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帰郷

惣田正明作

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last updated 10/24/97

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 駅を降りると両側に自転車置き場があって、自転車が並んでいる。その間を通り抜けると国道にでる。左手にたばこ屋があって、右手にはバス停がある。バス停の向こうには橋があって、橋を渡ったところ、右手に銀行、左手にガソリンスタンドが見える。
 随分変わってしまった。銀行もガソリンスタンドもなかった。銀行のあるところには、百年以上も経った古い屋敷があり、そこには、直径一メートル以上もある松の木が生えていた。バス停から見ればその松の木がすぐ目に入ったものだ。
 私は、銀行の方へ歩き出した。橋からは海が見えた。ここは港で、機帆船が盛んに往来していたが、今では船もほとんど見えない。橋を渡るとすぐに右に折れ、川に沿って歩いた。銀行の隣は空き地だ。向こうに建てかけの家が見える。その向こうにはアパートが二棟建っている。
「そうだ。その辺りまでだ。」
私は思った。
 古い屋敷の向こうには、製材所があり、その向こうには貯木場が広がっていたのだ。何もない。一体どうしてしまったのだろう、彼は。
 彼は、高校の同級生だ。同じクラスになったのは一年だけであるが、私のような理科系の人間から見れば随分文学青年に見えた。いつも本を読んでいた。特定の本ばかり読んでいたようには思えないが、H大へ行ってロシア文学を勉強するのだといつも言っていた。その彼がK大を選んだのは何か理由があったのかも知れない。しかし、そのことについては何も知らない。私はT大が目標であった。そのために一生懸命勉強もしたが、結局は志望校を下げて、O大にしていた。その頃のことだ。彼がK大を受けるということを聞いたのは。そのとき、私は、正直言って、彼に負けたくないと思った。もう秋も終わりの頃だったろう。私は、急遽K大に志望を変えた。運よく二人とも合格して、同じ大学に通うことになったが、大学時代は時折彼が訪ねてくるぐらいで、それほど深いつきあいはなかった。
 川の向こうには、駅が見えた。昔の面影が残っているところと言えば、この辺りだけであろうか。それでも、駅の下に見えていた民家はもう姿を消し、ススキの穂が風に揺らいでいるだけだ。その民家の一軒に彼の初恋の少女が住んでいたということを、幾度か聞いたことがある。
「聖彦。俺さあ、小説書いているんだけど、また読んでくれよな。少年の初恋物語なんだけど、実は、俺の初恋物語なんだ。」
 高校時代、こんなことを言ったことがあった。そして、その小説の内容を長々と話してくれたのだが、当時の私には、それほど興味があったわけではない。ただ、私とは違った種類の人間として、魅力を感じていたし、それより、彼には人間として私に強く訴えるものがあった。こうした少年の思い出を大切にし、それを小説に書こうとしている姿勢に対して。だからこそ、そのことを今でも覚えているのだろう。

「彰ちゃんどうなの。昌子ちゃん? 桂子ちゃん? それとも芳子ちゃん?」
「私知ってるわ。彰ちゃんの好きなのはねえ・・・」
「誰なの、早く言って。」
「芳子ちゃん。そうでしょう?」
彰は、黙ってうなずいた。
「やっぱりそうなんだ。で、芳子ちゃん、芳子ちゃんはどうなのよ。彰ちゃんのこと好きなの?」
「知らないわ、そんなこと。」
 芳子はそう言うと、ランドセルを揺すりながら、どんどん橋をどんどん音を立てながら駆けていった。

