「☆天性人後・その1・2」

「☆天性人後・その3・4」

「☆天性人後・その5」

「☆天性人後・その7・長崎から江戸へ(蘭学黎明期)」

 中津藩医前野良沢は藩主奥平昌鹿より、長崎遊学を命じられます。良沢は100日余り長崎に滞在し、オランダ語の単語を100ばかり採集したにすぎませんでした。

 18世紀半ば、歴史の上ではもうとうにオランダの学問は日本に入ってきてるはずです。50年以上前8代将軍吉宗は学問発展のためキリスト教以外の洋書は輸入してよいことにした。ただし庶民が読むことは容易に許されなかった。しかも幕府はオランダ人と話のできる通詞(つうじ・通訳者)は洋書を読んではいかん、と定めたのでした。しかたがないから通詞はオランダ人から口うつしに蘭語をおそわり、日常会話は死に物狂いで何とかこなせるようになっても横文字はまったく読めない。

 そのくせ洋書だけは江戸に来るのである。当然誰も読めない。読めない言葉をありがたがるのが日本人の悪い癖で、オランダ人もそれをいいことに一冊何十両、どうかすると何百両という値段を付けて売るから庶民の手にはますます届かない。

 大名か豪商が一冊ぐらい手に入れてわが藩の宝であると大事にしていても、それが「婦人下着百科」なんかを飾っている場合もある。

 青木昆陽は江戸最高のオランダ語の学者となっているが、オランダの本は一冊も読めずこの世を去った。彼が後世に名を残したのはオランダ語より、サツマイモを江戸で栽培したことに成功したためである。

 結局、オランダの学問が日本にあたえた文化は品物である。目で見てはたと直感的にわかるもの。しかし、それは平賀源内のような天才が出現して発展しえたのです。

 長崎は学問のために開かれているわけではありません。ただの貿易港であり、やってくるのは商人たちにすぎない。学者などひとりといないが、しかし、長い航海をする船には必ず乗り込まねばならない学者がただひとりいる。すなわち「ドクトル」である。人道上この人たちは長崎市民を救うこともあったようだ。それを日本人の医者が見学してほんの少し応用することができた。

 この時代、オランダに目覚めた人たちに平賀源内、前野良沢、杉田玄白らが一人残らず医者の出身であることは決して偶然ではありません。長崎からわずかに伝わった西洋医学を用いて杉田玄白がオランダ外科を開業したのが1757年頃です。

 というわけで、藩主から長崎行きを命じられた前野良沢でしたが、彼が長崎で得てきたことは通詞から百の単語をおそわったことと、オランダの辞書が一冊でした。

 「たあへるあなとみあ」という医書です。図版だけでも日本の医学を発展させる貴重な書物です。

 参考文献・みなもと太郎著「まんが、風雲児達」2009/11/8

       

「☆天性人後・その6」