「嘆きの壁」みてね!

「2話・交渉決裂」

「1話・イェルサレム」

パレスチナ問題の構図・序章

 小国と呼んでもおかしくない、人口1600万程度のシリアが国際的響きを帯びていたのは、アサド大統領の存在があったからだ。アラブ人の誇りゆえに、イスラエルとの和平交渉で示した毅然たる態度は、アサド大統領を冷戦後の新世界秩序を構築しようとする米国の無視できない挑戦者にした。

 そのアサド大統領の死去は、東アラブの覇権をかけて繰り広げられてきた域内指導者たちの政治ゲームにひとつの区切りを示すものと言える。アラビア語で「ライオン」を意味するその性とは裏腹に、アサドは常に沈着冷静、あらゆるシナリオ、不確実要素を計算し尽くしたうえでなければ、絶対に行動を起こさなかった。

 「石橋を叩いても渡らない」とまで言われた「慎重居士」。そんなアサドが、1967年にイスラエルに占領されたゴラン高原奪還へ向け、73年の第四次中東戦争でエジプトのサダト大統領と手を組みイスラエルに先制攻撃を仕掛けた。

 さて、アサドなき後の中東状勢は、今現在キャンプデービット(米メリーランド)にて、クリントン大統領(有終の美を飾りたい)、バラク・イスラエル首相(辛うじて政権を維持している)、アラファト・パレスチナ自治政府議長の三者により、パレスチナ和平交渉の打開を目指し、協議が続けられている。しかし、米高官の話によれば、「イスラエル、アラブ側双方の主張の溝は深い」とし、今後も混迷の度合いは尚も深まる様相を呈している。

 さて、キャンプデービットと言えば、アメリカ大統領カーター、エジプトのサダト、イスラエルのベギンが一堂に会して「キャンプデービットの合意」なる文書を交わした思い出深い場所である。

 これは、エジプトのイスラエルとの単独かつ直接の対話の開始に勇気づけられたカーター大統領が威信をかけて調印に乗り出したものだ。

 その時代、サダトがイスラエルと対等に戦ったとしても戦力的に見ても、アラブ側はイスラエルには到底かなうものではなかった。仮に、アラブ側が通常の軍事力でイスラエルを追いつめたとしても、それは核戦争の悲惨さをアラブ世界にもたらすだけだろう。そのことについては後述することにして、サダト、そしてアラブ側にとってはイスラエルという国はその時代にはもうすでに否定しがたい現実になっており、交渉以外には選択の余地のないことをサダトは読みとっていたのだろう。

 さて、そこで核さえも保持していると言われるイスラエルの軍事力の強さについて少しお話ししたいのだが、それ以降、パレスチナ問題の構図を探りながら今の現状に至ったまでを書き続けることが出来るなら拍手喝采、それは望外の喜びであります。

パレスチナ問題の構図1に続く。

[1話でーす] /welcome:

 中東和平最大の焦点である「聖地エルサレム」の帰属問題。米側は東エルサレムの一部を「共同管理」と提案、パレスチ側は「完全主権」を主張している。イスラエル筋(7月23日付)によると、バラク首相はクリントン大統領の沖縄サミット帰国から一日以内に大きな進展がなければ決裂のまま首脳会談を終了させると揺さぶりをかけるつもりであると言うし、果たして「エルサレム問題」は合意が可能なのであろうか?

 さて、「エルサレム」と言う(神々しい)響きはそのことに関してたいした知識もないわしにさえも、なにか波乱含みな雰囲気を予感させてならない。そこでその「エルサレム」について遅まきながらお勉強してみることにした。だって、ここまで来たら避けて通れない事柄だものね。と言うわけで、またまた参考文献を引っぱり出して頼まれもしないのにいつもの如く孤軍奮闘と相成るわけだ。

 まあ、とにかく、いつも新聞に載っかている「ヨルダン川西岸」というところに約束の地と言われる「エルサレム」、そして死海がある(ここで貴重な書物がめっかたそうですね)。であるからして、その場所を放棄することは、イスラエル側にとっては支配を放棄するに等しい。

 さて、ここで突然だが「カリスマ」という言葉に言及してみることにする(今回の問題に関係しますから)。カリスマとは、わしらが思っている意味でなくて実は「贈り物・下賜品」が原意であり、旧約聖書での(前14世紀)、例の捨て子であり流浪ののち羊飼いとなっていたモーセの指導者の地位は、神の召命、すなわち神の贈り物・下賜品なのであった。

