ホテルに帰り着くと、誰もいない部屋の真ん中で、しばらく立ち尽くした。カーテンの隙間から隣の城山公園の水銀灯が見えた。私は、窓のそばに寄ってカーテンを少し開けた。そこには、昔、学校の帰り通った道が見える。昔の建物は取り壊され、今は綺麗な公園になっている。が、それでも昔の面影は残っていた。そう、それは小中学生の頃。男の子も女の子も一緒になって、十数人ワイワイガヤガヤ追いかけっこをしながら通り過ぎた。母と一緒だったこともある。そして、昨日は妻と一緒に歩いた。妻は一足先に東京に帰っている。そうだ。電話を入れておかなければ。
 電話を入れながら考えた。今日のような一日はもうないだろう。明日から、また忙しい日々が始まる。モーレツ社員では決してないが、しなければならない仕事は山積みだ。そうして、また数十年が過ぎるのかも知れない。それだけに、今日彰と会えたことは嬉しかった。彰は彰の人生を信じて生きているのだ。そういう生き方があるということだ。私は、私の人生を全うしなければならない。
 電話を終えると、バスに湯を入れた。湯舟につかりながら、ここ数日の出来事が思い出されていた。母の死、葬儀、遺骨を下げての帰郷、彰との再会。すべて夢のような気がするが、それは、紛れもない現実なのだ。誰だって同じ経験をする。子供の時に経験する人もあれば、最近は六十を過ぎてからの人もいるだろう。私のは、ごく普通の人の経験に過ぎないが、それでも、本質的にそう変わるものではあるまい。
 風呂から上がると、冷蔵庫からビールを取り出した。一人で飲むビール。たまにはいいものだ。どんなに愛し合っていようと、どんなに親しい人であろうと、共有できない自分だけのものが人にはあるからだろう。今は、それに浸る瞬間だ。とはいえ、明日からのことが気になって仕方がない。さあ、もう寝よう。
 私はベッドに潜り込んだ。

 翌日は見事に晴れた。いささか肌寒さが感じられるほどであったが、それもまた、今日から新しい私の人生が始まる兆しのように思えてならなかった。タクシーで通り過ぎる町並みは次々と変わり、私に感慨を起こさせる間もなかった。搭乗を待つ間も書類に目を通したり、新聞を広げて読むサラリーマンたち。いつの間にか私もその一人に戻っている。
 飛行機は離陸を始めた。離陸したとたん、故郷への思いも遠ざかっていくような気がした。飛行機は左に旋回し、窓の下に故郷の景色が広がった。
 今度帰るとき、私はどんな思いを抱いているだろう。故郷はどんな姿を見せてくれるだろう。彰はどう迎えてくれれうだろう。
 故郷は眼下に遠く消え去った。行く手には、大都会、東京が待っている。

-完-

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