「嘆きの壁」みてね!

「8話・ユダヤ人とは誰か?続き」

「7話・ユダヤ人とは誰か?」

パレスチナ問題の構図・6話「サダト、イスラエル訪問」

 1973年の第4次中東戦争での大勝利をてこに(この時、わが国においてトイレットペーパーが無くなるとのアジテーションにより主婦などによる壮絶なる奪い合いが繰り広げられたことなど、いまは遠い昔)エジプト大統領サダトは、中東和平をなんとか解決しようと工作した。1974年から1975年にかけて、米国務長官キッシンジャーの往復外交の成果もあり、エジプトとイスラエル、シリアとイスラエルそれぞれの間で兵力引き離し協定が成立した。これに伴い、第三次中東戦争以来閉鎖されていたスエズ運河が1975年6月に再開された。

 そんな折、米国にカーター政権が誕生(1977)。サダトはなにかショック療法のようなものを必要だと考えていたのだろう。それがイスラエル訪問であった。サダトのイスラエル訪問は、確かに歴史の巨大な歯車を動かすほどのインパクトとエネルギーを秘めていた。

 しかし、同じ平和と言っても、サダトとイスラエルのベギン首相の考え方には決定的な開きがあった。

 サダトは、エジプトとイスラエルとの和平とパレスチナ問題解決をリンクさせようとした。イスラエルはシナイ半島から全面撤退し、エジプトと平和条約を結ぶ。と同時に、東エルサレムを含むヨルダン川西岸とガサ地区からも全面撤退し、そこに住むパレスチナ人は一定の過渡期、問題終了後自分たちの将来を自分たちの意思で決定する機会が与えられるべきだと主張した。

 一方、ベギンは、シナイ半島から全面撤退し、エジプトと平和条約を結ぶことには原則的に同意していた。しかし、統一エルサレムには永久にイスラエルの首都であるとして「分割」には絶対反対した。また、過渡期間後のヨルダン川西岸・ガサ地区の将来は、イスラエルを含む関係当事者への合意によって決定されるべきであり、パレスチナ住民のみが決定権を握っているべきでない、と主張した。

 両者の見解の相違は原則問題にかかわるだけに、全く狭まる気配を見せなかった。その後、双方においていくつかのいさかいがあり、一時和平のための動きを中断せざるをえなかった。この行き詰まりを打開するためにカーターが考え出したのが、キャントデービットでの”合宿”首脳会談である。

 三国の大統領、首相が二週間にわたり合宿状態で首脳会談を行ったのは現代史の中ではあまり例がない。サダトのイスラエル訪問の翌1978年9月5日から18日まで、米メリーランド州の大統領山荘キャンプ・デービットで開かれたカーター米大統領、サダト・エジプト大統領、ベギン・イスラエル首相の三者会談は、中東和平を何とか達成したいと願うカーターの政治的賭だったと言っていいだろう。

 しかし、カーターの仲介の努力にもかかわらず、サダトとベギンの見解の相違は甚だしく、一時両者は直接会談することさえも拒否したという。

 しかし、13回目の9月17日、やっと合意が成立、キャントデービット合意と呼ばれる二つの合意文書、「エジプト・イスラエル平和条約締結のための枠組」と「中東和平のための枠組」が三首脳によって調印された。

 さて、このキャンプデービット合意は、エジプトとイスラエル首脳が両国間の平和条約のあり方、さらにはヨルダン川西岸・ガサ地区の将来について合意したという意味で確かに歴史的な文書である。しかし、合意成立を第一目標としたため、パレスチナ問題を扱った「中東和平のための枠組」には曖昧な点が多く、基本的な問題については強硬な姿勢をくずそうとしないベギンの主張に近いものになった。

 たとえば、ヨルダン川西岸とガサ地区のパレスチナ住民には、過渡期間中「完全な自治が与えられる」となっていた。エジプトと米国は当然土地の開発や水の利用についても「完全な自治権」を持つと解釈した。しかし、イスラエルは「自治は住民の手に属さない土地や水にまで及ばない」、との解釈なのである。

 さらに、エルサレム問題にいたっては、エジプトとイスラエルの見解はあまりにもちがっていた。とにかく、その後の展開は双方の「いいっぱなし」という印象は否めないもので、とても実りあるものとは言えなかった。アラブ、特にパレスチナ人にとってはなんともすっきりしない不満が残るものになった。

 まあ、なにはともあれ、アラブ第一の大国エジプトとイスラエルとが和平を結べたことは何にも勝る収穫ではあったが。一国とはいえ、アラブ国が初めて、しかもエジプトがイスラエルの存在を公式に「認めてしまった」と言う、既成の事実が出来たのだから(現在の2000年では、イスラエルは当然あるべきしてある国と思えるだろうが、アラブ国にとってはイスラエルの建国は青天のへきれき、寝耳に水なのかも知れない)。

