特別企画2「冷戦の落とし子?」

特別企画「怨念根絶?」

 米国では今回のテロを「真珠湾攻撃以来の最悪の襲撃」との表現が使われた。しかし、1941年12月の真珠湾の死者は2403人で、しかもそのほとんどが軍人だった。今回の犠牲者はほとんど民間人で(日本人も含まれる)人数も真珠湾をはるかに上回るだろう。米本土が外国の攻撃で物的損害を被ったのは、1812年のイギリスとの戦争以来だという。

 さて、今回のテロの犯人はアラブ、イスラム系原理派が中核を占めているのだろうか?ビンラディン、そしてアフガンのタリバン政権、はたまた核を持つパキスタンはどのような態度をとるのだろう(イラク、イランその他のアラブ諸国の動向も気になる)。全世界が固唾をのんで見守る中、アメリカはいつ軍事行動に出るのだろうか(あげた拳はおろせないだろう。とは言え同盟国の日本のこれからが心配なのだが)?

 今、アラブ地域を含めて世界各国は次々とテロ犯行者側に宣戦した米国を支持する態度を、言葉の強弱はあっても明示しているが、このような未曾有(みぞう)の対米テロが発生したそもそもの根源に関しては、報じられている限り、どこからも何も指摘されていないと思う(最近のワイドショーには、その様な発言をする中東関係の学者もいる)。

 しかし、本当にこのテロにサウジアラビア出身の反米主義者(とはいえ、旧ソ連時代では米と一緒に戦っている。要するに彼はCIAの申し子?)といわれるオサマ・ビンラディン、あるいはなんらかのアラブ・イスラム過激派が関わっているのであれば、パレスチナ問題を視野から外してしまうことはむつかしい。

 その場合は少なくとも、84年前の、第一次世界大戦の最中(まなか)の「バルファ宣言」までさかのぼって分析を試みなければ、事の真因には至れないだろう。

 皆さんもご存じであろうが62年前製作の英映画「アラビアのロレンス」クリックしてね!に描かれている時代背景がその時代で、この映画でも当時の英仏帝国主義の姿は故意なのかはっきりと描かれていないと言うのが大方の意見である。

 とにかく、地中海東岸に沿って南北に広がるパレスチナは、ローマ時代の弾圧で多くが離散を余儀なくされるまで、部分的ではあるが確かにユダヤ人が多数住んでいたと推定される。時代は下って、このパレスチナを含むアラブ地域はオスマン帝国(トルコ)に支配されるが、パルファ宣言が出されたときの同地も、人口はほとんどアラブ人だった。いかに大国であろうと他人に土地を勝手にもてあそぶようなことが許されるかとパレスチナのアラブ人は怒ったのだ。ここもクリックしてね!

 第一次世界大戦で、ドイツとオーストリアに立ったトルコがドイツ・オーストリアと共に敗北し、アラブ地域を放棄せざるを得なくなると、英仏はそのアラブ地域を戦後に発足させた国際連盟から委任統治領という形でいくつかの地区に分割して、事実上領有する。英仏は、帝国主義サイクス=ピコ協定を最優先させたのだ(それについては上記クリック)。

 それより前の19世紀末、仏、東欧、ロシアなどでユダヤ人迫害に対抗する策として、ユダヤ人国家を建設しようと言う「シオニズム」運動が記者で劇作家のテオドール・ヘルツルによっておこされ、欧州ユダヤ人社会の共感を呼んだ。ロスチャイルド家などのここもクリックしてね!欧州ユダヤ財閥もこの運動を支援した。

 その時代、英政府は戦後の財政の捻出に余念がなかった。そのため、税制をまかなう英国債の消化などに協力してもらおうとユダヤ人の歓心を買う策を英政府がめぐらしたとしても何ら不思議はない。英国のロスチャイルドは、18世紀にドイツのフランクフルト・アム・マインで巨財をなしたユダヤ人の三男の子孫である。この一族は、英国の対ナポレオン戦争、クリミア戦争の戦費調達、スエズ運河買収費の融資にも一肌脱ぎ、日露戦争では日本の外債募集を手助けした(おどろくべきは、仏ロスチャイロド家は、その逆に、ロシアに外債募集に手を貸した)。

 一方、アラブ側に独立を保障したフセイン=マクマホン書簡(最初のクリックで記述)も、それをてこにアラブ部族をトルコにたいして蜂起させ、アラブ地域からトルコを駆逐するのが狙いだったのだ。英国のアラブ研究者で、第一次世界大戦中は英陸軍情報部員を務め、この蜂起教唆(そそのかし)に関わったのが例のT・E・ローレンスで、それを美化したのが先述の映画である。

