人達の怒りや嫉妬はまことにすさまじいものがあった。アイルランド人の「十字軍」の復活である。
しかし、中国移民の時のように日本人を殺すわけにはいかなかった。なぜなら、中国の場合は、清朝政府は元来、鎖国時代の徳川幕府のように国民の海外渡航を制限しており、許可なくして国を出たものは清国民にあらずという政策であり、また、海外の移民には関心を示さなかった。だから、こう言った中国人を殺したとしても、清国政府から文句がくるという心配はなかった。
しかし、日本人の場合はそうはいかない。日本人を中国人のように虐殺すれば、日本政府から強い抗議が来て、国際問題に発展するのは明らかであった。しかも、日本は太平洋に日露戦争で大勝した連合艦隊を持っている。これに対して、当時のアメリカはまだ太平洋に艦隊を持っておらず、ことに西海岸のアメリカ人は心の底に日本艦隊に対する恐怖心を持っていた。
したがって、彼らは法律を変えることで日本人に対抗しようとした。つまり、各州ごとで次から次ぎへと排日移民法を成立させて、日本人移民を締め出すという手段を採ったのである。
次回は、「日米紳士協定」です。
参考文献というより、そのマル写しですが・渡部昇一著「かくて歴史は始まる」クレスト社。