 どんどん橋というのは、この前にある川に掛かっていた橋だと聞いている。板が張ってあって、駆けるとどんどん音がしたので子供たちがそう呼んでいたのだそうだ。最近のコンクリートの橋では味わえない趣のあった橋なのだろう。それが、その橋なのか知らないが、知らない方がいいと思った。
 やがて、川沿いの道も終わりだ。橋の向こうには田園風景が広がっていて、かなたに八幡様の森が見えていたのだが、今では埋め立てられ、大きな体育館らしきものがたち、グランドが見えている。反対側は古い家並みだ。
 私は家並みの方へ歩き始めた。農家なのだろうか、槙囲いの中に畑を耕してある。その奥には立派なコンクリート造りの立派な家が建っている。道の反対側には鉄工所があって、隣は石屋さんだろうか、様々に刻み込んだ石の彫刻が置いてある。最近の機械彫りではなく、手彫りの彫刻だ。それほど巧みなわざとも思えないが、何ともいえない素朴な味がにじみ出ている。しばらく見ていたが、考えて見れば、仕事場らしいものといえば、トタン屋根の木造の小屋ぐらいだ。あばら屋に近い趣。突然、戸が開いて、一人の老人が出てきた。チラッと私の方に目をやった。色黒で背の低い老人。目だけが光っている。
 「たくさん石の彫刻がありますが、お仕事なんですか。」
 「昔、石屋をやっていたんですよ。墓石とかそういうものを。でも、もう今は、好きなものだけ、趣味で彫ってるんです。何か、気になりますか。」
 「いや、別にそういうわけではないんですが、不思議なのが目に入りましてね。」
 「ああ、この天狗。若いとき、戦争で支那へ行っていたんですが、その時に見た天狗を彫ってみたんです。日本の烏天狗にそっくりでね。」
 「支那? 支那というと中国ですか。中国に天狗がいたんですか。」
 「そう。支那の天狗・・・。」
 老人は急に目の前に天狗を見ているかのような真剣な眼差しになって言った。
 「まだ、満足な出来じゃあないんだ・・・。」
 なるほどと思った。これらの彫刻には、一種独特の雰囲気が感じられたが、それは、この老人の思いであったのだ。中国で見た天狗が果たしてなんだったのか、本当に天狗を見たのかはさておき、思いを込めた老人の魂が感じられた。さらに話しかけようとすると、「売り物じゃありませんのでね、見るだけですよ。」そう言ってすぐ横の路地に入っていった。
 老人と別れると、道を先に進んだ。しばらく民家が続いている。
 向こうに、大きな倉庫のような、蔵のようなものが見えてきた。白壁に人見板の昔ながらの建物だ。道は四つ辻にでる。左に折れると、酒屋の看板が見える。
 ――そうか、造り酒屋だったのか。
 中に入ってみた。
 「ごめんください。」
 返事がない。店内を見回すと、大手メーカーの清酒、ビール、ウイスキーにワインなどが並べられていて、普通の酒屋とさほど変わらない。商品を積み上げたりしていないところだけが、なんとなく造り酒屋のイメージを保っていると言うところだろうか。
 「ごめんください」
 もう一度呼んでみた。
 今度は、奥の方で返事がした。
 「いらっしゃい。何にしましょうか。」
 しばらくして、三十ぐらいの女の人が出てくると、そう言った。
 「造り酒屋のようでしたのでね。ここで造っているお酒でも買おうと思って。」
 「あらまあ、どこから来られたんですか。うちも一応造り酒屋で、造ってはいるんですけど、このあたりの人は、灘とか伏見とかの名の通ったお酒を好むようで、お神酒として以外は、あんまり出ないんですけど。ほら、ここにあるのがそうなんです。」
 そう言って、棚の隅の方から一升瓶を取り出してきた。
 「これいただきます。ところで、ここは古いんですか。」
 「古いって、建物ですか。」
 「いえ、造り酒屋ですけど。」
 「酒屋ですか。創業二百ぐらいになると聞いていますけど・・・。私、よそから来ているもので、あまり詳しくないんです。お父さんに聞いてみましょうか。」
 そう言うと奥へ行きかけた。
 「いや、いいです。駅前にあった製材所、どうなったか聞いてみようと思っただけですから。ご存じありません?」
 「いえ、あのあたりとは校区が違うもので、私はあんまり・・・。」
 「そうですか。それじゃ、結構です。」
 私は店を出た。彼のことがまた頭に浮かんでいた。これまで話した石屋の老人といい、この造り酒屋といい、都会に住むようになった私からみれば、いかにものんびりとした田舎の感じに、彼の思い出がピッタリ重なっているように思われたのだ。
 気がついてみると、大通りに出ていた。国道だ。国道沿いは、新しい町並みとなっていた。自動車屋あり、スーパーあり、カメラ屋に花屋があって、車もひっきりなしに通り、騒々しいほどだ。一気に夢から現実に引き戻された感じがする。一升瓶がズッシリ重く感じられた。
 少し先に赤いポストが見えた。
 ――そうだ、切手を買わなければ。今日中に送っておかなければならない封書がある。
 私は、郵便局に入った。
 「いらっしゃいませ。」
 若い女の人の声がした。見ると二十歳前後の女の人が、窓口で微笑みかけていた。
 「これを出したいのですが、いくらになるでしょう。」
 私はカバンの中から、少し大きめの封筒を取り出して聞いた。女の人は、はかりにそれを載せると「七十円ですね。」とにっこり笑って答えた。
 「出しておきますから。」
 封筒の表に七十と数字を書き入れながらそうも言った。
 「じゃあ、お願いします。はい。これ。」
 お金を手渡しながら、郵便局の中を見回した。隣の窓口には、年配の女性がいる。奥の方では、おそらく局長さんだろう、しきりに何かの書類に目を通している。
 「あのう、駅前にあった製材所、ご存じですか。」
 「えっ!」若い女の人は驚いたようにこちらを見た。
 「あの銀行のところに住んでいた人なんですけどね。」
 「あ、Sさんのところですか。」
 隣にいた年配の女性が口を挟んだ。
 「ええ。そうです。二十年ぶりに来たんですが、すっかり変わってましてね。そこに、私の高校時代の同級生がいたんです。」
 「十年ぐらいですかしら。あそこに銀行ができたのは。どういう事情があったのかは知りませんけど、私などは、ずいぶん思い切ったことすると思いましたけど。局長さん、ご存じでしょう。」
 年配の女性は、後ろを振り返って言った。
 「そうねえ、あの時は、みんな驚いたようでしたね。製材所はまだありましたけど。製材をやめたのは、この二三年じゃないですか。今は、私の家の近くに住んでいますよ。」
 「じゃあ、ご存じなんですね。場所、教えていただけませんか。」
 「ちょっと待ってください。地図書きますから。」
 局長さんは鉛筆を走らせながら、こう付け加えた。
 「結構初めての人には、わかりにくいところなんですよ。」
 「さあ、どうぞ。若いしさんとお知り合いなんですか。あの頃ですかね。若いしさんが帰ってきたのは。いい大学出ているって話で、うちの息子も勉強見てもらったことがあるんです。」
 局長さんは地図を渡すと言った。
 「大学も同じでして、てっきり、大学に残るんじゃないかと思っていたんですが、いつの間にか音信不通になりましてね。久々にこちらに来ることがあったので、訪ねてきたのです。」
 私も、それに応じた。
 「どうも、いろいろありがとうございました。郵便のほう、よろしく。」
 そう言って出かけると、「ありがとうございました。」と、また若い女の人の声がした。私が出るのと同時に、二人が中に入っていき、また「いらっしゃいませ。」という声がした。

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