8. ユダヤ

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[遊牧時代(BC3000年紀--BC2000年紀)]
[パレスチナの諸王と最初の(ソロモンの)神殿(BC11世紀--BC6世紀)]
[バビロン捕囚後(BC6世紀--AD3世紀)][西洋への移住先で(4世紀--16世紀)]
[ヨーロッパ音楽との接触][現代の局面(19世紀後半--20世紀)]

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遊牧時代(BC3000年紀--BC2000年紀)

 BC3000年紀の間、メソポタミアもエジプトも最初の2章で見たように進んだ文明の中心であった。その二つの国の間にある砂漠の地に、セム系の民族が、遊牧民、牧羊者として生活し、彼らは生存のための戦いを歌に歌っている。水を求める祈りは、彼らの心の中に絶えずあったに違いない。民数記(the Book of Numbers)の「井戸の歌(Song of the well)」が証言しているように。また、今日でも、砂漠ではベドウィンたちはまだ歌っている。「泉、おぉ水よ。豊かに流れる(Spring, O water, Flow in plenty.)」いずれの歌も、古代と現代との違いはあるが、形式は簡潔で、リズムは音の強弱によっている。聖書の歌の音楽は残っていないが、旋律の短いパターンが何度も何度も(様々なヴァリエーションで)繰り返されるとき、ベドウィンたちは古代の習慣を今に伝えているのかもしれない。
 BC2000年紀の初めに、ユダヤ人はアブラハムの下で、初めて他のセム系民族のグループから分離した。アブラハムは、およそ BC2000年頃にメソポタミアの都市ウル(Ur)から、カナンの地(パレスチナ)に移ったと言われている。アブラハムの孫にあたるヤコブは、ユダヤ人を連れ放牧のためにエジプトに移り、そこで(エジプトの)中王朝、新王朝の文化に触れ、400年以上そこにとどまり、ついには奴隷となった。その後、BC1500年頃(恐らく1300年)、モーゼによって救い出され、カナンへと導かれた。フィロン(Philo)によれば、モーゼはエジプトの神官たちから学問(科学)と音楽が教えられていた。疑いなく、彼の民は、エジプト新王朝から多くの歌と調べとともに、楽器ももたらしただろう。出エジプト記の「ミリアムの歌(Song of Miriam)」の描写は、リズミカルな体の動きが女性の民衆の歌と不可分であったことを示唆している。今日のドエルバ島(Isle of Djerba)(北アフリカ)のユダヤ女性の歌と踊りとの中に見られるように。
 ミリアムの歌は、普通ティンブレル(timbrel)あるいはタブレト(Tabret)と呼ばれる枠太鼓(トーフ=tof)で伴奏された。アラビアの伝統では、それをトゥバル・カイン(Tubal-Cain)、黄銅(真鍮)と鉄の職人に帰している。トゥバル・カインは、ユバル(Jubal)の血縁であって、ユダヤの伝統によれば、後者(ユバル)は、創世記の一節を最もそれらしく訳すると、「リラ(キンノール=kinnor)と横笛(ウガブ=ugab)を扱う者たちすべての父」であった。その小さなリラはより大きなエジプトあるいはシュメールの形態からきているのかもしれない。横笛は羊飼いや牛飼いの楽器であった。これら3つ、タブレト、横笛、そしてリラは遊牧時代のユダヤの民の共通の楽器であった。さらに三つ(の楽器)が彼らの儀式と結び付けられていた。危険な時と悔い改めの時に吹かれた子羊の角(ショーファール=shofar)、合図として用いられた大音響のラッパ(ハゾズラ=hazozra)、そして--エジプトの儀式の名残である--身を守る力として神官たちの衣装に付けられたベルあるいは鈴(パアモン=pa'amon)。土師記(the Book of Judges)によって祝された期間(BC1200--BC1050)に、ユダヤ人たちはパレスチナを征服し、そこに羊飼いや農民として定住を始めた。彼らの新しい生活は、新しい労働歌の息吹を吹き込んだ。戦死者への哀歌(dirges over the fallen)や「デボラの歌(Song of Deborah)」など。メソポタミア人、エジプト人、フェニキア人、そしてカナン人の儀式が、パレスチナでは相並んで盛んに行われ、その儀式の音楽は地方の神殿でユダヤ人によって聴かれた。さらに、BC10世紀まで、楽器はパレスチナではまだ作られておらず、レバノン、オフィール(Ophir)その他の外から持ち込まれたものばかりであり、ソロモンがファラオの娘と結婚したとき、非常に多くの楽器がエジプトからイスラエルにもたらされたと信じられている。しかし、BC2000年紀の変わり目までには、すでに多くの進貢国の外国文化がパレスチナで出会い、その結果、ユダヤ人が自らの文化を発展させるに十分なほどに状況が安定してきた時には、彼らはすでに次に描写するような豊かで多様な背景を形作っていた。

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パレスチナの諸王と最初の(ソロモンの)神殿(BC11世紀--BC6世紀)

