彰はよくしゃべった。昔の彰はそうではなかった。一緒に酒を飲んでも、私がしゃべるだけで、いつも何か物思いに耽っているようであった。年をとるということはこういうことなのかとも思った。が、最後の話は子供の話ではあるが、大人だってそうではないかといわんばかりの調子に聞こえた。私の考えすぎだろうか。
 やがて、姪ごさんが現れた。
 「おじさん、はい。」
 そう言って、徳利と煮物の入った器をテーブルに置いた。
 「ありがとう、まあちゃん。一緒に話をするかい。こちらは、おじさんの学生時代の友人で、神前聖彦くん。昔は、ハンサムでかっこよくて、映画俳優にしたいほどだったんだよ。」
 「そうですか。」
 「おいおい。聞きようによっては、今はひどいって感じじゃあないか。幾分太ったけれど、そうひどくはないだろう。」
 「まあね。今だって紳士だよ。ね、まあちゃん。」
 「ええ、すてきなおじさまです。」
 私は苦笑いした。
 「今は、大手の企業に勤めているんだけどね、おふくろさんがなくなられて、悲しくなって、おじさんに会いに来たってわけだ。」
 「参ったなあ。そんな言い方ないだろう。」
 「いいんだ。事実だろう。」
 彰にそう言われると、返事のしようがなかった。ただ、苦笑いし続けた。
 「でも、おじさんにこんな友達いるとは思わなかった。農協のOさんとか、中学校のY先生ぐらいは知っているけど。」
 姪ごさんは言った。
 「それは、中学時代の友達だよ。聖彦くんは高校大学の友人だ。おじさんだって、一応大学出ているんだから、いろんな友達がいるんだけどね、あまりつき合っていないだけだよ。」
 「大学時代、私なんかがドイツ語で苦労しているときに、訳の分からないロシア語なんかやっていたんだ。ずいぶん難しい言葉だって噂だったけどね、よくやるよって感じだったかな。」
 私は口を挟んだ。
 「あのけったいな文字のでしょう。おじさんの部屋にあるから知ってます。」
 その「けったいな」という言い方がおかしくて、彰の方を見た。彰も私の方を見て笑った。
 「Nの逆さまがあったりRの逆さまがあったりしてけったいな文字には違いないけれど、ギリシア語経由の由緒正しい文字なんだよ。キリル文字って言うんだ。」
 彰は説明した。
 「あの頃は夢があったな。最初にロシア語で読んだのは、プーシキンの短編だったような気がする。辞書を右に左にひっくり返して読んだよ。」
 珍しく昔を懐かしむような様子を見せた。
 「結構勉強しているようだったからな。そのままずっと続けるのかと思ったよ。」
 「やめようか。そんな話。ま、あの当時集めた本は結構あるから、死ぬまでにまた読んでみるよ。そんなには読めないかも知れないけれど。」
 彰は少し声を落とした。
 「私、向こうに行きます。」
 姪ごさんはそう言って立ち上がった。
 「ああ、ありがとう。」
 彰は答えた。姪ごさんが出ていくと私は言った。
 「読めるだけいいじゃないか。俺なんてドイツ語なんてきれいさっぱりだよ。英語だけは使えないと仕事にならないから使えるけど。」
 「もう英語は不自由しないかい。」
 「まあね。七年も向こうにいて、話せなかったらそれはもう悲惨だろう。」
 「それもそうだ。すっかりアメリカ流になっただろう。」
 「それが最近はね、年のせいかアメリカ一辺倒ではなくなったんだ。グレゴリオ聖歌の話じゃないが、ヨーロッパや日本の文化や風景に懐かしさを覚えるんだ。仕事は当然アメリカ中心だけどね。」
 「余裕だな、それはきっと。」
 「仕事自体は相変わらず忙しいけどね。心にゆとりができたってことかな。」
 「そうだと思うよ。」
 彰はそう言ったが、私は別のことを考えていた。これまで無意識のうちに心を占めていたものが、一つ一つ消えていくにつれ、その空白に忍び込んでくるものがある。それは、過去の思い出であったり、歴史の持つ深い感慨であったりするのだ。私が彰に会いに来たのも、その空白を埋めんがためであった。今日、彰に会えて本当によかった。会えなければ、その空白を身体のどこかに持ち続けなければならなかったからだ。
 グレゴリオ聖歌はとっくのうちに終わっていて、部屋の中に静寂が漂っていた。虫の声も聞こえない。私は時計を見た。もう九時近くになっていた。
 「もうそろそろお暇するよ。明日東京に帰っていなければならないから。」
 私は言った。
 「そうか。残念だな。姪に駅まで送らせるよ。帰り道だから。」
 彰は立ちかけた。
 「いや、いいよ。タクシー呼んでくれ。そのままホテルまで帰るから。」
 「そうだな。田舎じゃ汽車もなかなか来ないんだ。」
 そう言うと部屋を出ていった。
 やがて、おばさんが姿を見せた。
 「もうお帰りなんですか。もっとゆっくりなさってくださればいいですのに。」
 「T市に宿を取っているもので、そろそろ帰らないと。それに明日一番の飛行機に乗る予定なんです。」
 彰と姪ごさんが再び姿を見せた。
 「聖彦、せっかく作ったんだから食っていけよ。」
 そう言って、姪ごさんを招き入れると、ご飯とお吸い物、それに漬け物をテーブルに並べさせた。
 「それじゃ、そうするよ。」
 箸を取ってご飯を口にした。ご飯がとてもおいしく感じられた。
 「ご飯がとてもおいしいですね。」
 私は言った。
 「おわかりになります。新米なんです。」
 「家ではまだ食べさせてくれないんだけれど、今日は特別だ。」
 彰は微笑んだ。おばさんも姪ごさんも微笑んでいた。
 しばらくして、車のクラクションの音がした。タクシーが来たのだ。私は立ち上がった。玄関のところまで来ると、私は言った。
 「本当に、今日はお邪魔しました。」
 「いいえ、大したもてなしもできませんで。でも、またいらしてください。」
 おばさんは言った。
 「それでは、失礼します。」
 私は玄関を出た。彰がついてきた。
 「また、懐かしくなったら来いよな。今日は楽しかったよ。」
 そう言うと、彰は私の手を握った。私もその手を握り返した。
 「親父さんはどうしたんだ。見かけなかったけど。」
 「身体壊して入院しているんだ。当面、命には別状ないけれど。」
 「そうか、それじゃあ、お大事に。」
 私は車に乗った。車は、私が来たあぜ道とは反対の方へ曲がった。凸凹道を少し行くと舗装道路に出た。しばらく右へ左へと曲がった後、急に広い道路に出た。私の知らない道だった。道の両側はまだそう建物は建っていない。遠く闇の中に、T市のシンボルであるテレビ塔の灯りが見えた。私は、快い酔いを感じていた。

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