「やあ、久しぶりだな。ほとんど忘れていたよ。ちょっと待ってて。着替えてくるから。」
 庭から顔を出すと、彼、彰はいった。麦藁帽子をかぶり、作業服を着て、さながら植木屋の風情だった。声は昔のままながら、顔はそれなりに年をとっていた。
 やがて、座敷に姿を見せた。
 「お待たせ。元気だったかい。随分久しぶりだな。最後に会ったのはいつだったっけ。」
 「多分、K市で酒飲んだ時だったと思うけどな。」
 「そうか。まだ俺も大学にいた頃だな。」
 「そうだよ。あれから忙しくなって、顔を会わすこともなかった。てっきり大学に残っているのかと思ったが、どうしてやめたんだ。」
 「いやあ。別に不満があるわけでもなかったんだけれどね。ただ、勉強ができなかったんだよ。」
 「お前がか。結構勉強しているように見えたけどね。」
 「あの頃はあまりしゃべらなかったからね。そう見えたかもしれない。でも、すべてが中途半端だったから。」
 「ところで、大学では、やはり、ロシア文学研究してたのか。」
 「いや、それが、いろいろと手出しすぎてね。すべてがパーだよ。いろいろ悩みがあったよ、俺も人並みに。お前の方はどうなんだ。天下の大企業に勤めて。」
 「何もないと言ったら嘘になるだろう。そりゃ、いろいろあったさ。でも、みんなそれを乗り越えてゆくのじゃないかな。おかげさまで、大したことにはならなかったよ。それより、これからが大変だと思っている。まだ定年退職したわけではないから。」
 「そうか。そう言えばそうだな。今が働き盛りだもんな。そう言われると俺の方が何か隠遁生活送っているみたいだ。」
 「今、何やってんだ。」
 「見ての通り。山に柴刈りに。」
 「まじめに答えろよ。だいたいお前のような奴が、こんな所で暮らしているなんて合点がゆかない。駅前の方には何もないし。」
 「いろいろ好意的に見てくれるのはありがたいんだけどね。済んだことはあまり振り返らないんだ。」
 二十年の空白があるとは思えないほど一気に話が進んだ。少し余計なことも言ってしまったようだ。しばらく沈黙が漂ったあと、私から話しかけた。
 「ところで、このCD聞いているのかい。」
 「ああ、時々ね。昔、合唱部に入っていたこと知っているだろう。あの時からずっと。あの頃はまだCDなんてなかったな。今時の学生みたいにリッチな生活していたわけじゃなかったから、いろいろと聞きたく思ったものさ。合唱部にはいろいろな先輩たちがいて、その気になれば聞かせてもらえただろうけど。昔の俺のこと聖彦も知っているだろう。変わっていただろう。それだけは今でも変わらないけど。今思うと、随分迷惑もかけたよ。」
 彰はいった。
 「グレゴリオ聖歌だけど、最近聞いているんだ。初めて聞いたのは、ヨーロッパに行ったときに、ミラノだったか、聖堂で聞いたんだけどね。そのとき、いたく感動してね。それに数年前かな、仕事がうまくいかなくなって、イライラしているときに、朝方ラジオから流れてきてね。身体中が震えるのがわかった。身体中で感動したんだろう。初めての経験だったよ。」
 私は言った。
 これは、本当のことだ。この単旋律の奇妙なメロディーが響きわたったとき、私は魂が深く揺り動かされるの思いがした。どう形容すればいいだろう。この音楽が、耳から身体に入っていくと、奥底に沈んでいた魂にふれ揺り動かし、魂を震わせると、魂は豊かな流れとなって身体中を流れあふれ出し、全身を感動でおおってしまう。これこそ、至福に近い感情だと思えた。こんな陰気なメロディーに感動するなんて、これまでの私には考えられないことだった。
 「へえ、聖彦がね。考えてみれば、聖彦という名は、まさにそれにふさわしい名前だな。いい名前もらってるよ。聖者様みたいだもんな。そういう運命だったんだよ、きっと。」