 第二番目の王、ダヴィデ(BC1013--973年統治)の下、イスラエルはイェルサレムを首都とする巨大な統一国家となった。その王宮には、初めから、すなわち最初の王サウル(BC1050--1013)の統治から独自の音楽の伝統があった。サムエル記の中で、若きダヴィテはリラ(キンノール)でサウルをなだめた話が語られているが、声の音楽もそこでは盛んで、男性や女性の音楽家たちが当時の他のオリエントの宮殿でと同じように歌を歌った。「王の詩編(Royal psalms)」は宮廷生活の多くの局面、即位式や記念日だけでなく、王の結婚、戦争への出立や帰還についても記録している。
 ダヴィデの息子とその後継者ソロモンの統治の間(BC973--933)に神殿が建てられた。BC950年頃、ユダヤ教礼拝の大中心地としてイェルサレムに。その礼拝は、ユダヤ宗教の核となる唯一神への信仰の表現として設計された。儀式は、毎朝、毎夕の犠牲の儀式と宗教年の祝祭とから成り立っていた。儀式の音楽は、演奏者だけでなく作曲家でもあり、またアモス書によれば楽器の発明者でもあったダヴィデによって組織化された。神殿の礼拝音楽を司るようにレビの民の男たちを任命したのは彼であった。そしてレビ人は、聖なる音楽家の階級とみなされた。女性たちは儀式の音楽に何の役割も果たさなかった。
 神殿音楽の中心的役割は詩編を歌うことであった。聖書の詩編のほとんどは、ダヴィデほど古くはなく後の時代に彼のものとされるようになっただけであった。同時に、聖書の詩編はソロモンの神殿にまでさかのぼる型を保持している。特に賛美(例えば、cxli)の、祈願(例えば、xliv)の、そして感謝(例えば、xxx)の詩編などは。残念なことに、詩編の古代の音楽はもはや残っていないが、詩の性質は、それがどのようなものであったかいくつか手がかりを与えてくれる。単位は、弱い、あるいは強い中間休止(caesura)によって半行に分けられた一行である。半行のアクセントの数は普通3つであるが、音節の数は様々である。初期のヘブライの詩のこのアクセントの性格は、詩を散文に近いものにしている。音楽の単位は、与えられた音程に基づく旋律パターンであったように思える。そのパターンは、アクセントや音節の数が変わることを考慮に入れ、自由に長さやアクセントを変えることができた。そして、一つ以上のこうしたパターンが二つの半行に要求されていただろう。
 最初、その詩編は、恐らく、祭司やレビ人だけによって歌われただろう。会衆たちは、ハレルヤで答えたかもしれないが。(詩編 civから cviのように)また、祝祭での使用のためのいくつかの専門的な詩編(例えば、xxiv)は、実際にはアンティフォナ的な歌い方を示唆している。巡礼の詩編(例えば、cxxii)は、明らかにコーラスで歌うよう企図されていた。
 詩編と関連し、レビ人によって演奏された主な楽器は、イスラエルの遊牧時代からの小さなリラ、キンノール(kinnor)であった。聖書は、愛情を込めてその甘く優しい音色に言及している。大きな垂直型の角形ハープ(ネベル=nebel)は、10弦あり、恐らくフェニキア起源であろうが、それもまた述べられており、疑いなく求められるように音を強めるためであっただろう。このようにリラとハープは礼拝儀式に加わり、その役割は特定の詩編のために選ばれた旋律パターンの音程を明確にすることだったに違いない。詩編の節の終わりにしばしば見いだされるセラ(Selah)という言葉(詩編第3編の2節、4節、8節のように)は、楽器による間奏を指示するものであると信ずるいくつかの証拠がある。さらに、神殿で歌われた歌は、弦楽器による伴奏が事実あったかも知れない。休止は歌い手が持っている銅のシンバル(mziltaim,後に zelzlim)で区切られた。
 甲高いトランペット(ラッパ)(hazozra)が合図として祭司たちによって対で用いられた。そして子羊の角(ショーファール=shofar)の鋭い音が様々な儀式の目的に使われた。後者の楽器(ショーファール)は、特に、供儀(生け贄の儀式)と関連がある。ユダヤの神話は、その起源をアブラハムが息子のイサクの代わりに捧げた茂みの中で捕らえた子羊の角に由来するとしている。
 私たちは、歴代記下の有名な一節から古代音楽の壮麗さのなにがしかや聞き手たちに及ぼした(音楽の)効果を推測することができるだろう。そこで、私たちはソロモンの神殿の奉納の儀式では、120人の祭司がトランペットを吹き、248人のレビ人が歌い楽器が奏でられた。「主を誉め讃え感謝する際に一つの音を聞かせるために。トランペットやシンバルやその他の楽器とともに声をあげて主を誉め讃える時、・・・そのとき、(主の)家は雲で満たされた。・・・その雲のために祭司たちは勤めを果たすことができないほどであった。主の栄光が神の館を満たした。
 これらの時には、明らかに楽器の音楽が一層好まれた。また、インスピレーションや恍惚得る助けとして預言者たちに用いられもした。預言者エリシャが王のミンストレル(宮廷詩人)の歌を聞くと「主の手がエリシャの上に降りてきて、彼は預言をした。」
 歌や楽器の音楽に加えて、踊り(machol)も、初めは宗教儀式では重要であった。サムエル記下は、私たちに「ダヴィテは、力の限り主の前で踊った」と語っている。その習慣は(すぐに)なくなったようだが。

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