「☆天性人後・その1・2」

「☆天性人後・その3・4」

「☆天性人後・その5」

「☆天性人後・その6」

 わたしが司馬遼太郎を読む前、歴史小説の作家は吉川英治、山岡荘八、子母沢寛の名前だけ知っていて、少しは読んだのかもしれませんが、ちゃんと読んだのか覚えてもいません。それなら横山光輝の漫画での歴史のほうが身になっています。

 さて、司馬遼太郎ですが、この人の文章はなんとなく読みやすいし、なにか文章に「色気」もあってたちまち好きになりました。結構司馬さんは「すけべ」かもしれません。司馬さんは小説の中で、その「すけべ」の気持ちを「昇華」させ、己の目指すもののエネルギーにするのだとおっしゃってました。人間は誰だって「好色」な、あやうい「煩悩」と言えるものを心の奥底に持っているものですが、その欲望をマイナスにするのもプラスにするのもその人間しだい、ということでしょうか。

 さて、今年に入って司馬作品は、土佐の山内容堂「酔って候」、奥御医師の蘭学者、松本良順「胡蝶の夢」、吉田松陰、高杉晋作の「世に棲む日日」、周防の村医から一転討幕軍の総司令官となり維新の渦中で非業の死を遂げた我が国近代兵制の創始者大村益次郎の「花神」、そして主人公以外は実在する人物でまるでスーパーマンのような架空の人物天堂晋助が幕末活躍する「十一番目の志士」、今は「大村益次郎」「岡田以蔵」も載っているオムにパスものを読んでいます。

 さて次回は、話を蘭学事始、「解体新書」が世に出た18世紀に遡ることにします。

 とにかく、江戸期に名を知られた学者に、江戸の旗本出身というのは皆無で、ほとんどが農民、諸藩の下級武士の出身であり、それも将来を保証されている惣領息子である場合が少なく、前途に何の保証もない次男、三男の出が多いようです。

 漢学者、漢方医、または諸技芸の宗家が物事を秘伝にしたがるのに対して、同じ社会にいながら蘭学者は多分に書生じみている。さらに学んだものはすぐに本にして世間に公開する「解体新書」がその好例で、実はそれが西洋のやり方のようだ。蘭学化することによって身分社会は大きくくずれる、さらに皮肉なことに、蘭学を学んだものが、卑賎の境涯から身分社会において異例の栄達をしたのです。とにかく、徳川幕府というのは身分差別のヒエラルキーに拠る、差別で永らえた余りにも続きすぎた長期政権、進歩しないことによって持ちこたえた徳川300年弱なのです(橋はなるべく、作らないとか、大きな船は作らないとか、商人をのさばらせないとか<士農工商>)。

       

「☆天性人後・その一と二」