「お客さん、どこからいらしたんです?。」
 郵便局を出ると、すぐ隣にタクシー会社があったので、そのままタクシーに乗って、彼のところを訪ねることにしたのだった。
 「今は、東京に住んでいるんですけどね。昔、あの向こうの山の麓に住んでいたことがあるんです。家内は東京生まれで、父が死んでからはこちらに来ることも、とんとなくなりましたが。」
 国道に沿ってしばらく行き、駅前を通り過ぎて右手に大きくカーブすると、前方の彼方に見え始めた山を指さして答えた。
 「それに長いことアメリカにいたんです。七年ぐらいになりますかねえ。」
 「私はこんな話はするつもりはなかったのに、と思いながら窓の外に目をやった。鉄道沿いに国道は走っている。やがて、左折して国道を離れ踏切をわたると、民家の向こうに田園風景が広がった。
 「それじゃあ、このあたりのことも少しはご存じなんですね。」
 「いや、父がよそから来ていたもので、父の仕事の関係以外のところはあまり知らないんです。このあたり、高校時代に一度歩いたことがあるくらいです。」

 ――あれは、高校二年の頃だったろう。高校時代というのは、それぞれにいろんな悩みを持っているものだ。今考えてみれば他愛もないものが多いのだが、ご多分に漏れず、私もそんな悩みを持っていた。家で勉強する気にもなれず、気分転換に散歩に出かけることにした。私の住んでいたところは、山の麓とは言っても一応市街地であった。山に登るという手もあったが(たいていはそうしていたが)、その日は、どうせなら遠くに行ってやろうと考えた。それで、南に向かって歩き始めたのだが、彼の家がその方向にあるというのも理由の一つだった。市街地を通り抜けると右も左も田圃が広がっている。そこを歩いていると晴れやかな気分になった。季節は初夏の頃だっただろうか。田植えの準備をしていたように思える。歩いているだけで汗ばむほどだった。水田を駆け抜けてくる風は、実に心地よかった。右手には、田圃の彼方、郷土史で習ったお寺や、平家を追って上陸した源氏が白旗を掲げたと伝えられている山が、小さく見えた。左手の田圃の彼方には、松林が延々と続いていた。

 そうだ、松林があった。
 車の窓からその方を見てみたが、道沿いには結構家が建ち並び、喫茶店までできている。しかし、田圃の向こうには家並みが小さく見えているが、松林は見えなかった。
 「昔、この道沿いから見ると、向こうには松林が見えていたと思うのですが、どうなってしまったのでしょうね。そこの海水浴場でよく泳いだものです。」
 「ああ、あの松林ね。松食い虫にやられてほとんどなくなってしまいましたよ。海の汚れもひどくて、海水浴場も閉鎖になりましたし。でも、海で泳ぐよりプールで泳ぐ方がいいでしょう。事故の心配もないですし。」
 運転手はそう答えた。
 「そうですか。残念ですね。私は海の方が好きですけど。」
 そう言って、私は口をつぐんだ。
 中学・高校と友達と連れだってよく泳ぎに行ったものだ。彼も誘ったことはあるが、あまり来ようとはしなかった。そのくせ、泳ぎにくると、一人沖に出ていって海水浴場を端から端まで悠々と泳いでいるのだった。
 車はまだしばらくその道を走り続けた。左に緩くカーブをすると、前方に低い山と手前には農家の家並みが見えた。
 「ほら、あそこですよ。田圃の向こうに見えているでしょう。」
 運転手が正面に見える家を指さしていった。
 「このあたりは、大雨が降るとずいぶん水の出るところでしてね。以前、お客さんを乗せて、行くに行かれず、帰るに帰れず、立ち往生したことがあるんです。お客さんは行ってくれって言いますしね。」
 そういうと、三叉路を左に折れ曲がった。
 「ここからあぜ道を通ってもいけるんですけど、どうします? 家まで行くには、ぐるっと回っていかないといけないもんで。」
 スピードを落とし、細いあぜ道を指していった。
 「じゃあ、ここでおろしてください。後は歩いていきますから。」
 私は車を止めた。
 「それじゃあ、お気をつけて。」
 運転手は私をおろすとそう言って、車を回し、もと来た道を帰っていった。

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