東方でのイスラム音楽の勃興とアラビア古典音楽(7世紀-9世紀)--[イスラム宗教音楽][古典アラビア楽派]  [目次へ]


 ムハンマド(Muhammad)(571-632年)が生まれたのはアラビアの儀礼の中心であるメッカであり、彼の名を持った宗教(622年に始まった)が最初に栄えたのはヒジャス(Hijaz)であった。彼には音楽を好んだという証拠も音楽を好まなかったという証拠も両方ある。これには唯一の有効な解釈が可能である。彼には識別する感覚があった。しかし、この識別の感覚は、宗教倫理的ほどには純粋な音楽的考察がなされなかった。歌を歌う少女たちは禁じられた快楽への決して小さくはない要因を含んでいたし、原始的な巡礼の歌でさえ信者たちを異教への道へ引き戻したからだ。それと同時に、アラビア人はその血の中に音楽を持っており、古代の廟の音楽を根絶できなかったところでは、音楽、特にタフリル(tahlil)やタルビヤ(talbiyya)を採り入れた。また、いくつかの巡礼の歌には新しい形式が与えられ、横笛(fife)や太鼓(tabl)で伴奏することも許された。


イスラムの宗教音楽

 しかし、より重要なのは新しい信仰から生まれた音楽であった。キリスト教会の典礼に比較しうるものはモスクの礼拝にはこれまでずっと決してなかったし、その結果イスラムには事実上典礼は存在しなかった。しかし、音楽は様々な仕方で常にずっと用いられてきた。イスラム時代の初期、祈りへの呼びかけ(adhdan)は、ムーエジン(muezzin)(祈祷時報係)によって、通りであるいは少し後にはモスクの尖塔から歌われた。朗詠(talhin)は、初め哀歌のようであったが、時代が進むにつれて旋律的になり、今日ではシンプルな歌から華麗な旋律に至るまで様々なスタイルで様々に聞かれるだろう。コーラン(クルアーン)すなわちムハンマドの啓示を含むイスラムの聖典には、独自の朗唱法(taghbir)がある。韻を踏んだ散文の類音は、それ自体が調子を合わせた音で朗詠されるように響く。この朗詠も初めは控えめであったが、後には旋律的に発展し、9世紀までには用いられる旋律は民衆のバラードの旋律も含むまでになり、疑いなく、現実には礼拝の場所をはるかに超えて朗詠が広まったことと関連しているだろう。実際に、讃歌(nasha'id)を歌うこともそうであったが、それは世俗の楽しみとなった。
 イスラムの世俗音楽の到来と共に、初めは相当の反発にあったように思える。イスラムの最も初期の時代から、常に、純粋主義者や律法主義者たちがいて、彼らはムハンマドの非難を思い起こすことが大切だと考え、すべての音楽、世俗音楽だけでなく宗教音楽も含めて何でも非難した。そうして、膨大な論争的な文献が「音楽を聴くこと」について現れた。疑いなく、正統カリフ(632-61年)の下で、歌う少女たちに反対するいくつかの方策が現実にとられた。彼らはムハンマドの死後続いて首都をアル・メディナに移した人たちであるが。そして、その世紀の半ば頃、男性の音楽家たちが重要な役割を果たすようになり、ヒジャス(Hijaz)に送還されたペルシアの捕虜たちの歌から、ペルシアの影響が生じたのはここにおいてであった。

