[スペインのムスリムとヨーロッパへの音楽遺産(8世紀-15世紀)]
[トルコ音楽の勃興と近代(16世紀-20世紀)][現代の傾向]

スペインのムスリムとヨーロッパへの音楽遺産(8世紀-15世紀)

 これまで、私たちはイスラム音楽の検証を、事実上、東方の地の音楽に限ってきた。しかし、西洋の一つの中心は特別な注目を引く。スペインは、713年からムスリムとなり、755年にはコルドバに独立したカリフの支配権が立てられ、その時からイスラムのスペインは東方イスラムとは分離した歴史をたどる。スペインのムーア人(モロッコ人)によって立てられた9世紀の学校は、バグダードが誇っていたどの学校にも匹敵し、コルドバは重要な音楽の中心となった。偉大なツィリヤブ(Ziryab)は、アブド・アルラフマン(Abd al-Rahman)(852年没)の宮廷で歌い、古典アラビアの伝統はそこで開花した。スペインのイスラム音楽で最も偉大な人物は、恐らく、アル・ファラビ(Al-Farabi)、西洋ではラテン語の名、アルファラビウス(Alpharabius)(950年頃没)としての方がよく知られているが、であろう。彼のことはイスラムの重要なヘレニズム理論家の一人としてすでに言及した。アル・ファラビについては、次のような話が伝えられている。ある時、彼が第一旋法でリュートを演奏すると、聞いている者たちは笑いだし、次に旋法を変えると彼らはすすり泣き、最後には彼らはみんな深い眠りについてしまい、その間に彼は立ち去ったというものである。--その話の神話的内容は、ゲール人の世界の一つをはじめとして、多くのよく似た話がある。
 13世紀のスペインの24の旋律のモード(旋法)(tubu')に付けられた名は、そのモードが反映していると信じられている4つの要素に名付けられた名称と関連している。その要素のいろいろな働きは、自然の多様性が基盤になっていると信じられ、この多様性が音楽のモードに反映される。かくて、それは自然の成り行きとして、それぞれ様々なエトスを持つと考えられた。リュートの4つの弦は、自然のその要素だけでなく、身体の気質、魂の反応、色、季節、十二宮、その他多くの対応するものと結びつけられた。音楽のエトスについてのそうした思想は、この時代、深く広く広まっていた。そして、モードの持つ魔術的影響は、今日でもまだイスラムの諸地域では現実味を帯びている。アル・ファラビ以後、スペインの音楽は、初期イスラムの音楽と二度と決して比較されることはなかった。いくつかの新しい音楽の影響が、11世紀中頃からベルベル人を通じて北アフリカからスペインに到達した。しかし、やがて、スペインではイスラムは衰退し始めた。グラナダでは、宮廷の歌い手たちが少しの間だけ再び重要になった。そして、ムーア人の古代の栄光は、1232年からのナスリッド(Nasrid)の支配者の下、ある程度よみがえった。しかし、1492年、このアラビア最後の拠点もカスティリアのフェルディナンドとイザベラの手に落ちた。
 しかし、イスラム・スペインは、自らの初期の音楽の貢献だけでなく、ヨーロッパの広い地域への影響の大きさのために重要である。イスラムは、ビザンティウムとルネサンスとの間の主要な活力ある地域として、その文化が、ヨーロッパの他の地域へ放射されたのはスペインからであった。8世紀までは、その他の地域の文化は、まだ比較的「野蛮な」ものであった。