 ユダヤとアラブを英政府が、このように両立しない政策で操った矛盾が第二次世界大戦後に局地戦争(中東)として爆発する。

 そして、今、ユダヤ人とアラブ人のこの死闘は「文明の衝突」、つまり、文明の秩序の対決の相貌さえも見せるである。そして、現在米国は、20世紀までの欧州の失態を、欧州の退場と共に一身に受けさせられている。この破局には回避の道はあるのだろうか?あるとすれば、血塗れのイスラエルを解体するしかない、そんな乱暴な意見は見識者の中にもないとは言えない。

 参考文献「緊急増刊・AERA」9/30号NO・42定価280円也。

[冷戦の落とし子でーす] /welcome:

 冷戦時代は「敵」の象徴、二年前の北大西洋条約機構(NATO)のユーゴスラビア空爆では卵やトマトを投げつけられたモスクワの米国大使館前が、瞬く間に花束で埋まったという。

 市民が手向けた花は、理屈ではなくこみ上げる感情からロシア人が初めて米国人と肩を寄せ合ったのだろう。それは、彼らロシア人もテロの恐怖感と隣り合わせだったからだ。

 モスクワ市内のショッピングセンターや集合住宅などで爆弾テロが続発、半月足らずの間に計約300人が犠牲になったのは2年前の夏だ。昨年8月にもモスクワ市中心部でテロは発生している。

 ロシアは頻発するテロ主犯とされているのは、南部チェチェン共和国で連邦軍と戦闘を続けるイスラム武装勢力。プーチン政権の徹底した掃討作戦にもかかわらず驚嘆すべきしぶとさで抗戦を続けている。彼らを支援しているとされるのが、実は、ウサマ・ビンラディンなのだという。

 プーチンがいち早くアメリカを支持した背景にはその様なことがあったのだ。米国がロシアに対してチェチェン問題をとやかくいい、アメリカが横やりを入れていたときはロシアのプーチンは嫌悪感を露にしていた(それまでロシアは、アメリカの非難横やりを内政干渉、よけいなお世話と言っていた)。

 さて、今回のアメリカにおいてのテロ攻撃はどのような意味合いを持つのかを考察してみたいのだが・・・。

 そのポイントは「1979年」にある、とおっしゃるのはかの有名な落合信彦氏である。その年に、今回のテロと密接に関係する3つの重要な出来事が起こっている。

 1つが、ソ連のアフガン侵攻。このとき、若かりし頃のビンラディンはアラブの義勇兵を募って対ソ戦に参戦、この行動が後々イスラム原理主義勢力内で絶大なカリスマを得るきっかけとなった。アメリカはソ連に対抗する立場上、イスラム勢力に莫大な武器と資金を投下。結果的にこの地にイスラム原理主義勢力をばっこさせることにつながったのだ。

 だい2が、イランのホメイニ革命。1月(1979)にパーレビ国王がエジプトに脱出した後、フランスに亡命していたイスラム・シーア派指導者ホメイニが帰国、革命評議会によるイスラム共和国を成立させた。パーレビ脱出からホメイニ帰還までのプロセスは、米国のトラウマにもなっている(人質奪回作戦失敗)。

 現在、イランでは対話路線を重視するハタミ大統領の民主化政策が始まっているらしいが、ホメイニが火付け役となったイスラム原理主義にこり固まった聖職者達は、ハタミ大統領以上の力を持っていると言われる。

 そしてだい3が、サダム・フセインのイラク大統領就任である。アメリカは翌年(1980)から始まったイラン・イラク戦争でイラン憎しのトラウマゆえにイラクに肩入れし、アフガン同様に金と武器を惜しげもなく与えてしまった。そのイラクのアメリカへのお返しが湾岸戦争とは・・・。

 とにもかくにも、この3つの出来事は、いずれも冷戦の産物で、同時にアメリカの大失策でもある。今や民主主義の敵とまでののしられるイスラム原理主義は、何を隠そう、アメリカ自身が生み出したなんとも皮肉としか言い様のない、アメリカの政策の落とし子でもあったのだ。さらに、冷戦で火花を散らした超大国の米国とロシアがテロで手を握りあうとは、作り話でもなかなかそうはいかない完璧のストーリーではないだろうか。

 とは言え、アメリカの同盟国でもある我が国(他人事ではないんだよね)。他国のことだと知らない振りはできないし、かといっていつまでもアメリカにおんぶにだっこでもないだろう(アメリカの核の傘の中で生きている)。我が国の代表者達は何か独自の指針がないものかと苦心惨憺をしてもらい、次の時代の子供達のためにも我々国民を引っ張っていってもらいたいものだ。そうでないと、鎖国を開き現在のわが国の礎を創った幕末の偉人達に合わす顔がないのではないだろうか(我が国の扉をこじ開けてくれたのは実は彼の国なんですよね)。

参考文献「SAPO10/10号」小学館。