9. アラビア世界

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[先史時代(BC3000年紀-BC1000年紀)][イスラム以前の世紀(AD1世紀-7世紀)]
[東方でのイスラム音楽の勃興とアラビア古典音楽(7世紀-9世紀)]
[実践の衰退とヘレニズム理論の勃興(9世紀-13世紀)]
[スペインのムスリムとヨーロッパへの音楽遺産(8世紀-15世紀)]
[トルコ音楽の勃興と近代(16世紀-20世紀)][現代の傾向]

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先史時代(BC3000年紀-BC1000年紀)

 エジプトとメソポタミアとの間に横たわるアラビア世界は、BC3000年紀の早い時代から文明の中心であった。考古学の資料から南アラビアには BC1000年紀の初めまでには、重要な都市があったことを、私たちは知っている。しかし、アラビア人の起源と他のセム系民族との関係は、論争的な一つの問題であり、先史時代の音楽について正確なことは何も分かっていない。それら形成される上での要因のあることは知っているとしても。
 第9章で述べた聖書のコバルやトゥバル・カイン(Tubal-Cain)の神話と似ていなくもない神話で、アラビアの伝承は、タンバリン(duff)と太鼓(tabl)の発明は、トゥバル・b・ラマク(Tubal b.Lamak)に、リラ(mi'zaf)は彼の姉妹ディラル(Dilal)に、リュート('ud)はラマク(Lamak)本人に帰している。姉妹に触れているということは、最も初期の時代からアラビア人の間では、音楽作りで女性が重要であったことを示唆している。
 古代からベドゥインたちは、砂漠の長く単調な旅を元気づけるために単純なキャラバンの歌(huda')を歌ってきた。その韻律、ラジャス(rajaz)はラクダの脚の動きに対応すると言われており、6つの韻律の脚韻からなっている。それぞれは、二つの長音と一つの短音、そしてアクセントのついた一つの長音を含んでいる。それがアラビアの韻律のすべての原型であると見なされ、ベドゥインの音楽はアラビアの様々な牧畜及び農耕部族の音楽のように、疑いなく、何世代にもわたって詩人や音楽家たちが汲みとってきた源泉であっただろう。
 古代世界の重要な交易の中心として、アラビアは、彼らを取り囲む民族、メソポタミア人やユダヤ人、後に、彼らの中にいたギリシア人たちと盛んに接触していた。アラビアの影響は、彼らの文化を形作る上で影響を及ぼしてきたが、逆に、彼らから、特にメソポタミアからは多くの影響を受けてきた。その影響は他の言語の中に対応するものが見いだせるあるアラビアの楽器の名前の中に見て取れる。例えば、アラビア語の太鼓は「タブル(tabl)」;ユダヤ語(イディッシュ語)では「ティベラ(tibela)」;シリア語では「タブラ(tabla)」;バビロニア・アッシリア語では「タッバル(tabbalu)」である。(参考;インドでは tabla, トルコ語では dawul, ペルシア語では duhul)
 アラビア音楽への最初の跡がたどれるものに言及したものは、BC7世紀のアッシリアの碑文にある。アラビアの囚人が苦役の歌を歌い音楽を作り、それがアッシリアの支配者にたいそう気に入られたので、更に音楽を求められたというものである。
 BC1000年紀のアラビア人たちの音楽の技法は、メソポタミアの初期のセム系文明で果たしていたのと幾分似た役割を果たしていたようである。儀式は、疑いなく、独自の音楽と舞踊とを持っていた。というのは、ナバテア人のアラビア古代の神である「ドゥ・ルシャラ(Dhu'l-Shara)」は、「賛歌とともに」礼拝されたから。私たちは、そうしたことは、初期の「異教の」儀式を非難するのが相応しいと考えていた異なる信仰を持った後の著述家たちを通して知っているだけである。しかし、まさにその非難が、後の時代にまで生き残っていたことを立証している。預言者たち(sha'ir)は、音楽による呪文で妖精魔神(jinn)を呼ぶことができた。そして、伝承によって、韻詩や旋律の霊感を与えるものとして、今日でもその妖精魔神を記憶に留めている。預言者たちは詩人・音楽家であって、後の時代の詩や音楽の多くが彼らの呪文に由来している。宮廷あるいは王家一族の音楽がどのようなものであったか言うのは難しいが、恐らく、ほとんどの歌を歌う少女たち(qainat)は、後の時代の少女たちと同じように、楽しげな歌を歌うよき仲間たちであっただろう。

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イスラム以前の世紀(AD1世紀-7世紀)

