実践の衰退とヘレニズム理論の勃興(9世紀-13世紀)--[器楽音楽の勃興][ヘレニズムの理論家][マカームとイーカー]  [目次へ]


 847年からイスラムの政治力は衰え始めた。それでもバグダードは偉大な中心で、カリフのほとんどは、まだ、宮殿に付属する精巧な音楽組織を維持していたが、その音楽家たちは以前の輝かしい時代の音楽家たちとは決して比較できるものではなく、音楽は著しく衰退していた。同時に様々な重要な逆流がわき起こっていた。というのは、イスラムの神秘主義的な宗教団体に音楽が採用されて、外国からの新しい楽器が伝来することで、器楽音楽への関心が増大していたからである。そしていくつかの重要な理論的著作が現れた。
 この時期、イスラムの中心では二つの宗派が重要になった。スーフィー教とデルヴィッシュ派(イスラム修道士)である。彼らが音楽の寿命を永らえさせた。11世紀頃から、スーフィー教は、究極の真実とは神との合一(エクスタシー)--「幕を上げ、照覧者(アッラー)を証言すること」によって--を通じてのみ感得できると信じるようになった。その最も直接的な方法とは、「音楽を聴くこと(サマ(sama))」であった。


器楽音楽の勃興

 これまで見てきたように、初期の頃から声による音楽がずっと主流であった。しかし、10世紀の初めから、ペルシア、トルクメン、ムガール、そしてトルコの嗜好により、器楽音楽が前面に押し出された。その時期の主な形式であるナウバ(nauba)(「継承(?)」)と呼ばれる一種の声の組曲は、いくつかの楽節からできており、そのそれぞれの前に器楽による前奏曲(tariga)があって、これが器楽の演奏者たちに連続して演奏する機会を与えた。この頃の曲がどのように鳴り響いていたのか、私たちは知らない。というのは、現存する最初の書かれた音楽は、13-14世紀以前のものはなく、そうした断片も私たちにはほとんど何も語ってくれないからである。後に、その組曲は、今日でもまだ用いられている用語ではあるが、タクシーム(taqsim;分割)と呼ばれる即興的な器楽の楽章が前におかれた。
 リュートはその人気を保持していたが、別の楽器がより重要になった。今日のアラビアのアンサンブルでよく知られた台形の形をしたプサルテリウムは、10世紀から名があげられている(シリア)。弓でひく弦楽器の最初の確かな証拠もこの世紀からである。アル・ファラビ(Al-Farabi)は弓でひくラバブ(rabab)のことについて述べ、その弓は戦士の弓のような形をしていた。今日でもアラビアのフィドルの弓の形である。中東でも、スパイク・フィドル(カマンチャ=kamancha)、半球形の胴と長い鉄の脚のある一種のヴィオルであるが、それが好まれていた。送風(管)楽器では、スルナイ(surnay)(参照:トルコでは zurna)がこの時期人気が出てきている。多くの先の章でも見たように、東洋ではいろんな形で広まっていた。