 まあ、なにはともあれ、とにかく、エジプト・イスラエルにとって膨大な財源を軍備につぎ込む必要性は確実に減少した。しかし、エジプトの失ったものは大きかった。平和条約が調印されるとすぐ、アラブ諸国はバクダードで外相・経済相会議を開催し、”裏切り者”エジプトへの制裁措置を決めた。制裁措置にはアラブ連盟へのエジプト加盟資格の停止、アラブ連盟本部のカイロからチェニスへの移転、エジプトに対する経済援助の停止などが盛り込まれていた。次いでアラブ諸国は次々にエジプトとの国交を断絶すると発表した。「アラブの盟主」エジプトは、一転して「アラブの孤児」となってしまったのである。

 サダト自身は、エジプトとイスラエルとの単独和平を目指したのではなく、パレスチナ問題を含めた中東和平の包括的な解決を試みたのだと思う。しかし、結果は違っていた。

 1981年10月6日、サダトは戦勝パレード閲兵中に凶弾に倒れた。”戦勝”とはもちろん、第4次中東戦争での(イスラエルに対しての)エジプトの勝利を意味している。まさに歴史の皮肉としか言いようがない。

 サダトを狙ったのは、イスラム世界で急速に台頭してきた原理主義(ファンダメンタリスト)のグループだった。サダト襲撃事件の中心人物の一人は後に裁判でこう発言した。「私はサダトを殺しました。しかし、私には罪はありません。私は信仰と国家に為すべきことをしただけですから」

 何と、その後、十余年後のラビンを殺害したユダヤ青年と酷似していることだろうか。まるで精神的双生児「うりふたつ」ではないだろうか。宗教的にファジーな日本人にとってまるで宗教とは恋愛に見境がつかなくなった中年の哀れな男のようではありませんか。それほど宗教とは人を狂わせるのでしょうか。それが不謹慎な言いであれば、国を思う「原理主義」とはとてつもなく人を狂わせる麻薬と言えるでしょう。

 しかし、今の日本国においては少量の麻薬が必要かも知れませんが、とにかくこの世は「目には目を歯には歯を」で、いったいぜんたいその円周から外界へ逃れられことは出来るのでしょうか。逃れられるとしたら、それは「許す」と言う「寛容」なのでしょうか。であるなら、宗教とはいったいぜんたい何をしているのでしょうか。誤解を恐れずに言うなら「神」に祈ると言うけれど、神に頼り過ぎではないでしょうか。人間としてもう少しお互いが頑張る必要があるのかも知れませんね。でないと神も我々を見捨てるかも知れません。と言うことは、神から離れられない人間の宿命と言えますね(神は決して人間の苦しみをはかるだけの概念ではないのですから)。

 次回は「ユダヤ人とは誰か?」をお送りいたします。

[7話でーす] /welcome:

 ユダヤ人についてはこのページの最下部に赤く記した「まずはユダヤ人について」を参照してもらえばいいのだが、とても気になることなのでもう少しこだわってみたいと思う。ちなみに、参考文献は広河隆一著「パレスチナ」岩波新書より、断章断章に終始した。

 「ユダヤ人、それは民族か宗教か」

 とにかく「ユダヤ人」と言う言葉は、あまりにも問題を含んだまま使用されていると思う。「ユダヤ人」という言葉が日本でも氾濫している。彼らに学べばお金が儲かるとか、世界を動かしているとか(シオンの長老の議定書など)はては日本の円高や貿易摩擦までが彼らユダヤ人のせいだとか、ついには日本のルーツはユダヤ人なんだなんてとんでもない眉唾物まででてくる始末だ(実はわしはそれでユダヤに興味を持った)。もうホントユダヤに関しては、あーだこうだと枚挙にいとまがない。まあ、ことほど左様にユダヤという言葉が目についてしまうということだ。

 だからだろうか、自国の苦難を彼らユダヤのせいにする風潮があるようだ。こうした風潮とヒットラーの暴虐とは一つにつながっている。そのことを我々は肝に銘じなくてはならない。

 さて、想像力を働かせてみよう。ユダヤ人という民族がいるのか。それとも、人種なのか?一つの宗教を信じるユダヤ教徒と呼ぶべき存在なのか?それともそれらを合わせたものなのか。

 英和辞典で”JEW”を引くと、ユダヤ人、ユダヤ教徒、さらに驚くことに”守銭奴”なんぞと書かれているではないか。これは欧米の辞書に倣いこうなったのだろうが、そのこと自体に問題を孕んでいると思う。

 それでは一般に信じられている「ユダヤ人」の定義や特質を列挙してみよう。

 まず身体的なものがある。これは「ユダヤ人」は、たとえば”わし鼻”(鉤「かぎ鼻」ともいいます)が特徴であるとか、聖書時代から続く同じ血を持つとか言うものだ。これは本当だろうか?