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古典アラビア楽派

 しかし、ほどなく世俗音楽は、ウマイヤ朝のカリフたち(661-750年)の下で、新しい刺激を受けた。彼らは、正統カリフたちとは異なって、イスラムの帝国の側面と一層関わっている。彼らは首都をアラビアではなくシリアのダマスクスにおき、宮廷に音楽院と言えなくもない洗練された音楽施設を維持していた。「音楽に情熱を注いだ」ヤジド1世(683年没)の下で、私たちは初めて宮廷詩人のことを耳にする。
 この時期の世俗音楽の著しい特徴は、リュートの伴奏によるソロの歌であった。実際のところ、10世紀まで歌うことは、純粋な器楽音楽より優れていると考えられ続けていた。アラビアのリュートは表板は皮で作られている楽器であったが、685年頃にペルシアのリュートがメッカに伝えられてからは、前者(アラビアのリュート)はその新しい名前(ud.文字通りの意味は「木」)を記念して表板は木で作られるようになった。リュートの歌では、音楽の形式は詩の形式に従い、普通、装飾のあらゆる可能性に応じて変化するが、その単一の短い旋律は言葉にあわせて形作られた。
 当時の最も重要な音楽家はイブン・ミスヤー(Ibn Misjah)(715年頃没)であった。彼はアラビア古典音楽の父、そして恐らくその理論の最初の編纂者と見なされるだろう。シリアやペルシア、その他の地域を旅し、彼は非常に多くの理論、歌、リュートの演奏、そして彼にとっては新しい事であったリズムでの伴奏を学んだ。彼は学んだことの多くを消化したが、アラビア音楽とは相容れないとして多くのことも拒否した。それで、私たちは、彼の楽派の古典アラビア音楽は、アラビア固有のものと見なすかも知れないが、ペルシアやビザンチンその他のものも豊かに含んでいる。
 イブン・ミスヤーの体系を私たちは後の著述家を通してしか知らないが、11世紀まで演奏者たちによって用いられたアラビア理論を支配していたリュートのための8つの「指の旋法(finger modes)(asab')」を含んでいる。一つの例外はあるが、それはギリシアや教会旋法と同一のものである。
 これらの基盤の上に、旋律パターンや旋律が組み立てられ、シェイク(顫音)や装飾音、トリルやスライド、アポジャトゥーラなど、アラビア人たちにはザワイド(zawa'id)(参照、tahasin,zuwwaq)、また西洋の音楽家たちにはフィオリトゥーラ(fioritura)として知られる華麗な旋律様式など、あらゆる形の装飾を伴って演奏された。そのスタイルは、アラビア建築の表面を装飾することとよく比較がなされてきた。
 モード・リズム(iqa'at,iqa(リズム)の複数形)もまた、この頃に文書化されている。初めは4つ(7世紀の3四半期)それから6つ(ウマイヤ朝の時代)そして最後には8つ(9世紀)と。これらの拍子は、それぞれ基本的な周期(duar)と様々な形式(anwa')とを持っていた。基本的周期は複雑に変化した。例えば、カフィフ・アル・ラマル(khafif-al-ramal)のものは、3+2+3+2の8分音符の拍子で、その4つのグループのそれぞれの最後の拍は8分休符であるという拍子で作られた 10/8の非対称な小節のようなものである。こうしたリズムは、その旋法の旋律やその装飾と共に、初期の時代からアラビア音楽の3つの本質的性格をなしている。
 アラビア古典芸術は、初期アッバス朝のカリフたち(750-847年)の下で隆盛し続けた。そして音楽活動の中心はバグダード(イラク)へと移り、そこで絶頂期を迎えた。音楽は、恐らくアラビアの芸術(美術)や文学と共に、ハルン・アル・ラシド(Harun al-Rashid)(786-809年統治)の下、「黄金時代」を迎える。彼の広範な音楽への興味は「アラビアン・ナイト」の読者すべてに知られているだろう。その環境は、確かに多くの点でペルシア的であった。有名な歌い手である王子、イブラヒム(Ibrahim)(839年頃没)の下のペルシア・ロマン楽派(Persian Romantic School)は、古いアラビア古典楽派と競い、その人気は1世紀ほど続いた。しかし、その古い芸術は、イシャク・アル・マウシリ(Ishaq al-Mausili)(767-850年)、恐らくイスラムがこれまでに生んだ最も有名な音楽家であると思うが、彼にその偉大な主唱者を見いだした。一人のすばらしい歌い手--私たちは、彼を突然圧倒する発声法で高い音で歌い始めると描写することができるが--彼は、同様に重要な理論家でもあった。私たちは、彼の著作については、彼の弟子で現存する古典の伝統についての唯一の完全な論文「音楽書(Risala fi'l-musiqi)」の著者であるイブン・アル・ムナジム(Ibn al-Munajjim)(912年没)を通してしか知らないのだが。この論文は、アラビアの古典音階(15世紀になってもまだ見いだされたのだが)は、ギリシア人のピュタゴラス音階と同じものであったこと、しかし、その音階はギリシア人の間で行われていたような下降音階ではなく、上昇音階として読まれていたことを示している。

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