「18話・インティファーダーのうねり・その2」

 「インティファーダ」と言う聞き慣れぬアラビア語が国際政治の基本用語になったのは、1987年末以来のことである。

 ガサ地区に自然発生的に起こった住民の占領当局に対する抵抗運動は、たちまち西岸に引火、占領地全体を巻き込む蜂起に発展した。民衆の一斉蜂起(インティーファダ)の始まりだった。1967年の占領以来比較的平穏に推移してきた占領地の情勢の急変はイスラエルの占領当局を驚かした。しかも抵抗運動が非武装の形を取ったため、イスラエルはその鎮圧に手を焼いた。

 抵抗の火は燃えさかり、パレスチナの大人たちが逮捕されると、子供たちが、そして女たちがそれに続いた。

 これまでコストがほとんどかからなかった占領が、非常に高くつく占領に転化した。実際のところ、イスラエルの占領地支配は「黒字経営」を続けていた。パレスチナ人から集める税金などから、インティファーダまでの20年間にイスラエルは5億ドルの「利益」を上げていたという計算もなされている。しかし、インティファーダ以降は、治安維持のための費用がイスラエルの経済の上に重くのしかかった。

 その頃、イスラエルには350名の常駐するジャーナリストがいた。インティファーダとその鎮圧の様子はテレビによって全世界の家庭に伝えられ、世界の良心を揺さぶった。イスラエルをマスコミの攻撃を救ったのは、1989年の東欧の解放であった。共産主義の崩壊と言う歴史的出来事に直面して、初めてマスコミは占領地を去った。もうひとつ、1990年8月以来の湾岸危機が、マスコミの注意を占領地から逸(そ)らした。

 皮肉なことに、サッダーム・フセイン大統領がイスラエルのイメージを完全に潰さないための大恩人になった。とはいえ、イスラエルに付いたイメージの傷は、対外イメージが変わったように、イスラエル国民の自己イメージもまた大きく変わらざるを得なかった。それが「よい占領」という矛盾した言葉の影に避難していたイスラエル国民の良心を突き刺した。

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