「14話・民族的存在か宗教的存在か?」

「13話・キリスト教社会の勝手な都合?」

パレスチナ問題の構図・12話「シオニズムとは?」

 パレスチナがオスマン帝国の支配に置かれていたとき(1516年以降)、この地方は比較的平穏だったという。キリスト教世界でユダヤ人の虐殺と迫害が続いたとき、ユダヤ人はこの地方に逃げ場を求めてきたほどであった。

 しかし19世紀の後半になると、ヨーロッパ列強諸国が、世界中を植民地化しようと、触手をのばし始める。

 フランスがアルジェリアを支配したのは1830年のことだった。1881年には、フランスはチュニジアを占領し、イギリスは1882年にエジプトを支配する。

 このころパレスチナは、老朽化したオスマン帝国の支配化にあった。そしてそこをイギリスとフランスが虎視眈々と狙っていたのである。

 パレスチナの悲劇が用意されたのは、こうしたヨーロッパの植民地主義的野心の中だった(イギリスの三枚舌外交を参照下さい)。

 1882年以来、ロシアではユダヤ人の虐殺(ポグロム)の嵐が吹き荒れていた。このあと起こったのはユダヤ人の青年運動は、ロスチャイルドの手でパレスチナに送り込まれ、この人々は約20のコロニー(集団居住地)をつくった。

 ロスチャイルド家は西欧に経済的・政治的影響力を持つユダヤ系大資本家である。ここで、心しておかなくてはいけないのが、パレスチナに送り込まれたのがいつも東欧のユダヤ人で、送り込んだのが西欧諸国だったということである。

 こうした動きのあとに、もっと組織的なシオニズム運動が起こってきた。ここで用いる「シオニズム」という言葉は、エルサレムのシオンの山に語源を持ち、パレスチナにユダヤ人国家をつくる運動のことである。

 1894年、フランスのユダヤ人将校ドレフェスが、ドイツに軍事機密を売り渡したとぬれぎぬを着せられ、裁判にかけられた。フランス革命以降、ユダヤ人の解放が各地で達成されたと考えていた同化派ユダヤ人の間には危機意識が増した。同時にこのころ東欧ユダヤ人の西欧流入が起こっており、それは西欧のプロレタリアートだけでなく、西欧のユダヤ人の地位もおびやかしていた。そして、西欧に反ユダヤ主義が育つ前に、この流入ユダヤ人を何とかしなくてはならないと考えられていた矢先の事件だった。

 ドレフェス事件を目撃したテオドール・ヘルツルは、同化によって迫害をまぬがれるというのは幻想であり、ユダヤ人問題解決のための唯一の道は、ユダヤ人の独立国家の創設である、と考えるにいたった。

 こうしてヘルツルの中心的な働きで、1897年には、スイスのバーゼルで第一回世界シオニスト会議が催される。この会議ではシオニズムの目的を「公法で保証されたユダヤ人のホームランドをパレスチナに築くこと」と決定した。

 やがてイギリスは、ユダヤ民族郷士(ナショナル・ホーム)の建設の後ろ盾となることを約束する「バルフォア宣言」(1917年)を出す。イギリスは、この宣言と引き換えにユダヤ人の第一次大戦での協力を取り付けたのである。このバルフォア宣言によって、パレスチナ人の悲劇が、ほぼ確定したと言ってよい。

 シオニズムの運動をこの時指導したのは、社会主義の洗礼を受けた者たちだった。離散の生活の間に、ユダヤ社会が労働者不在となり、商人、金融業の層が極端に膨張しているから、健全な社会に戻すには労働者にならねばならない、と言う考えに東欧移民の若者は賛同した。そして、彼らは「キブツ」で肉体労働者になった。

 キブツに代表される「土に帰れ」という運動のほか、シオニストは「ユダヤ人の商品だけを買う運動」などをくりひろげた。これはパレスチナ人の商店への襲撃や、そこで品物を買うユダヤ人の嫌がらせなどを導いた。

 ヘルツルが「政治外交路線」や「難民救済博愛路線」を取っていると批判して、ワイツマンの「実践シオニズム」がパレスチナに根を下ろして主流となり、やがてこれはベングリオンの「建国強硬路線」にとってかわられていく。

 ベングリオンの指導のもとに、ユダヤ人の独立国家をつくる基盤は着々と準備された。彼はシオニスト労働党マパイの指導者で、労働総同盟代表、ユダヤ人代表機関議長を経て、やがて初代イスラエル首相になる。このマパイ、労働総同盟に基盤を持つシオニストの主流の潮流が、そののち長くイスラエルを牛耳ることになるのである。

