20世紀の最初の4半世紀、アメリカはまだ太平洋に艦隊を持っておらず、ことに西海岸のアメリカ人は心の底に日本の連合艦隊にたいする恐怖心を持っていた(日露戦争によるわが国の連合艦隊の強さを知っていたから)。その反動として、彼らアメリカ人は各州ごとに次から次へと排日移民法を成立させていく。もちろん日本政府は、これに対して事態を解決すべく外交努力を重ね続けた。その時代、日本の対米交渉のほとんどは、その日本人排斥問題に費やされたと言って過言ではない。
そして、ついには、1908年(明治41年)に「日米紳士協定」が成立し、日本移民をアメリカ合衆国には出さないというところまで、日本政府は後退したのである。しかも、その約束を日本政府は忠実に守った。なぜなら、すでに移民している日本人がさらなる差別を受けるのを、心底恐れたからである。そして、日本からの移民は実質上停止した。
しかし、すでに成功してアメリカの土地に根付いている者もいたのだから、アメリカ人の心を長らく和らげるには役に立たなかったようだ。アメリカが日本人を憎む理由として、移民のエチケット、とくに立ち小便の習慣が嫌われたなどと言うが、それは付随的なものであろう。彼らアメリカ人は日本人のもっている土地が欲しかったのだ。当時の白人がいかに土地に執着するのかは、東から西へ西へをのフロンティア・スピリッツの表現に如実に現れているだろう(とにかく、その時代白人による黄色人種にたいする差別はすさまじかったようだ。黒人の奴隷制度はほんの少し前に撤廃されたのを鑑みれば当然のことかもしれない)。
このような情勢が続いているときに、第一次大戦(1914〜18年)が起こった。第一次大戦は、日本人もアメリカ人も関心がヨーロッパに向かっていたため、アメリカにおける人種問題は休止状態になった。
この世界大戦が、日米を含む連合軍側の勝利に終わった翌年(1919年)、国際連盟の結成が決まったのだが、この規約作成の場で日本の牧野伸顕(のぶあき)全権代表が、注目すべき提案を行った。それは「連盟に参加している国家は、人間の皮膚の色によって差別を行わない」という内容の条文を国際連盟の規約に盛り込もうと言うものであった。
つまり、国家による人種差別は廃止すべきだと訴えたものであり、これは何十年も時代の先取りをした優れた提案で、有識者の多くが日本に賛意を示した。しかも、日本の提案は、各国の事情を汲んで(斟酌して)、人種差別の即時撤廃などを要求したのではない。しかし、当時は人種差別によって経済が成り立っている先進国が多く、日本の主張は採択されなかった(南アのアパルトヘイトが終わったのはつい最近だし、ましてや日本は、”名誉白人”として遇されたのも記憶に新しいところだ)。
その意味するところは、世界で最初にできた国際機関は、「人種差別は今後も続ける」と言う判決を下したも同然であり、また日本に対しては、「たとえ日露戦争の勝利者であっても、先進国の仲間に入れることは許されない」と言う宣告くだしたも同然のことであった。
次回は「反日感情が反米感情を生み出す」です。
国際連盟の結成の三年後の1922(大正11)年にアメリカの最高裁判所は、「白人と、アフリカ土着人およびアメリカ人の子孫だけがアメリカに帰化できる」という判定をし、すでに帰化申請をして許可され、アメリカ市民として過ごしている日本人すら帰化権をはく奪された。この中には、第一次大戦でアメリカ兵として従軍し、アメリカ市民権をえた人達もいた。そして、翌1923(大正12)年には、移民に関する憲法修正案が上院に提出された。その修正案の内容とは、すなわち日本移民の子供に絶対アメリカ国籍を与えないと言うことであった。
それまでの憲法上の規定は、アメリカで生まれた者には無条件でアメリカ国籍を与えるということになっていた。いわゆる国籍の属地主義(一国内にある者は、外国人であってもすべてその国の法律にしたがうべきとする主義)であるが、今回の修正条項は、それをくつがえし、しかも過去にさかのぼって適用するという空前絶後の暴論であった。
すでにカリフォルニアなどの州法によって、日本人一世移民がアメリカの土地を取得する途はふさがれていたので、移民達はアメリカ市民である自分の子供達の名義で土地を買っていた。今回の憲法修正案は、その抜け道すらとざしてしまおうというものであるから、アメリカ人の排日感情がいかに激しかったかが分かる。
このように反日的雰囲気の下に、1924(大正13)年5月、「帰化(国籍取得)に不的確なる外国人」に関する移民法にクーリッジ大統領は署名した。これが、帰化人不能外国人移民法とか、絶対的排日移民法とかいわれるものである。これによって、紳士協定は一方的に破棄され、日本移民は実質上禁止されたことになる。日系人の地位は、1882(明治15)年以来の中国人と似たものになってしまった。日露戦争に勝っても、黄色人種の日本人は、アイルランド人に比べても下等人種とみなされた。日本はアイルランドを支配しているイギリスと対等の同盟国なのに、アメリカでは劣等民族扱いだった。次回は、「日英同盟の廃止」です。
その第一のあらわれが1921(大正10)年に開かれた日本、イギリスなど9カ国が集まった第一次世界大戦後初の国際軍縮会議である。これは、世界大戦によってふくらんだ海軍の規模を制限しようというものであり、日本としても軍事予算の増大は困ることであったので、日本の海軍も政府も基本的に賛成していた。しかし、それよりも重要なことは、それと同時にアメリカの圧力によって、日露戦争の前、1902(明治35)年に締結された日英同盟が廃止されたことであった。日英同盟の廃止が、当事者、とりわけ日本の希望に反するものであったことは言うまでもない。
