「27話・わが国の天皇について?その2」

パレスチナ問題の構図・26話「なぜか、わが国の天皇について1?」

 さて、今回の表題を見て驚かれたと思うが、旧約聖書を叙述するつもりだったのだが、少しだけより道をすることを許されよ。なぜかというと、無性にわが国のことについて語りたくなったのだよ。とにかく、わしの筆致がおぼつかなくなるまで、とりあえず日本の神話の生い立ちを探ってみたいと思うのだ。

 まずそれを語るには、日本という国号、天皇という称号についてこだわってみなければいけないだろう。

 初めて「天皇」という言葉が記録されるのは西暦で688年の日付がある、大阪府南河内国分町の古墳から出土した銅板がある。この年、天智天皇(中大兄皇子)が即位するのであり、天皇という称号は即位に際してつくられた可能性が高い。

 天智天皇は白村江(はくすきのえ)の敗戦の際(百済を救おうとして、結局、唐・新羅連合軍に惨敗する)、九州の防備を固め、連絡のために狼煙による連絡、そして遷都と、中央への人と物の集中、そのための体制の革新など行ったが、結局、唐・新羅連合軍は日本を襲わなかった。

 唐・新羅にとっては高句麗は目の上のたんこぶ(唐にとっては目のしたのいぼ)であった。高句麗は今の平壌を都としていた。そして、白村江の戦いの5年後、ついに高句麗を滅ぼす。この年が天智天皇が天皇に即位した年と同じなのである。日本の白村江の敗戦の翌年、唐の百済占領司令官は日本に使いを寄越したが、それは降伏せよといった趣旨のものでなかった。むしろ講和的な性格のものであった。唐としては、新羅とともに高句麗をうつにあったって、倭(日本)に背後から攻められることを恐れるという理由があった。

 その翌年、白村江の戦いの三年後には、高句麗の使いが日本にやってくる。当時、済州島は独立国家であったが、その王子がこの年やってくる。この王子はさらに3年後、高句麗が滅びた翌年に日本にやってくる(済州島は、地理上において微妙な立場にあった)。

 つまりある意味では、日本はその頃「もてもて」の状態であった。新羅も済州島(耽羅・たんら)も、百済を占領した唐も、海を越えて大軍を派遣できる倭の存在にビビッていたのだ。もし日本へ征討軍を派遣したら、唐も新羅も、高句麗を含めた他の二つの勢力に背後をつかれる恐れがあった。済州島(耽羅)にいたっては、自国の存続は、高句麗、新羅、唐などの強国の前では風前の灯火であった。

 そして、この時期に朝鮮半島に民族的意識が芽生えたように、日本にもまた民族として、また国家として自立することになる。それが西暦668年の天智天皇が即位した時であり、「天皇」という言葉を使った最初なのである。また、「日本」という国号が使われたのもこの頃である。「天皇」号の文字の最も古いものが記録された2年後の670年の「新羅本紀」に、「倭国が更(あらた)めて日本と号した」とある。

 要するに、日本という国号、天皇という称号は7世紀の末頃、天智天皇の治世に作られたのである。それは中国への対抗意識というよりも、国家としての自覚が存在している。中国の君主は皇帝という。今日の韓国人が「日本国天皇」という言葉に抵抗を感ずるのは、「皇」と言う文字は元来が中国の君主のもので、中国的世界の統一者で、天の神の意図をうけて世界を統治するものを意味する。日本に天皇という称号を認めれば、それは中国的世界の統一者であって、朝鮮半島は長い間、中国皇帝の属領として、王としか称することが出来なかった事実がある。

 いずれにせよ、「日本」と称し、「天皇」と言うとき、天智天皇は中国的世界から独立を宣言した。天智天皇の精神を受け継いだ弟の(彼の方が年上という説もありますが)天武天皇は、その自立の傾向をさらに進める。つまり「歴史の編纂」である。2に続く。

[その27でーす] /welcome:

 天武天皇勅命(ちょくめい)により、すなわち、天武10年、西暦681年、川島皇子(かわしまのみこ)以下6人の皇族と連中臣大嶋(むらじなかとみおおしま)以下6人の宮廷の官吏に命じて、歴史を編纂させたと「日本書紀」にある。しかし、この時は歴史編纂の事業は頓挫した。しかし、その40年後の「日本書紀」にはこれらの努力がその下敷きとなっていたと思われる。

 天武は歴史編纂事業が進捗(しんちょく)しないのにいらだって、舎人(とねり)のひえだのあれ(稗田阿礼)を相手に歴史の編纂を始めた。この内容が奈良時代に伝わったものが「古事記」だと言われている。もっとも「古事記」については、後世の偽書との噂もつきまとう。

 歴史の編纂が順調に進まなかったわけは、対外的と言うより対内的の問題であろう。神話を異にするのは、違う世界観、違う体制の主張であって、朝鮮半島には独自の神話とともに、中国史の一分派となりうる神話との二通りがある。日本の場合は、中国からも朝鮮からも苦情は来なかっただろうが、それよりも日本の過去をどのようにしたものかと、それはそれは並大抵の仕事ではなかったかと思われる。

 まず第一に天武天皇の正当性を主張しなければならない。それとともに、天智天皇の正当性も論証せねばならなかった。天智の皇子を殺して自ら皇位についた天武の正当性をどのようにして述べるか。蘇我氏は天智・天武両天皇によって滅ぼされたのだが、蘇我の血を受けた聖徳太子や、随に対して対等に渡り合った推古天皇も賛美せねばならない。

 天皇家の歴史に登場する多くの豪族のこと、また、血のつながりがあったかどうかとても怪しい、古代の王朝の人々をどのような位置づけにするか。さらには、多くの有力な氏族、国造(くにのみやっこ)の家では、独自の伝承や記録がある。それらの家を天皇と血縁にしなければならない。到底、まとまった記述など不可能であろう。

 そこで自己の記述の正当化するためには歪曲や黙殺は当然行われて、いわずもがなだが。いずれにせよ、「日本書紀」や「古事記」は日本の独自性を強調し、あわせて天皇家中心とした主な氏族が日本という国を形成し、発展させてきたことをどうにか記述し終えた。しかし、それだけでは不十分である。天皇に直属する一般庶民、帰化人などはどう扱うか。

 それは「万葉集」に答えがある。が、しかし、それを追求するにはわしの頭は到底ついていく余裕がない。ついには、単に参考文献を○写しているという馬脚を現してしまうの必至なので、この辺で終わりにしたいと思います。それでは皆さん、さよなら、さよなら・・・・。

参考文献・三浦朱門著・日本の体質「天皇」海竜社より。

ちなみに、著者は、「日本書紀」と「万葉集」の二つこそが、日本の中国文化圏からの自立と内的一体性を主張したものであると力説しておられます。

ここもアメリカのユダヤ人解説

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富裕なユダヤ人 フランス革命

ロスチャイルド 差別・迫害