彰がいなくなって、改めて部屋の中を見回した。窓の外は、もう暗くなりかけて、遠くに民家の灯りが、ポツリ、ポツリ見える。左手に床の間があり、隅にペンギンの剥製が置いてある。真ん中には壺がある。一見して備前焼だとわかる。そんなに高価なものでもなさそうだ。掛け軸が掛かっていて、「初見秋風」と題する漢詩が書かれてある。「田家家日秋初立・・・」七言絶句だ。季節は少し違うが、何となくこの辺りの風景に似ていると思った。廊下への出入り口の方は、杉板の板戸となっている。
 「何か気になるものでもありまして?」
 板戸が開いて、おばさんが姿を見せた。手には徳利と杯を載せたお盆を持っている。
 「突然お伺いして、申し訳ありません。随分ご迷惑でしょう。」
 「いいえ。最近はあまり人も見えませんので、本当に何もないんですけど、どうぞ。」
 そう言うと、お盆を置き杯を取り出した。私はそれを受け取った。
 「あのペンギンは珍しいですね。」
 杯を受け取ると話しかけた。
 「随分昔になりますけど、南極観測船の船長をしていた人から頂いたものです。先先代になりますけど。当時は本当に珍しくて、日本には二つしかないとお祖父さんが自慢してましたよ。もう一つは天皇陛下に献上されたとか。」

 「何の話だ?」
 いつの間にか彰が現れて廊下に立っていた。後ろには若い女の人がいて、大きなお盆を持っていた。
 「昔の話だろう。本当かどうかわからないよ。ただ、今じゃ、自然保護、動物保護の立場から、そう簡単には捕れないだろうけどね。まあちゃん、こっちに置いて。」
 部屋に入るとそう言って、若い女の人を招き入れた。女の人は、テーブルに酢の物と魚の煮付けとを並べた。
 「どうぞ。」
 若い女は言った。
 「姪の雅美だよ。手伝いに来てもらったんだ。」
 彰は言った。
 「道理で。奥さんにしては若いと思ったよ。ところで奥さんはどうしたんだ。」
 「それが、こちらに帰って幾度かお見合いもしたのですけれど、本人にその気がないみたいで。」
 おばさんが答えた。
 「というわけだ。昔、大学にいたとき、四十過ぎの独身の外国人がいてね。『どうして結婚しないんですか』って聞いたら、『いやあ、年をとるとどうしても若い子に目がいってしまって、どうにも結婚する気にならないんですよ。』と言ったとか言わなかったとか。俺がそんな失礼なこと聞いたわけじゃないよ。ロシアの小説には、村中の若い娘に結婚を申し込んで、みんなに断られたかわいそうな男の話があったりするんだけどね。一番気に入っているのは、これもロシアの笑い話だけどね、ある有名な老作曲家に、『どうして結婚なさらなかったのですか。』と尋ねると、その作曲家は『私は趣味の悪い女性は嫌いなんですよ。』と答えたそうだ。『そうですか。』ってうなずいていると、『私を好きになるような趣味の悪い女性とは結婚したくなかったんです。』と言ったそうだ。これを読んだとき 思わず笑ってしまってね、それ以来、このことを聞かれるとそう答えることにしている。」
 彰はそう言って笑った。私も笑った。おばさんは「まあ」というような顔をし、姪ごさんは、ただにこにこ笑って部屋を出ていった。

 「でも、好きな子ぐらいいただろうに。」
 私が尋ねると
 「今でもファンはたくさんいるよ。どうしてもあれだな、さっきの話じゃないけれど、若くて美人の子には、すぐファンになっちゃうよ。聖彦だってそうじゃないか。中には嫌みな女の子もいるけどね。」
 「ファンて、お前のファンか。」
 「何言ってんだ。俺にファンがいるわけないだろう。俺がファンだよ。いずれにしろ、結婚はしそこねたって感じかな。」
 「意外と早く結婚すると思っていたけどね。お前のファンもいたぞ。今からでも遅くはないと思うけど。」
 「人生どうなるかわからないもんだよ。今さら結婚しようなどとはつゆ思わないけどね。別に後悔はないけど。」
 彰には、かつて、いつも心の中に誰か女性への想いがあったように思う。高校時代の幼なじみの話もそうだ。大学時代には、あまり言いたがらなかったが、確かに誰かに恋をしていた。私の下宿にくると、いつも窓の外の庭を眺めては物思いに耽っていた。正直言って、何をしに来たのか分からないほどだったが、彰には、そんな時間が欲しかったのだろう。私もそんな時期があった気がする。今思えば、その気持ちがよく分かる。彰の今の姿は、そうした時を超えた姿なのだろう。
 「それより、聖彦の方はどうなんだ。もう子供だっているだろうに。」
 「上の方は中二で、下の方は小四だよ。上のは女の子だし、いくら反抗期と言っても言うことはよく聞くし、親がいうのも何だが、よくできた子だよ。それにひきかえ下のはね。小さいときから、手こずらされた。おばあちゃん子でね。ちょっと甘やかし過ぎたのかな。時々、このくそガキって思うことがあるよ。おふくろ死んだときには、おいおい泣いて手がつけられなかった。でも、あいつにはいい経験だな。多少はいうこと聞くようになるだろう。家内も同じ意見だったな。」
 「子供っていうのは、遠慮しないからな。いつだったか、俺の顔をまじまじと見つめてね。『おっちゃん、おっちゃんはどうしてそんな顔しているの。』なんて聞くんだ。『ばっきゃろう。好きでこんな顔してるんじゃねえよ。』って怒鳴りつけてやろうと思ったくらいだけど、あれね、大人が考えているのより、大人の気持ち分かるんだな。面白いもんだよ。」
 「そうだな。特に親子ではそんな感じがするな。でも、中には、本当にどうしようもないガキっていうか、子供いないか。」
 「多分いるだろうな。そういう子は、俺なんかには決して近づかないだろう。そんな気がする。」
 いつの間にか、徳利の酒がなくなっていた。彰は、部屋の戸を開けて叫んだ。
 「まあちゃん、お酒頼む。」

 
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