田沼意次・意知(おきつぐ、おきとも)の時代、この時代異国趣味がもてはやされます。学問のほうでも蘭学がさかんになり、オランダから伝わったものをもてはやすことが流行しました。
さらに寺小屋は享保7年(1722)江戸府内だけで約800もあり、幕末になるとそれは農村にもおよびます。
明和8年(1771)江戸の小塚原の刑場に刑死人の解剖が行われ、その中に前野良沢(りょうたく)、杉田玄白の姿がみられます。二人はオランダ語の解剖書を手にして翻訳を企て、7・8人の医者たちとともに安永3年(1774)『解体新書』と言う本を出版、この本は日本で初めての西洋学術書の翻訳で、玄白はこれを「蘭学」といいました。蘭学はその後、全国に広がります。
日本が外国へ向かって開けた唯一つの窓、長崎出島のオランダ商館には、日本研究のためにわざわざやってくるヨーロッパ人がいました。
ケンペルは三年間日本にいるうち、商館長に従って三回江戸へのぼり、日本の歴史、風俗、地理、博物などの研究を続け、帰国後1727年に『日本史』を書いて日本をヨーロッパへ紹介した。
安永5年(1776)には、世界的な学者ツンベルクも来ました。文政6年(1822)には、医師シーボルトが長崎オランダ商館に来ました。ドイツ人でいろいろな方面の自然科学に通じていました。シーボルトの弟子から有名な蘭学者が育ちます。しかし、文政11年(1828)外国人が手にすることを禁じられていた衣服をもらったことから捕らえられ、その後本国に送り返されました。
シーボルトは晩年、再び日本を訪れて、日本に残した医師になっている娘の「イネ」と再会しています。ちなみに、このイネと大村益次郎とは恋愛関係であったと言われています。大村益次郎にちいては近々お話したいですが、と言うより、そのことを話したいがために幕末を今一度調べようと思ったのです。ちなみに、シーボルトの著書である『日本』と言う本は、あらゆる日本事情を記していて、世界的にも有名なものとなり、もちろんペリーも読んでいます。2009/10/27