「31話・旧約聖書を知っていますか?その7」

パレスチナ問題の構図・30話「旧約聖書を知っていますか?その6」

 金大中・韓国大統領のノーベル平和賞受賞が決まった。朝鮮半島の平和に貢献した功績は、大きい。米国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の「敵対関係終結」も、もちろん金氏の存在なくしてはあり得なかった。お祝いを申し上げる。

  一方に朗報があれば、他方に悲報がある。イスラエル側とパレスチナ側の険しい対立だ。衝突、攻撃で、それぞれの死傷者は増え続けている。双方の代表がそろってノーベル平和賞を受けたのは1994年のことだが、中東の「平和」実現の進み具合を示す時計の針は、そのときよりも昔へと、悲劇的な逆回りを始めたようにさえ見える。

 当時のイツハク・ラビン・イスラエル首相とシモン・ペレス同外相、それにパレスチナ解放機構(PLO)のヤセル・アラファト議長。平和賞は、この3人に与えられた。前年の93年、イスラエルとPLOは米ホワイトハウスでパレスチナ暫定自治協定に調印、握手を交わした。この歴史的な和解が授賞の理由だった。

 調印のあと、ラビン首相は演説した。「調印はあまりにも遅すぎました。血も涙も、もう十分に流しました。もう十分です。パレスチナのみなさん、そろって『武器よ、さらば』を言える日が来ることを祈りましょう」。ただし、その後の暫定自治の足取りは不確かで、平和賞授賞についても、中東和平を後退させないための歯止め、といった解釈もあった。

 「よい戦争はありはしない」と回想録に記したラビン首相は95年、和平協定に反対するユダヤ人の若者に暗殺された。それから5年、イスラエルとパレスチナは今日の深刻な事態に至っている。争い続けるのは簡単であり、平和を保つのはむずかしい。あらためて、そう痛感する。

 朝鮮半島では、平和への期待が急速に高まっている。今世紀中に中東にも平和を、と望むのは無理なのだろうか。 10月14日 ◇天声人語◇より。

 さて、前回の続きだが・・どうして40年もかかったかというと、当時のパレスチナは無人の土地じゃなかったんだ。ユダヤ人がエジプトで暮らしている間にパレスチナにはカナン人など異民族が多くの国をつくっていた。しかし、彼らユダヤ人は異民族と戦って征服した。パレスチナにあって、すべての国を占領しなければユダヤの土地はないのだ。

 最初から国を持っている日本人には理解できるはずもないが、苦しみの果てにユダヤ人は故郷パレスチナへたどり着き、ユダヤの国を建設した。

 王国は、二代目ダビデ王と三代目ソロモン王の時代に栄華の時を過ごした。ユダヤ人にとって最良の時代だ。

 だが、ソロモン王の死後、人々の心は神から離れ内紛を引き起こし、王国は分裂した。ソロモン王の息子は王になると国民に過酷な労働や重税を課したんだ。だから、12部族のうち10部族が王のもとを離れてイスラエル王国をつくった。北の十部族のイスラエル王国と南の二部族のユダ王国は、その後、350年間分裂したままだった。その分裂した南北両国はついに全滅する。

 北のイスラエル王国は紀元前722年アッシリアに滅ぼされた。南のユダ王国は紀元前586年新バビロニアに征服される。

 ユダヤ王国のユダヤ人達は捕囚としてバビロニアへつれて行かれた。それが50年続いた。やがて、ペルシャがバビロニアを滅ぼし、その時、ペルシャのキュロス王がユダヤ人達に祖国へ帰ることを許した。祖国に帰ったユダヤ人達は荒れ果てた神殿を建て直し、国づくりを始めた。町をつくり堅固な城壁で守ったが、それでも異国の支配下にあることには変わりがない。

 その後、ユダヤを支配したセレウコス朝は(前312年から前65年に、シリアを支配した王朝。セレウコス一世はアレクサンドロス大王の没後、5人の将軍によって分割されていた大帝国の東部を手中に収める)ついにユダヤ教を全面禁止にした。目障りだったのだろう。その時、一人の勇者が立ち上がった。ハスモン家のマッタテイヤだ。

 紀元前164年、エルサレムへ進撃し、ついに首都を解放した。この出来事をヘンデルが「ユダス・マカベウス」というオラトリオ(祈りの場所の意味で、聖書などのテーマからつくられた音楽劇のこと。聖譚曲ともいう)にしたしんだ。その中で「勇者を迎える歌」が歌われるんだ。しかし、100年後の紀元前63年、ユダヤはローマに滅ぼされてローマの属州になった。次回はイエス誕生。

[その31でーす] /welcome:

 アラブ諸国の多くは、現在の混迷する衝突の原因を、イスラエルが中東和平の原則である「領土と和平の交換」を拒否しているためと見ている。

 だが、リビア、イラクなど初めから和平プロセスの埒外に置かれている強硬派が和平交渉破棄を主張しているのを除けば、エジプト、ヨルダンなどすでにイスラエルと和平条約を結んでいる国はもとより、シリア、レバノンなど、和平交渉が進まずいらだちを強めている国でさえ、和平プロセスの枠組みを揺るがす強硬措置は取りたくないとの立場だ。