 一方、ヨーロッパの音楽は、初め、ギリシアの理論のわずかな断片だけしか知らなかった一方で、アラビア人たちは全体の論文を自由に使え、学者たちはヨーロッパでそうした類のものが出る前、8世紀という早い時代に、自分たちの論文を書いている。そうした論文は、8世紀から15世紀初めまで、多くの理論的論文を含むおよそ260の著作が書かれたことが知られている。実際のところ、ヨーロッパにおいては、6世紀から9世紀の間そうしたものは何一つないし、4世紀から10世紀までは、ビザンティウムの著作にさえ全くなかった。アラビアの著作はスペインでは知られていたに違いない。2つの論文、アル・ファラビ(Al-Farabi)の「学問について(De Scientiis)」と「諸学問の起源(De Ortu Scientiarum)」は、アラビア語からラテン語に訳され、ヨーロッパの教育機関では重要な教科書となった。前者はインスピレーションを与え、イギリスの理論家ロジャー・ベーコン(1267-8年)やその他の著述家による著作の中に認められる。疑いなく、アラビアの理論はヨーロッパで理論的な音響学を刺激した。イスラム・スペインの大学では、音楽は東方イスラムでそうであったように、数学的学問の一部となり世界中の文明化された地域からそこにやって来た。西洋の大学の最も古い音楽の学部は、スペインのサラマンカに見いだせるだろう。(13世紀)
 ヨーロッパはいくつかの楽器をイスラムから取り入れている。そのうちリュートだけが現在でも存在する。スペインのラウド(laud)はアラビアのアル・ウド(al-ud)からきている。ネックはフレットで区切られ、ピタゴラス音階に調弦された。レベック(rebec)は、ヴィオルの時代以前のヨーロッパでは主要な弦楽器だが、アラビアのラバブ(rabab)の直接の子孫である。ボウ(弓)が初めてヨーロッパに伝えられたのは、この楽器と関連していて、15世紀までヨーロッパでは専ら狩人の弓の形をしていた。そうでなくなるのはかなり後の時代である。
 ザキル(zaqil)のようなそれぞれのスタンヅァの前後にあるリフレインで特徴付けられるいくつかのアラビア詩の形式は、12世紀初めに頂点に達するが、それはスペインの歌(カンティガ=cantigas)に霊感を吹き込み、またフランスのヴィルレ(virelai)のモデルともなっただろう。アラビア起源の何かの調べが残っているかどうかは確実には立証されていないが、詩の形式は確かに音楽の形式を決定し、旋律の光沢(つや)(zaida)によって特徴付けられる華やかな演奏スタイルは、ムデハル(Mudejar)芸術のアラベスク様式にたとえられてきたが、ムーア人からスペインに伝えられたことが知られている。フランスのトルバドールたちは、十字軍の間に、東方オリエント文化やムスリム・スペインの文明と接触するようになり、彼らがあらゆる影響に閉鎖的であったとしたら驚くべきことであっただろう。同時に、オリエント(東方)のミンストレル(吟遊詩人)たちはヨーロッパを放浪し、そこへアラビアの歌や詩をもたらしたに違いない。13世紀の音楽、シャント・ファーブル(chante-fable)(散文と詩の入り交じった物語)、「オカサンとニコレット(Aucassin et Nicolette)」は、いくつかのオリエントの要素を含んでいると考えられてきた。いくつかのリズムはそこからきているかも知れないし、あるムーア人の伝統は、スペインの世俗の音楽の舞踊に残っている。「モリス(morris)」ダンスの踊り手は、16世紀になっても、まだムーア人のように顔に色を塗っていた。