 これに対するもう一つのシオニズムの潮流のことにもふれておきたい。それは修正派シオニストである。これはジャポチンスキーに指導され、ユダヤの武装、パレスチナ人の追放、イギリス人との非妥協、ヨルダン川東西の岸を含む大イスラエル復活などを唱え、やがてベギン首相のイングルや、イツハック・シャミール(1987年の首相)のシュテルンなどの、ユダヤ人テロ組織を生み出していく。

参考文献・広河隆一著「パレスチナ」岩波新書より。

次回は、「キリスト教社会の勝手な都合?」

[13話でーす] /welcome:

 フランス革命を契機として、ヨーロッパの各国はユダヤ人を解放したかに見えた。ユダヤ系のキリスト教社会への同化の動きが大きくなった。ナチス台頭前のドイツでは、その様な人々が圧倒的に主流になっていったのである。

 しかし、シオニズムは同化に反対した。ヘルツルは、ヒットラーが権力を握るはるか前に、「反ユダヤ主義者は、我々の最も頼りになる友人」であるとか、「反ユダヤ主義的な国家は、我々の同盟者」であるとか言う発言をしたという。まるで、のちのシオニストとナチス政府の、一時の協力関係を予言するような発言である。

 シオニストとナチス政府の協力の代表的なものは、ユダヤ系の人々の輸送計画「ハヴァラー」であった。ナチスのアイヒマンが捕らえられたとき、こうした詳細が明らかとなり、彼が殺した人より、助けた(つまりドイツ支配地域外に移送した)人の方が圧倒的に多い、と言ったのはこのことだった。このほか、シオニズムの側からユダヤ系住民の名簿をナチスに渡し、一部金持ちのユダヤ系の人だけを助けようとした記録が残っている。

 ところで、ユダヤ系の人々を迫害したのは、ナチスだけに見られた現象ではない。差別の長い歴史を持つヨーロッパの各国は、「ナチスのあと生き残ったユダヤ系の人を自国で引き受けようとはしなかった」

 アメリカのように、収容所のユダヤ系の人の引き受け計画を、同国のユダヤ系住民が反対して潰した例もあった。また自国で引き受けようとしたユダヤ系団体と、それに反対するシオニストが激しく対立したこともあった。そしてほとんどの場合、ヨーロッパの各国は、ナチスが敗れたあとも、口では人道的なことを言っていながら、ユダヤ系住民を邪魔者にし、「追放先」としてパレスチナを考え、そこに国家をつくるシオニズムを支援したのであった。ユダヤ人国家イスラエルは、キリスト教社会にとっても必要な存在だった。

次回は、「ユダヤ人の定義」です。

[14話でーす] /welcome:

 シオニズム運動がイスラエルを建国したあと、自分たちで「ユダヤ人」の定義を考える必要が生じた。

 イスラエル国樹立宣言で「イスラエルは、ユダヤ人の移民と離散者の集合のために門戸を解放する」と言うときの「ユダヤ人」は誰を指すのか、またイスラエルでは憲法と同じ働きする「帰還法」で「すべてのユダヤ人はこの国に移住する権利を持つ」と言うときの「ユダヤ人」をどう定義するのかということが大問題になっていくのである。

 ポーランドのユダヤ系住民にオスワルド・ルフェイセンと言う人がいた。彼はナチスに追われて、森のなかの修道院にかくまわれた。そこで彼はキリスト教徒に改宗し、ダニエル神父となる。その後バルチザンの活動を通じて、彼はユダヤ系社会で英雄となった。彼は自分が、「ユダヤ民族」に属しているキリスト教徒なのだと考えていた。そして自分が「約束の地」と強く結びついていると信じていたのである。そしてやがて彼は1958年にイスラエルに渡り、「帰還法」の適用を求めた。イスラエル市民権を獲得しようとしたのである。

 イスラエルは騒然となった。”キリスト教徒のユダヤ人”など言語道断だというのである。

 こうして、「ユダヤ人はユダヤ教徒でなければならないのか」と言う問題が裁判で争われた。それならイスラエルの「ユダヤ人」のほとんどがユダヤ教を信じてない、と言う問題をどうするのか。しかし判決は「ルフェイセンはユダヤ人ではない」というものだった。これは「ユダヤ人」が民族的存在であるという定義が、宗教的存在であるという定義に敗れた例である。

次回は「シオニストとユダヤ教界」です。

まずはユダヤ人について

中東関係その3 中東関係その2 中東関係その1

アラビアのロレンス 英国の三枚舌外交 ユダヤ・ゲットー

富裕なユダヤ人 フランス革命

ロスチャイルド 差別・迫害