 「からかうなよ。いつも名前負けしているぞって言われてきたんだから。」
 「そんなことないよ。堂々とした立派な人間になっているよ。見た感じだけどね。陰で何しているかは知らない。」
 「何だ。一言多いな。昔のままだ。」
 「人間そう変わるものじゃないだろう。ところで、そのいたく感動したグレゴリオ聖歌聞いてみるかい。そんないいプレーヤーじゃないけど、一応音は出るよ。」
 「じゃ、頼むよ。」
 彰はCDを取り出すと、そばに置いてあったプレーヤーにかけた。やがて、キーリーエー、エーレーイソーンとあの独特のメロディーが流れ始めた。
 「それはそうと、お母さんが亡くなられたって。それは気の毒なことだったな。あまり話したことはなかったけど、いつだったかな、一度親父と喧嘩して、夜中に泊めてもらいに行ったことがあったろう。あの時に食べさせてもらったギョウザの味は忘れられないよ。」
 彰は言った。
 「妙なこと覚えているんだな。とにかく、お前はよく家を出て俺んちに来てたことだけは覚えているよ。お袋ね、心臓発作でね。倒れてから一週間も経たないうちにご臨終だよ。あまりにあっけなくて、それにこちらの方にも心の準備ができていなかったからね。思ったよりうろたえたかな。」
 「それで、俺のことも思い出したというわけか。大学時代はともかく、今じゃお前が訪ねてくるほどのものじゃないもんな。」
 彰は、眼を伏し、何か悲しげな表情を見せた。一瞬複雑な気持ちになった。
 「この聖書は何なんだ。クリスチャンにでもなったのか。」
 私は、目の前に置いてある書物を指さして言った。
 「いや、そうじゃない。そもそもの初めはね、知っているかどうか知らないけど、トルストイの影響でね。ロシア文学志向もそれが原因さ。ただ、トルストイっていうのは、その当時あまりはやらなかったんだよ。何か口にするのもはばかれるような。偽善者扱いというような。芸術家としての評価は高かったんだけれどね。それで、ドストエフスキーとかベルジャーエフとか、ソロヴィヨフだとかいろいろ読んでみたんだ。結構面白かったんだけどね。結局、集中できなかったんだろうね。トルストイほどには読みたいとは思わなかったかな。それよりロシア文学科というのがなかったというのが最大の原因だろうな。言語でロシア語をするか、哲学宗教関係でロシアに焦点を絞るかいずれかだっただろう。今思うとね。でも当時は、ロシアといえば革命という感じで、一般にはあまりよいイメージはなかったような気がする。まあ適当に勉強していればよかったのかも知れないけれど、そんな情熱もないのに勉強するのは、俺の性に合わなくてね。とりつかれたように読みあさる、そんな気にはならなかったよ。自分で思っているよりは頭悪いんだ、とそんなふうに思ったかな。その頃、ルター訳とか欽定訳を読み出してね。格調高いというか、権威主義的なところが多少あるかも知れないけれど、一番気に入ってるんだ。ヴルガータは、実はあまり読めないんだ。でも、ミサ曲にでているぐらいは何となく訳を見ながらわかるかな。妙な教養身につけちゃって、田舎では無用の長物だな。」
 そう言うと黙り込んだ。しばらく沈黙が流れた。その時、そばにあった一升瓶が目に入った。
 「忘れるところだった。これ渡しておくよ。駅前近くで買ったんだけどね。」
 「ああ、あそこの酒屋のだな。じゃあ一杯いくか。俺は昔に比べるとあまり飲まなくなったけど。」
 彰は立ち上がって、部屋を出ていこうとした。
 「泊まっていけるのか。」
 「いや、宿は取ってある。」
 「夕飯ぐらい食っていけるよな。」
 
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