「☆天性人後・その1と2」

「☆天性人後・その3」

 家康の時代は朱印状という朱印を押した正式の文書によって外国へ行くことができました(幕末の公家は古代より日本は鎖国をしていると思っていた)元和6年(1620)、幕府から朱印状を受けて京都の呉服師、茶屋四郎次郎の船は、長崎を出帆してコウチ(ベトナムの中部)へ向かいました。船の大きさは幅8メートル、長さ45メートル、三百トンあまりの船です。航海の技術は(海図や羅針盤その他)ポルトガルから学びました。コウチの日本人町には刀を差した武士や十字架のメダルをかけたキリスト教信者もいましたが、もちろん一番いたのが商人です。

 秀吉がフイリッピンに国書を送って貿易を求めた頃、ここにはもう多くの日本人がいました。やがて、キリシタン大名であたた高山右近や内藤如安(じょあん)などが、日本国内の禁教の嵐に追われて、マニラに逃れます。スペイン政庁はこれを歓迎し、元和6年(1620)には、日本人の数は3千人にもなったという、ことです。

 慶長18年(1613)信仰禁止令では、宣教師や信仰を改めない信者たちは、まず長崎に集められ、翌3月フイリッピンに追放されます。その数はおよそ120人、そのなかには既述した志摩の国(三重県)鳥羽の城主内藤如安、キリシタン大名の高山右近もいました。日本で鎖国が完成したのは、寛永16年(1639)しかし、この鎖国令がでるまでには、何回も外国との貿易や交わりを制限する命令がだされました。

 元和2年(1616)二代将軍秀忠は、キリスト教を厳しく禁止すると共に、これまでイギリスやオランダ人に許していた、国内産業と居住の自由の禁止、貿易を平戸と長崎に二港に限ることにしています。元和9年(1623)秀忠は宣教師が入り込むことを防ぐために、日本船がマニラへ行くことを禁止します。

 寛永10年(1633)朱印船のほかは外国へ行くことを禁止。また外国へ行った日本人が帰ることも禁止し、そむいたものは死刑にするとした。寛永13年(1636)日本人も日本船も、外国の往来を一切禁止します。寛永16年(1639)オランダと中国をのぞいては、日本へ来ることを禁止し、オランダ人は、長崎の出島に閉じ込められ、町へ出ることも許可しないことにしました。日本でのオランダとイギリスの争いは年毎激しくなっていったようですが、しかし、どちらかと言うとオランダが優勢で、イギリスは平戸を足場に明との貿易を開くことに望みをかけたが成功しませんでした。そして元和9年(1623)には、平戸の商館を閉じてしまいます。商館を開いて10年のことでした。南方各地の日本人町も17世紀終わり頃になると、日本人の姿も見られなくなります。2009/10/23

「☆天性人後その4」

 宝永5年(1708)の秋、九州の南の屋久島で、イタリア人の宣教師ジョパンニ・バッチスタ・シドッチが捕まります。鎖国の厳しい掟をおかしてフィリッピンのマニラから入国を企てました。

 新井白石は6代将軍家宣(いえのぶ)の許しをうけて、この宣教師を取り調べました。シドッチは優れた学者でした。白石はシドッチに世界の地図や国々の様子、キリスト教のことを詳しく聞きました。そして、その時の模様と、世界事情についておよそ、10年あまりかかって『西洋紀聞』という本にまとめました。キリスト教については国を奪う恐れのないことをはっきりと書いています。この意見はのちになって、ヨーロッパに学問を取り入れ、研究しようと言う機運をおこすきっかけとなりました。

 7代(ではなく、8代でした)将軍吉宗は外国のならわしなど、なにか自分の政治に役立つものはないか、それを学び探ろうとした人です。享保5年(1720)には、いわゆる洋書の解禁をおこなっています。ここで言う洋書とは漢訳した洋書の意味です。

 90年ほど前の寛永7年(1630)、幕府はキリシタンの教えが伝わることを防ぐため、そのような本を日本に入れることを禁止し、さらに貞享2年(1685)その禁令をいっそう厳しくしました。その禁令の一部を吉宗はゆるめたのでした。こうして外国の本が日本に入る道をひらいたことは、こののち外国の知識を取り入れ、文化をひらくのに役立つのです。2009/10/24

   

「☆天性人後・その一と二」