自己のクインテット
マイルスはニュークインテットと呼ばれる自己のクインテットで活動していたが、これはジョン・コルトレーンの加わった名高いクインテットとして結成されている。ニュークインテットと称されているのはそれ以前にも時折、自己のグループを作って演奏していたからである。マイルスは最初テナーにはソニー・ロリンズを加えるつもりだったらしいが、ロリンズはシカゴで引退生活を送っており、カムバックの意志がなかった為、新人のコルトレーンを加えたのだった。しかし、当初のコルトレーンの評判は悪くファンや関係者からは「あんなへたなテナーは早く首にしろ」と言われていた。マイルス自身は頑として聞き入れずかえって「コルトレーンの新しさをわからないか」と反発したという。コルトレーンは演奏中、決して笑わず「アングリー・ヤング・テナー」と評される程であった。トレーンは勉強家であり、マイルスという偉大な師と共に短期間で飛躍的な成長を遂げる。 60年代のクインテットとしては、ウイントン・ケリー、ポール・チェンバース、ジミー・コブの後にハービー・ハンコック、ロン・カータートニー・ウイリアムスのリズム隊にフロントをジョージ・コールマン、ショーター、キャノンボール、ハンク・モブレーらが飾る。しかし、60年代の初頭のジャズ・シーンは、、オーネット・コールマンの出現によりフリージャズが齎されたりエリック・ドルフィーといったジャズのニューウェーブが注目されるなど一方では実に激しく揺れ動く年代であった。マイルスは暫くは新しい方策はなかったが、所謂ハード・バップのイディオムをとことん問い詰めた保守派であった。


リズムセクション
マイスルはレッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズというジャズの伝統を生かした「ニュー・オール・アメリカン・リズム・セクション」とも言うべき、3人のリズム隊を非常に気に入っていた。また、コルトレーンやマイルス自身のニューコンセプションが良きコントラストをなし、グループを幅のある魅力的なものとしている。この頃、マイルスはミュート奏法とオープン・プレイを巧みに使い分け、トランペットの限りない可能性に挑戦していたとも思われる。マイルスはトランペット生来の持つ力強さ、激しさ、男性的というイメージを更に変革し、デリケートな表現を引き出した人物であった。それは長いJazzの歴史に一人もいなかったのである。当時マイルスのミュートプレイは「卵の殻の上を歩く男」と評されていた。クール・ジャズをリードしてきたマイルスはその時代にトランペットをデリケートに奏する効果を身につけたのである。この頃、マイルスが親交を深めた音楽家にギル・エバンスが いた。


ビッチェズ・ブリュー
「モダン・ジャズはアーティストの存在が重くのしかかって来る処に得も言われぬ魅力を秘めている。ジャズメンが音楽に託して語り掛けるボキャブラリーの豊富さは、断然他の音楽を寄せ付けない。そのボキャブラリーたるや理路整然とした語りから、ポンポン飛び散るジョークの類まで全てが自己存在を語り明かす断片を織り成すのだ。20世紀アメリカを代表する文化所産としてジャズが世界の人々に深く浸透して行ったのはこのボキャブラリーの豊富さであり、それに伴う受け止め自由な奔放さが人種や言語を超えてコミュニケイト成し得たからだ。」(CBSライナーより引用)とジャズについて語る人がいる。その存在全てとカリスマ性を備え持っていた人がマイルスであったと思う。そのアーティスティックなパワーとマイルスのマジックが広く知られる様になったのは50年代後半が最初であり、60年代末期である。また、マイルスは一度築き上げたスタイルにとどまる事なく常に模索し変化を求め脈動し続けるパワーの持ち主でもあった。68年後半からグループ・エクスプレッションを次々に変動して行き、ギターリストを加えたりエレクトリック楽器を導入したり、新メンバーを迎え入れた りしている。ネフェルティティはそう言ったマイルスの移り変り行く直前の序奏であり、各人の奔放なプレイを巧みに統合し、グループとしてのアンサンブル・サウンドを築き上げて行った作品であると言われている。マイルス、ショーターのホーンアンサンブル。トニーウイリアムスのスリリングなドラム。ここに見られるのは所謂、アグレッシブなソロではない。1年余りの間、マイルスに次々と呼びつけられたミュージシャン達はマイルスと共に新時代を目指したツワモノ達ばかりであった。スタジオに集まった面々は一気にセッションを繰り広げていったという。あっという間の3日間に心の中に刻まれたものはダイナミックなサウンドの渦以外に何も無かったと伝えられている。そんな背景の中でスパニッシュ・キーを含める世紀のマイルスセッション、「ビッチェズ・ブリュー」が生まれる事となる。後に激しい論争を呼ぶ事となるのだが…・・。