 1991年の和平プロセス開始以来、多くのアラブ諸国は「イスラエルとの和平を通じて地域の安定化を図り、経済発展の基盤を作る」との戦略を採択してきた。ここで強硬措置をとっても、アラブの停滞を自ら深めるだけだとの認識がある。

 さて、お話は紀元前63年、ユダヤはローマに滅ぼされローマの属州になった。その時代にイエスが生まれた。この時期、ローマの後押しでヘロデ(ローマの傀儡として即位したユダヤ王、在位前37から前4年。エルサレム神殿を大改築し、またユダヤ王となるイエスの誕生を恐れて嬰児を多数殺したと言われる)という男がユダヤ王として君臨した。イエスはユダヤ教の導師・ラビ(ヘブライ語で”我が師”。人格、識見の高いユダヤ社会の指導者を言う)として宣教をした。

 イエスが生まれたその時代に、例の「死海文書」が書かれたんだ。ざっと2000年前。ちなみに、エルサレムの「嘆きの壁」、あれは実は2000年前ヘロデが建てたエルサレム神殿の西側の壁なんだ。エルサレム神殿が今も残っていればピラミッドもかすむ建造物だ。しかし、紀元前66年にユダヤ人がローマ人に対して大反乱を起こして、ローマの8万の軍勢によって、エルサレムは徹底的に破壊したんだ。

 華麗を極めたエルサレム神殿は西側の壁だけを残して破壊され焼失した。その西側の壁が今も残る嘆きの壁なんだ。それじゃ死海文書は?

 これは仮説なんだが、破壊される前に、エルサレム神殿の多くの聖典と宝物がクムランの洞窟をはじめとする洞窟に隠されたと言われている。(死海文書は、イスラエルの荒野とヨルダンの砂漠にはさまれた死海のほとり、クムランの洞窟から発見された。壺に入った800本以上の洋皮紙の巻物と無数の断片には、2000年前と推定される古代ヘブライ語による文章がびっしり書き込まれていた。死海文書と新約(キリスト教)聖書との関係は、旧約聖書とユダヤ教徒の関係よりも深い、との証拠もあるとされている)。

 もちろん、クムランの施設もローマ軍に攻撃され破壊された。クムラン信徒達は死海の南西岸で抵抗を続けるマサダ要塞(死海南西部の高台にあるイスラエル最大の遺跡。ヘロデ王が離京として建設したが、後に要塞に改築された。ヘロデ大王没後はローマ軍が駐留したが、その後ユダヤ過激派が奪回し、籠城。紀元73年、ローマ軍の攻撃を前にユダヤ過激派960名全員が自決した)に合流し、ローマに対抗し続けた。

 紀元73年、マサダ防衛軍960名とともにクムランでも信徒達全員が玉砕したとも言われている。マサダ要塞の遺跡は今もその姿をよくとどめている。

 さて、多くの命が失われ、エルサレムの占領と神殿の破壊によって、第一次ユダヤ戦争は事実上終わりを告げた。ユダヤ人にとって神殿の消失は民族の精神生活の支えを失ったようなもので、その悲しみや苦しみは計り知れない。しかし、そんな荒廃の中に復興の兆しがあったのだ。

 神殿がなくとも人々は宗教生活を続けていたのだ。しかし、わずか60年ほど後には、またしても独立戦争が起こった。パックス・ロマーナ(ローマの平和)と言われたローマ帝国絶頂期、ハドリアヌス皇帝の時のことである。

 第二次ユダヤ戦争では、第一次ユダヤ戦争の時のように戦争の記録を書き残した者がいない。とにかく言い伝えによれば、ユダヤ人の最強砦50がローマ人によって破壊され、彼らの最も重要な居住地985が完全に破壊されたという。58万人のユダヤ人が殺され、ユダヤ全土が荒廃した。

 けれども、ユダヤ人はエルサレム内に住むことを禁止されはしたが、1年に一回、城壁内を訪れることが許され、その時神殿の廃墟で祈りを捧げていたという。それ以後、州の名前もユダヤからシリア・パレスチナと変えられ、宗教的弾圧も厳しくなった。そして、完全にユダヤがローマから追放されたのは西暦135年。ディアスポラと言われる離散が始まり、ユダヤ人は国を持たない民族として多くの迫害に耐えながら世界各地で生きていくことになるのである。完

参考文献・マンガ聖書の謎「死海文書」講談社より。

 

ここもアメリカのユダヤ人解説

まずはユダヤ人について

中東関係その3 中東関係その2 中東関係その1

アラビアのロレンス 英国の三枚舌外交 ユダヤ・ゲットー

富裕なユダヤ人 フランス革命

ロスチャイルド 差別・迫害