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トルコ音楽の勃興と近代(16世紀-20世紀)

 スペインが遂にはカスティリャのイサベルとフェルディナンドの手に落ちるおよそ40年前に、トルコ人がコンスタンチノープルを占領した。セム系民族ではなく、恐らく広く山岳民族であったトルコ人のことは、6世紀に中国の国境でその名を初めて耳にする。しかし、コンスタンチノープルを占領したオスマントルコは、13世紀まで歴史に姿を現さない。この時代から、彼らは新興勢力となり、オスマン帝国を築き上げたのは彼らであった。コンスタンチノープルは 1453年に、エジプトとシリアは 1517年に彼らの手に落ち、1592年にはウィーンの城門に達する。イスラムを採用し、トルコ人はイスラム音楽の重要な担い手となった。スルタンたちは、優れた音楽家や歌い手たちを宮廷に抱え、彼らの音楽は近東やバルカン半島に大きな影響を与えた。彼らの理論はアラビアやペルシアの音楽に根ざし、ギリシア、ビザンチンの要素も帯びている。そして、多くの作品がアラビア語やペルシア語からトルコ語に翻訳された。
 メヴレヴィ教団(The Mevlevi Order「踊る托鉢僧(dansing dervishes)」)は、1240年の早きにペルシアのコニア(Konia)に創設され、近年までコンスタンチノープルで重要な施設として維持されてきたが、それはより古い伝統と楽器の多くを保存する責務をずっと負ってきた。この教団は、救済の手段として儀式に音楽と舞踊とを採用している。その重要な作曲家の中に、イトリ(Itri(1631-1712))とデーデ・エフェンディ(Dede efendi)(1797-1864)があげられ、彼らの曲の多くが残っている。また、私たちはすでに見てきたように、トルコ人の生まれであった偉大なアル・ファラビ(Al-Farabi)(10世紀)によって作曲されたある音楽が現世紀でも演奏されたと主張さえしている。確かに、リズム・モードのいくつかは托鉢僧の間だけに見いだされる。9/4小節によく似た次のように配置されたリズムのように。2分音符(doum)、4分音符(doum)、4分音符(tek)、2分音符(doum)、4分音符(tek)、2分音符(tek)。
 メヴレヴィの楽団(mutrib)は、歌い手や器楽奏者、たいていは2,3のリード笛(nei、ペルシア語で nay)と宗教団体に特有の型の2対のケトル・ドラム(qudum)から成り立っていたが、それで構成されていた。笛と太鼓(ドラム)は教団が創設されるずっと以前から踊りの伴奏をしており、恐らく、初期の時代のシャーマン的な要素を伝えているのだろう。リード笛の使用は、教団の創設者ジャラル・ウド・ティン・ルミ(Jallal ud din Rumi)の後であると言われている。彼は、自らの偉大な詩マトナウィ(Mathnawi)の冒頭で、ベッドから引き裂かれた葦のベッドへの郷愁に似た憧れに、神秘的に真の自己を愛し焦がれる自らをたとえている。彼らの楽器の完全なリスト、それは、恐らく9つか10だが、フィドル(rabab)、枠太鼓(mazhar)、そして古典音楽からはずっと姿を消す傾向にあったがシンバル(halil, zal)にようなものがあることを示している。メヴレヴィの音楽は、古典音楽同様、リード笛、ツィター、タンバリンを持っていたが、世俗音楽の楽器のような、古典の短いリュート('ud)や長いリュート(tanbur)は、托鉢僧の音楽には全く見いだせない。
 トルコ音楽の際立った特徴は、トルコの近衛騎兵、およそ 1400年から 1826年までのトルコ君主の軍の護衛兵だが、その音楽であった。旋律はリード楽器と大太鼓、シンバル、トライアングル、クレセントを含む打楽器で演奏される。クレセントというのは、てっぺんに天蓋のついた長いポールに多くの真鍮の三日月が付けられ、それに数え切れないほどのちりんちりんと鳴るベルが付けられているものである。作曲家たちは、モーツアルトが「トルコの」オペラ「Il Seraglio」で、ベートーベンが交響曲第9番のフィナーレでしたようにこの音楽を真似し始めた。この二人の作曲家はピアノ音楽でも、それを思い起こしている。その有名な楽章の様式は、「トルコ風に(alla turca)」という言葉で指示されているように。
 トルコ音楽と比べると、他のイスラム諸国の音楽は後退し、過去の記憶の中に生きる傾向があった。これらの国々の托鉢僧たちは、古い伝統を育む同様の機能を果たしていたが。13世紀から17世紀まで体系的な理論家たちが、リュートの調弦法の詳細について非常に多くの著作を書いている。14世紀から、音楽はペルシアや後に他の地域でも単純なピタゴラス音階に逆戻りした。近代の 1/4音(rub')音階の採用は、アラビア - ペルシア - シリアの音楽体系の最後の変換点であったのだけれども。18世紀には、重要な理論的著作は何も書かれなかった。

