車を降りたところは三叉路を数十メートル行ったところで、道の両側にはたんぼが広がっている。左手の向こうには、大きな木の生えた昔ながらの農家が見える。三叉路の反対側には、レストランや喫茶店が数件見える。右手の田んぼの向こうに彼の家が見えた。石垣の上に槙囲いが見える。平屋の農家風の建物だ。目の前に幅一メートルほどのあぜ道がある。田んぼはもうすでに刈り入れが終わっていた。
 私はなぜかためらった。電話を入れておけばよかったのにと思ったのだ。仕事ならそんなミスは絶対にしない私だが、今日は思いに任せてここまで来てしまったのだ。それに、彼はどんな反応をするだろうかと気になった。決して愛想のよい奴ではなかった。
 一歩二歩と歩き始めた。きれいに草が刈られているあぜ道をゆっくりと歩き始めた。槙囲いが次第に近づいてくる。槙囲いの中に人影が見える。私は歩みを速めた。家の前の坂までくると、石垣の沿って菊の花が植えられているのが目に留まった。白や黄色の小菊。七十過ぎの女の人が草を抜いていた。私に気づき顔を上げた。見覚えがある。
 「あのう、神前、神前聖彦といいますけど。ご無沙汰しています。彰君ご在宅でしょうか。」
 「あら、聖彦さんですか。随分久しぶりですね。どうなさったんですか。確か、東京に住んでいらっしゃると聞きましたが。彰、今山に行ってて、そうですねえ。こ一時間もすれば帰ってくると思いますけど。まあ、どうぞ、あがって待っていてください。」
 「ええ、本当に久しぶりです。こちらに来たのも、もう二十年ぶりぐらいです。よく覚えてくださいましたね。」
 「それは覚えていますよ。彰と仲良くしてくださったでしょう。時には話になることもありますから。」
 私はホッとした。最初に彼と会わなかったことが、何となく幸運に思われた。彼の母親であるこの老婦人は、もう手を洗って家の中に入っていこうとしていた。
 「さあ、どうぞ。昔の家に比べると随分狭くなりましたけど、広いだけの古い家よりは住みやすいかしら、と思っています。不便な所ですけど、住めば愛着も生まれます。」
 私は待たせてもらうことにした。狭い玄関をあがり左に折れると、正面に大きな鏡が置いてあった。いきなり自分の全身を見せつけられたようで驚いたが、ふと、鏡に映った自分の顔の表情の中に、驚き以外の何かがあるように思えた。
 「あら、その鏡には驚かれたでしょう。おじいさんの趣味で、私なんか、毎日自分の姿見せつけられるようで、あまり好きじゃないんですが・・・。気になさらず、こちらにいらしてください。掃除もできていなくて少し散らかっていますけど。」
 そう言って、私を十畳ほどの和室に招き入れると、座布団を差しだし、テーブルの上に置いてあった書籍とCDを片づけ始めた。
 「それ、彰君のですか。」
 「そうです。なにやら訳の分からない横文字ばかりが並んでいますけれど。私などが触れるのをとても嫌がるんですよ。」
 「ちょっと見せていただけません。」
 「ええ、どうぞ。」
 CDは、グレゴリオ聖歌とW・バード、J・デプレ、パレストリーナ、ヴィクトリアのミサ曲、それにバッハだった。並んで置いてある書籍は、ヴルガータにルター訳と欽定訳の聖書であった。
 「彰君は、今、これを聞いたり読んだりしているんですか。」
 「さあ、よくはわかりませんけれど、時々音楽は聴いているみたいですよ。とにかく、私にはわからないものですから。」

 私がグレゴリオ聖歌や聖書に親しみ始めたのは、ここ数年のことである。父は、長崎の出身で洗礼を受けたとは聞いてはいたが、私の記憶にある限り、父が教会に行くのを見たことがない。母は仏教徒であった。そのため、父の葬儀も仏式で行った。私も、彼と交際のあった高校大学時代には、そんなことには全く興味がなかった。ミスター・ジャイアンツ長島茂雄などスーパースターやサクセス・ストーリー、アメリカン・ヒーローにあこがれた若者であった。アメリカへ行くことをあこがれていた。そして、いつの間にかそれは現実のものとなっていた。アメリカには七年余り住んでいたし、今でも年に四、五回は行っている。だが・・・。
 私の人生、決して不幸ではない。夢は現実になったし、仕事も順調である。妻にも子供たちにも恵まれている。・・・。それでも、去っていくものは去っていくのである。いつの間にか、父を失い、今また母を失った。母は死んだら此の地に骨を埋めたいとずっと願っていた。そのために私は此の地に帰ってきたのだ。母の供養を済ませ、納骨を終えると、自然と足は彼の所へと向かった。そして、こんな所でグレゴリオ聖歌と聖書に出会おうとは、私は妙に因縁めいたものを感じた。

 部屋からは、歩いてきたあぜ道が見える。爽やかな秋風が吹いてくる。のどかな田園風景が広がっていた。小さな子供たちがあぜ道を駆けていくのが見える。
 「聖彦さん、どうぞ。お茶でも召し上がってください。」
 いつの間にか、おばさんがお菓子とお茶を持ってきていた。
 「ああ、どうもありがとうございます。お構いなく。でも本当に静かですね。」
 お茶を頂きながら話しかけた。
 「本当にそれだけが取り柄でして。昔住んでいたところとは大違いです。引っ越したすぐは、あまりに静かで、特にカエルの鳴き声がうるさくて眠られないほどでしたけれど、今では、もうずっと昔からここに住んでいるみたいな気がしています。」
 どうしてこちらに越してきたのか聞いてみたい気もしたが、よした。
 「実は、母が亡くなりましてね。こっちに骨を埋めてくれというのが母の遺言でしたので、それで帰ってきたのですけれど、帰ってくると何か懐かしくなりまして。」
 「でも、よく訪ねて来てくださいました。彰も喜ぶと思いますよ。ところで、こちらの方のおうちはもうないんですか。」
 「ええ、父が死んで、母を引き取るときにすべて処分しました。母はこちらを離れるのが辛かったのでしょうか、なかなかうんといいませんでしたけど。」
 「年をとりますとね、なかなか新しい環境に移ろうとは思わないものです。」
 確かにそうだった。かなり頑強に、家を残しておいてくれたら独り暮らすと言い張った。結局、死んだらこちらに骨を埋めるという条件で引き取った。東京での、見知らぬ地での生活は、母にとってどうだったのだろう。妻も結構よくやってくれた。済んでみれば、平穏無事に過ぎ去った。しかし、母は幸せだったのだろうか。
 気がついてみると、おばさんはもういず、部屋に私独り取り残されていた。横に酒屋で買った一升瓶の袋が横たわっていた。窓からは西日が差しかけていた。こうして一時間近くが過ぎた。
 やがて車の止まる音がして、話し声が聞こえた。
 「彰さん、聖彦さんが見えてますよ。」
 「えっ、聖彦って、神前聖彦?」
 「ええ。」


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