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ヘレニズムの理論家

 9世紀の中頃までに、ギリシアの音楽理論の論文の多くが、アラビア語に翻訳されている。そのうちいくつかはシリア語から、そして、その世紀の終わりには、バグダードの学者たちはギリシアの音楽理論の遺産をかなり完全な形で自由に使えるようになっていた。ギリシア理論の多くがアラビア音楽に同化吸収され、リュートの新しい調弦法が洗練されたギリシア音程の用語を用いて導入された。アラビアの理論家たちは、すぐにギリシア理論の大家となり、やがて、音の物理学的基盤と楽器の調音の知識において、ギリシア人を超えるようになった。音楽(アル・ムシキ(al-musiqi))は、実際、初期の大学では重要な研究課程となった。
 9世紀から13世紀の間に書かれた多くの典籍とおよそ200の著作の中で、四つの書が著しく重要である。アル・キンディ(Al-Kindi)(d.c.874年)による「旋律の内的知識に関する論文(The treatise concerning the Inner Knowledge of Melodies)(Risala fi khubr ta' lif al-alhan)」、その写本は大英博物館にあるが、現存するアラビア音楽理論の最も初期の論文である。それは、大きくギリシア理論に由来し、一つの音の記譜法を含んでいる。13世紀になるまで、定量の音価を伝えるのに数の要素が加えられることはなかった。アル・ファラビ(Al-Farabi)(d.c.950年)による「音楽大全(The Grand Book on Music)(Kitab al-musiqi al-kabir)」は、それまで書かれた中で最大の音楽に関する書であった。アル・ファラビは、哲学者で音楽家で理論家で、トルコ生まれ、アレッポ(シリア)とコルドバ(スペイン)で著作した。ペルシアの理論家イブン・シーナ(Ibn Sina)(アウィケンナ(Avicenna),1037年没)の「キタブ・アルシファ(Kitab al-shifa)」には、音楽理論に関する非常に重要な章がある。それは、その時代までのイスラム諸国のすべての科学的哲学的知識を要約している。イブン・シーナは、それまで言及されなかった旋律の装飾の特徴について述べている。すなわち、旋律の音と同時にオクターヴや五度、四度が時折目立つものである。彼は、それをタルキブ(tarkib)(文字通りの意味は「和声的重唱(オルガヌム=organum)」と呼んでいるが、ヨーロッパ中世のオルガヌムと直接の関係はあり得ない。
 ヘレニズムの理論は、最後のカリフの時代でも優勢であったが、サーフィ・アルディン(1294年没)は、すでに理論の新しい楽派(the Systematists)の先駆者として現れている。彼はリュートの調弦と演奏の整調法の問題とに非常に専念していた。重要な彼の「音楽旋法の書(Book of Musical Modes (Kitab al-adwar)」は、後のほとんどすべての理論家によって引用されている。

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マカームとイーカー

 この時代の間に、旋律とリズム・モードの体系は一層洗練されたものとなり、輪郭においては今日まで続いている型(パターン)を見いだした。旋律型は、現在の名称マカーム(maqam)(参照:エジプトの naghma; チュニジアの taba; アルジェリアのsana'a)と呼ばれるようになった。どのマカームにも特有の音階、ある声域や音域、一つかそれ以上の主要音と定型的な旋律のフレーズがある。13世紀から12のそうした基本的主旋法があって、そのうち7つにはペルシア語の名がついている。
 マカームが旋律を支配する一方、イーカー(iqa)(リズム)は拍子を決定した。9世紀には、普通は低いピッチの虚ろな音(doum)と高いピッチの乾いた途切れた音(tek)の交替に基づく7つのリズム・モード、すなわち拍子があった。これらはタンバリン(da'ira)や太鼓(tabl)、また小さなケトルドラム(nuqarat)で演奏された。リュートのプレクトラムも都合に合わせてリズムをとった。トルクメンやトルコの影響のもと、新しいリズム・モードが導入され、15世紀までには21の多きになっていた。
 アラビアの旋律型とリズム・モードは、これまでの章で語られた東洋全体に存在する同じ型と比較されうるだろう。インドのラーガ・ターラの体系では、これらの二つの要素に持続する基音を加えていたが、アラビアのマカーム・イーカーの体系では、そうしたものは見つからない。ドローン(持続低音)は、アラビアのバグパイプ(arghul)、この時代に目立つようになった民衆の楽器だが、その音楽にはあるけれども。
 この時代、音楽は進展したけれども、カリフの支配力は次第に衰退し、イスラム帝国は次第に弱体化していった。この文明は、1258年、バグダードがモンゴルの手に落ちると、ついに破壊されてしまう。ペルシアとメソポタミアも同じ頃陥落した。少しの間、エジプトとシリアが文化の中心となり、エジプトは12世紀からトルクメンの何らかの影響を、13世紀からはマムルークの影響を受けたが、音楽的に言えば、それらはバグダードの重要さに匹敵するようなものには決してならず、1517年、オスマン・トルコによって共に征服された。

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