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現代の傾向

 アラビア音楽が、その潮が最大限引いてしまった時に、アラビア世界で文化復興の始まりが明らかになり始めた。先陣をきったのはエジプトで、最初はメヘメト・アリ(Mehemet Ali)の時代であった。彼はトルコ近衛騎兵隊によって育てられ、1805年から 1848年までエジプトの太守となった人物である。これは技法的な性格のものであった。その世紀の終わりには、ミカイル・ムシャカ(Mikha'il Mushaqa)(1880年没)の著作で始まる音楽理論への関心の復活があった。これは今世紀を通じて、特にエジプトで絶えず増大している。様々なアラブ諸国の学者たちは、自らの古い音楽への関心を増大させている。芸術の復興は、フォウアド1世(Fouad I)(1917年からエジプトのスルタン、1922年から 36年まで国王)には特に関心事であった。そして(国立)音楽院が、彼の先導で、カイロに設立された。1932年、(学術)会議が、古典アラビア音楽を残しているものを収集し、検証をし、最も優れたヨーロッパの方法を有効に用いるため、新たにヨーロッパと交流をするために開催された。
 この検証の一つの著しい成果は、西方すなわちマグリブ(Maghrib)(チュニス、アルジェ、モロッコ)のアラビア音楽と東方(エジプト、シリア、ペルシア)のアラビア音楽との違いが明らかにされたことである。両方の地域とも7音音階の音程に基づく旋法を用いているが、西方では「自然の」音階を用いる傾向があるのに対して、東方は1オクターヴを24に分割したものから選ばれた半音以下の音程を用いる傾向があった。また、双方とも複合的なリズム感を持っているが、これもまた、2つの地域には違いがある。西方は、普通比較的短い打楽器と旋律との間に複雑に交差した(ずれた)リズムのある韻律のフレーズを採用しているが、東方にはそれほど交差したリズムはなく、しばしばより大きなより綿密な韻律のフレーズを持っている。それは88拍という数になることもある。その非対称なリズムは、聴衆に非常な活気を与える効果があり、アラビア建築の幾何学的デザインの基礎と比較されうるだろう。アラビア音楽は、ごく普通には、精巧にできた旋律に限定されるが、19世紀後半、上エジプトの合唱とベック(三弦の楽器)、タブル(tabl)、タル(tar)のためのある民衆の音楽は、一種の和声的な書法を示している。これは十分同化されているとはいえ、結局はヨーロッパの影響によるものに違いない。
 ヨーロッパの影響は、もちろん、ほとんどのオリエントの音楽の伝統と同じように、今は広く広まっている。ほとんどのアラビア語を話す諸国の主要都市にある音楽院では、アラビア音楽とヨーロッパ音楽との両方が、理論も実践もともに教えられている。西洋への関心と歩みを同じくして、東洋は独自のものの多くをもちろん失った。アタチュルク(Ataturk)は、1922年に、托鉢僧の教団を抑圧した。そして、あれこれの理由で、彼らはほとんどのイスラム諸国で禁止されたり消滅していく傾向がある。古典音楽の主要な保護継承者であるメヴレヴィは、まだ、非常に限られた仕方ではあるが存在しているが。
 アラビアの一般の人々に最も受け入れられているヨーロッパの音楽は、主として非常にポピュラーな音楽か、あるいはせいぜいロマン主義のオペラのアリアである。こうした素材は、アラビア諸国の多くの歌い手であり作曲家である人々の基盤となっている。そして、伴奏においては、ヨーロッパの明るいオーケストレーションから多くの影響を受けている。
 現代の生活でのアラビアの作曲家は、困難な問題と直面している。ヨーロッパの伝統に基づいて作曲することを目指し、自らの伝統的資質を全く失うというリスクを負うべきか?自らの過去の音楽を追い求め、それに全く依存するべきか?本質的にはヨーロッパの音楽であるものに、「ローカル色」をにじませることで妥協するべきか?一方、高度に飾られた旋律と精巧に組み立てられたリズムに支えられた水平構造に基づく伝統的な東方スタイルと和声と対位法を採用している伝統的な西洋のスタイルとのいかなる融合が、あるいは、東洋の個人的な楽器と声とを好む方法と西洋の多くの楽器と大合唱のアンサンブルを使用する方法とのいかなる融合が効果的であり得るのか?そして、単なる抑揚の繊細な音階と平均律の西洋の音階とを、どのように調和すべきなのか?
 これらの問題意識がある限り、それぞれのアラビア音楽家たちは、自分たちの光に応じて、それらを解決しようとしている。恐らく、ヨーロッパスタイルでの最も将来性のある作曲家たちは、アラビアでももはやトルコのイスラム国家でもないところから出てきているだろう。しかし、私たちがすっと議論してきたどの地域にも、まだ、ユダヤ人や日本人が成し遂げた将来に希望のもてるものと比較できるものはない。明確な結果は、さらにいくつか一層大きな課題の解決を待たなければならない。

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