日本にとって、アングロ・サクソン支配体制の世界では、何かにつけて好都合の同盟であった。とくに、第一次大戦後の五大国(英・米・伊・仏・日)の中で、日本だけが有色人種国家であるので、もし日英同盟が廃止されるならば、諸外国はいっそう露骨な排日感情を噴出させる恐れがあった。事実、日英同盟廃止後三年目に、アメリカにおいて「絶対排日移民法」が成立しているのだ。
また、日英同盟は、日露戦争の勝因の一つでもあったから(ロシアの南下をけん制する目的でイギリスが日本に協力的であったので、日本は有利にたてた)それまで、日本人の大部分は親米的であったといわれる。しかし、これ以後、日本における対米感情は反米に変わってしまうのだが、それは当然の成り行きであった。
絶対排日移民法と言う法律が生まれたことは、日本のみならずアメリカにとっても、きわめて不幸なことであった。というのは、日本政府自体はアメリカと協調外交を継続しようと言う意志を持ち続けていたにもかかわらず、この法律以後は、それを日本の世論が許さなくなった。なぜ、アメリカの言うことを聞いて妥協ばかりするのかと議会で言い出されれば、いかなる政治家、いかなる外交官でも、これは答弁に窮するのだった。次回は「アメリカの画策」です。
アメリカの人種的偏見、そしてアメリカは日本を仮想敵国として動き始める。日本と将来、太平洋で戦うことを明確に頭に描いた政策を進め始めていた。そして、それが後の日米間の戦争に直結してゆくのである。
その第一のあらわれが1921(大正10)年に開かれたワシントン会議であった。ワシントン会議は、アメリカ、日本、イギリスなど9カ国が集まった第一次世界大戦初の国際軍縮会議である。これは、世界大戦によってふくらんだ海軍の規模を制限しようと言うものであり、日本としても軍事予算の増大は困ることであったので、日本の海軍も政府も基本的に賛成していた。しかし、それよりも重要なことは、それと同時にアメリカの圧力によって、日露戦争前の、1902(明治35)年に締結された日英同盟の廃止が、当事者、とりわけ日本の希望に反するものであったことは言うまでもない。
日本にとって、アングロ・サクソン支配体制の世界では、何かにつけて好都合の同盟であった。とくに、第一次大戦後の五大国(英・米・伊・仏・日)の中で、日本だけが有色人種国であるので、もし、日英同盟が廃止されるならば、諸外国はいっそう露骨な排日感情を噴出させる恐れがあった。事実、日英同盟廃止後三年目において、アメリカでの絶対的排日移民法が成立しているのである。
また、日英同盟は、日露戦争の勝因の一つでもあったから(ロシアの南下をけん制する目的でイギリスが日本に協力的であったので、日本は有利に立てた)日英同盟を日本は官民あげて支持していた。また、イギリスも日英同盟によって十分に恩恵をうけていた。この同盟があるために、イギリスは極東に強大な軍事力をおくことなしに、極東貿易の利益を満喫できたのだ。
ところが、この同盟はアメリカにとって不都合だった。日露戦争まで日本に好意的であったアメリカも、日露戦争以後は日本を仮想敵国として太平洋に着々と海軍を増強しつつあった。万一、日米両国が太平洋で争うことになれば、当然、日英同盟によってイギリスは日本の味方をせざるをえない。ということは、アメリカは大西洋のイギリス海軍にも目を配らねばならず、大西洋に海軍を集中することができなくなる。これはアメリカとして、絶対不利である(というけれど、英が日本のためにアメリカに不都合なことをするとは思えない)。
とにかく、日英同盟の元来の目的たるロシアとドイツの脅威が消滅したため、日英同盟の存在も消滅の運命だったのだろう。とくに、1921(大正10)年7月に日英同盟の本条約更新が日英との話し合いが始まると、アメリカの世論はこの同盟への攻撃を増大させたのである。
アメリカの日本仮想敵国視は信じられる事実であろう。日本の切ない願い、必死の抵抗にもかかわらず、日英同盟は廃止され、その代償として、何の役にも立たない日米英仏四カ国条約が締結されるに至る。
イギリスは第一次大戦においてアメリカから多大な恩恵を受けている。イギリスはアメリカに負い目もあったろう。この点を衝かれると、日本は歩が悪い。日本はイギリスの切なる要請から、第一次大戦に参加し、海軍は太平洋および地中海まで出兵して協力し、陸軍は中国大陸の青島(ちんたお)を中心とするドイツの植民地を占領している。しかし、ヨーロッパの戦場にまでは陸軍を送ることをしなかった。
特に注目すべきは、イギリス帝国会議において、カナダ(当時は英帝国の自治領)の代表が、対米関係を考慮して、日英同盟の廃止をきわめて熱心に主張したことである。カナダは当時、日本移民の排除に熱心な国であったから、アメリカの排日政策に強烈に共感していた。つまり、アメリカとカナダは「一つ穴のむじな」であった。
また、第一次大戦中、軍事大国ロシアが革命によって崩壊し、アジアにおけるロシアの圧力が急激に低下したうえ、ドイツ帝国がなくなったためいイギリスが日本の協力を以前ほど必要としなくなった、ということもある。次回は「中国へのアメリカの接近」です。