 歴史時代以前すでに、古代メソポタミアの都市の廃墟はアラビアの王国に影響を及ぼしていた。南アラビアでは、なるほど王たちはまだ音楽と詩を育んでおり、今日でさえ北のアラビア人(アル・ヒジャス(Al-Hijaz))は、アラビア音楽の真の故郷としてのアル・ヤマン(Al-Yaman))へ目を南に向けている。しかし、アラビアの王国は二度と回復されることはなく、大規模な移住が起こった。2世紀からでさえ、アラビア人は北に向かって移住をし始め、新しい三つの重要な中心地、シリア、メソポタミアとアラビア半島の西部で音楽の発展は刺激された。
 この時期、シリアはまだ初期の時代のセム系文化の多くを保っており、移入者、ナバテア人のアラビア人の文化はそれと混合した。特に、ガッサン(Ghassan)の重要な音楽の中心地では。アラビア世界は、この地域からリード・パイプ(zanbaq)を借用したかもしれない。
 同様に、古代セム系文化の貯蔵庫であるメソポタミア(イラク(Iraq))は、BC6世紀以来ペルシア文化の支配下にあった。そしてササン朝(AD224年-642年)の諸王たちはこの上なく音楽を好んだ。征服をしていたラクミンドアラビア人(Lakhmind Arabs)は、古代バビロンの近く、アル・ヒラ(Al-Hira)と呼ばれる都市に首都を構えた。そこは、初期の歴史時代、アラビア文化の最も重要な中心となった。ペルシア音楽の多くの特徴がアラビア人によって採用されるようになったのは、この中心地を通してであった。その時から上に共鳴室のついたハープ(ペルシア語 chang、アラビア語 jank)と長いリュート、すなわちパンドーレ(tanbur、アラビア語 tunbur)そしてカラムス(surnay)が、また後の時代には他の影響がアラビアの中に入っていった。当時の音楽家の中に、理論家のファルスのバルバッド(Barbad of Fars)がいた。彼の旋律は、10世紀になってもまだメルヴ(Merv)で演奏されていた。彼の時代以前には7つの旋法があり、彼の時代には彼自身の360の旋律だけでなく、少なくとも12あったと記録されている。これらの数は、私たちが最初の章で見たように、初期の時代、メソポタミア人の間で人気のあった一種の星座との関連を示している。その時期の音楽に関して言えば、私たちは10世紀の理論家の証拠に頼らなければならない。彼は、当時のバグダードのパンドーレは、弦を40の異なる部分に分割することで達成されるイスラム以前の音階に従って指板にフレットが付けられると言っている。こうして 1/4音の分割がなされる。音階を形作るのに、これらがどのように分類されたのかは分かっていないけれども。
 西アラビアでは、音楽はアル・ヒジャス(Al-Hijaz)の二つの町、ウカズ(Ukaz)とメッカが中心となった。ウカズは市場の開かれる場所で、そこに詩人や音楽家たちがコンテストのために集まって来た。ここで、彼らは「秘蔵の詩(treasured poems)」を朗唱し歌った。ちょうど現代でもまだ、砂漠で完全な朗唱の曲が歌われていたように。一方、メッカはアラビアの儀式の中心地、巡礼地となった。巡礼者たちは原始的な歌を持っていて、そのタイプは今日でも、タフリル(tahlil)やタルビッヤ(talbiyya)の中で聞かれるだろう。同様の歌は、北のアラビア人が犠牲の石の周りをめぐる間歌ったと言われている讃歌に用いられたかも知れない。また、そうした歌は、彼らの儀式の一部であったかも知れなかった。
 しかし、儀式の音楽はほとんど知られてはいず、初期のアラビア人は宗教によりも気晴らし(娯楽)の方に関心があったことから、世俗の音楽の資料の方が多くあることには、それほど驚くべきことではない。こちらの音楽では、女性の音楽家たちが重要な役割を果たす。歌を歌う少女たちは(カイナト(qainat)、カイナ(qainaの複数形))、アラビア人の現れるところならどこにでも、アラビアにもシリアにも、メソポタミアにもペルシアにも見いだされ、恐らくその数の中にギリシア人やペルシア人も含まれていただろう。彼女たちが諸王のお気に入りになって宮廷で役割を果たすだけでなく、彼女らは宿屋や野営地、名望ある一族の家にもいた。
 アラビア人の間では、歌は第一に重要なものであったし、常にそうあり続けてきた。この時期にリフレイン(tarji')やアンティフォナ(jawab)が含まれ、最後の母音が高いトリル(tudhri)で引き伸ばされるようになった。韻律は打楽器で刻まれた。太鼓(tabl)、タンバリン(duff)そして棒(qadid)で。凝った装飾の旋律と生き生きとしたリズムは、私たちが今日でも知っているように、アラビア音楽の著しい特徴の一つであり、こうした初期の時代に少なくともいくつかの特徴が見いだせるのは面白い。
 舞踊は娯楽の一部であって、それを伴奏する打楽器に加えて、踊り子たちは小さなベル(jalajil)を身に付けていた。女性たちはタンバリン(duff)を含んだ楽器のある家族や部族の音楽に参加しているように描かれている。また、この時期の他の楽器としては、垂直型の笛(qussaba)とリード・パイプ(Mizmar)が含まれる。
 こうしたことが当時のイスラムの時代までの伝統であった。ほとんど知られていないが儀式の音楽、なまめかしさと疑いなく感覚的な性格の世俗音楽、そして時代から時代へと民間伝承で技法が浸透していった民衆の音楽。

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