 ニューヨークは、世界で一番ユダヤ系住民の多く住む都市であり、その人口はイスラエルのユダヤ人より多いが、そこの人々の間でワシ鼻の占める率は、アメリカの他の一般の中のワシ鼻の占める率より少ないという。よくぞ調べてくれたもんだと思いますが、また血液調査では、Aという国に住むユダヤ系住民と、Bと言う国に住むユダヤ系住民との間における血液の特徴の差は、Aの国およびBの国の中のユダヤ系住民と非ユダヤ系住民との差よりも大きいという結果がでている。

 ユダヤ人が同じ血を持ち、同じ身体的特徴を持つ民族だと考えているなら、一度イスラエルに行ってみるべきだと思う。そこでは、インドから来た人々は、全くインド人の体型でターバンを巻いており、アフリカの真っ黒な人々、中国、東欧の人々、アラブの特徴をすべて持つモロッコやイエメンの人々がいて、まるでアメリカの如く「民族のルツボ」なのだそうだ。

 イスラエルのマンガに面白いのがある。ヨーロッパから来たユダヤ人がイスラエルは白人の国だと思ってきてみたら、そこには肌の色が黒色も褐色も黄色もいて、その各自おのおのが自分はユダヤ人だと言ったのでがっかりして国を出ていくという、笑うに笑えない、我々もつい勘違いしがちなイスラエルとユダヤ人の表象(イメージ)を如実に示している、ほんの何コマかのものなのだが。

同じく「ユダヤ人」続く。

[8話でーす] /welcome:

 アメリカがイスラエルにべったりなので、業を煮やしたアラファト議長は、最初ロシアを訪ねた。しかし、今のロシアは過去のソ連ではなく、「宣言の時期は(パレスチナ国家の)、今後の事態の進展をきわめて注意深く考慮する必要がある」などと、昔日の面影はなくすげない返答に終始した。プーチン大統領にしても、「ロシアはクリントン大統領やイスラエルのバラク首相と緊密な連絡を取りながら解決に協力する」、なんぞと優等生的返答であった。アラファト議長は、他に北欧首脳と相次ぎ会談、その後は中国へも訪問したと言われておる。とにかく、中東和平の関心は、イスラエル、パレスチナに限らず世界全体に共通する。エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、すべてにとって聖地だ。それ故、国際世論に訴えかけるアラファト議長の現在の心境は推して知るべしだろう。とにかく、パレスチナの「独立」自制要請が相次いでいるということだ。

 さて、人間の体型にはいくつかの神話があると言われている。たとえば、イギリスで、あの人がユダヤ人だ、と言われれば、たいがいが東欧の人の体型をしている場合が多い。つまり、イギリスに来た東欧の人々の中に占めるユダヤ系の人の比率が多いと言うことなのだ。ところがいざポーランドに行ってみると、イギリスのユダヤ人の顔つきの人が非ユダヤ人の住民の中にもいっぱい居ることに驚かされると言う。

 もし聖書の時代のユダヤ人という存在と、最も近い姿形(すがたかたち)をもち、同じ血を受け継いでいる人々を探すと、そうした人は現在のパレスチナ人の中に見いだせるだろう(イスラエルとパレスチナの相克を考えると何か変な感じがするが)。

 しかし、旧約聖書を忠実に読むとモーゼもダビデもソロモンも雑婚をし、混血を繰り返しているという。ソロモンは700人の妻と300人の側女をもち(目眩がしそうだが)それぞれの出身の国の宗教を自由に拝ませ、子供もユダヤ人という枠組みから排除したわけではなかった。そのソロモンも、ダビデとヒッタイト人の妻との間に生まれている。

 ユダヤ人が一つの身体的特徴を伴う民族であると規定されたときに、この人々が未曾有の大虐殺に遭ったというのはたんなる偶然だろうか。それはナチスの「ニュールンベルク法」である。ナチスは、ユダヤ人はアーリア人の純血を汚すから同化を認めない(ドイツ人にさせない)と決め、その人の祖父母のうち三人までがユダヤ人なら、その人は「ユダヤ人」であると規定した(ヒットラーはユダヤ人の中にマルキストが多いことにとても神経質になっていた。シオニズムには社会主義的雰囲気、特にキブツなどはその最たるものだろう)。この制定により、ユダヤ人は隔離され、追放され、そしてやがて虐殺された。

 さて、ユダヤ系の人は頭がよい、と言うのは当たっているのだろうか?それについては次回と言うことで。

☆注釈。1960年代、「キブツ(共同農園)」とは、イスラエルは旧約聖書以来の歴史をもつ西欧的な国で、悲劇の中から希望の国として現れた国、そしてそのキブツはその人々がうちたてた理想の国のユートピア、と言うわけで、日本では左翼と呼ばれる人々が、多かれ少なかれ同じイメージを抱いてイスラエルに渡ったと言われている。キブツでは皆が平等に働き仕事は自分で選択でき、給料と言えば、週一回手渡されるタバコ銭程度のものだった。コミュニズムのスローガンである「能力に応じて働き、必要に応じて取る」、と言うのが新生イスラエル国「キブツ」に於いての眼目であった。

          

まずはユダヤ人について

中東関係その3 中東関係その2 中東関係その1

アラビアのロレンス 英国の三枚舌外交 ユダヤ・ゲットー

富裕なユダヤ人 フランス革命

ロスチャイルド 差別・迫害