 イスラエル人にとって、どのような人もすべて生まれたときはただの人である。モーセ以下ダビデや預言者たちが偉大なのは、神に召されて使命を果たすというのが基本にある。つまり、神から使命を託された者のみが指導者となるわけである。さらに言えば、人間は神の前にすべて平等である、その「神の前」が肝要なのである。したがって、その使命によって地位についたからと言って、それを自分の所有物のように譲渡することは原則として出来ないと言うのが「カリスマ」指導者である。日本では誤用して全く逆の意味に使われているが、ともあれ、「エルサレム」がイスラエル人の歴史に登場するのはダビデの時代である。

 紀元前1004年にダビデは王になり、へブル王国の王政を固めた。また、士師記(ししき)の前のヨシュアの始めたカナン征服を完全に成し遂げ、部族の統一を回復する(詳しくは旧約聖書をご覧ください)。キベアからヘブロンに首都を遷した後、「エルサレム」を攻略して首都としたのもこの時代である。

 ソロモンはそのダビデの子であり、父の死とともに紀元前961年に王位を継承した。この治世の時、貿易を盛んに行い、エルサレムに壮大な神殿を築くなど栄華を極める(シバの女王は有名ですね)。ソロモンの死後、反乱が起こり、北(サマリア地方)は十部族のシュケムを首都としたイスラエル王国、南は二部族(ユダとベニヤミン)のエルサレムを首都とするユダ王国とに分かれる。

 ユダ王国は紀元前593年、新バビロニアにエルサレムを攻略される(いわゆるバビロン捕囚か)。この新バビロニアは、北のイスラエル王国を滅ぼしたアッシリアを征服して建てたセム系遊牧民の王国であった。この二代目のネブガドネザルの建築事業で有名なのが旧約聖書の「バベル(ヘブライ語でバビロン)の塔」の記述となっている。なお、ユダ王国滅亡時にソロモンの建設したエルサレム神殿は破壊されている。次回も「エルサレム」です。

1話の参考文献・ユダヤ問題研究会編著「ユダヤのすべて」日本文芸社。

序章の参考文献・高橋和夫著「アラブとイスラエル」講談社現代新書。

[2話でーす] /welcome:

 悠長に「エルサレム」の歴史をどうのこうの言っていたら「中東首脳会談」が決裂してしまった。イスラム原理主義の「ハマス」なんぞは、対イスラエル抵抗運動には「ジハード・聖戦」しかないと息巻いている。さらに、レバノン南部を解放したヒズボラ(イスラム教シーア派民兵組織)のように、シオニストに対する武装闘争こそがパレスチナ解放につながるのだとこれまたえらい物騒なことを言っている。

 とにかく、アラファトは東エルサレムのパレスチナ人の「広範な自治権」や旧市街のイスラム聖地の「管轄権」を提示している。それに対して、バラク首相は、和平に消極的な連立与党三党が政権を離脱するなど政権崩壊の危機を背にしての交渉ゆえ、「エルサレム分断」とか「東エルサレムを売り渡すのか」などの非難を受け、ぎりぎりの選択であることは否めない。その失望感が「アラファト議長が重大な決断をためらったことは不幸だった」の落胆のコメントに現れている(バラクは会談決裂の場合、騒乱に供えた危機管理内閣を作るため野党リクードとの大連立も視野に入れているらしい)。

 ちなみに、バラク首相の会見によれば、イスラエル側は、1967年の第三次中東戦争で占領した入植地の幾つかをイスラエルに併合する一方、エルサレムに隣接するアブディスをパレスチナ国家の代替首都とすることを提案した。イスラエル各紙によると、この提案は、エルサレム旧市街のイスラム教の聖地までの安全回廊の確保、パレスチナ側へのエルサレムの自治権移譲も含まれていたという。

 エルサレム問題では、東エルサレム全域の「完全主権(エルサレムはパレスチナ国家の首都である)」を求めるアラファトにとってはとても承服できるものではなく、安易な妥協をすれば本人の生命さえあぶないだろう(とりあえずムバラクに会いにカイロに向かったそうな)。クリントンの仲介案「東エルサレムの共同管理(共同主権)」では、とても満足できるものではないらしい。

 とにかく、アラファトは、合意の成否にかかわらず、交渉期限の9月13日を期して、パレスチナの独立国家の樹立を宣言すると公言してはばからない。このまま行くと、イスラエルとパレスチナ自治政府との対立がますます先鋭化され、さらには武装闘争の機運も高まるのではと外電各社は伝えている。

 ただ、読売新聞の7月27日付の朝刊では「会談終了後に三首脳が発表した”三者声明”では、イスラエルとパレスチナ双方は、合意を速やかに達成する努力を継続するとしており、パレスチナが一方的独立宣言の期限とする9月13日をにらみ、8月下旬にも交渉が再開される可能性もある」との楽観的観測も伝えているのだが・・・とにかく、ハマス指導者などによるテロ再発などの予告が懸念される。

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