亡命(バビロン捕囚)後(BC6世紀-AD3世紀)     目次へ

    [第二の神殿][分派の音楽][ギリシア・ローマ時代][ユダヤ・キリスト教の起源]


 4世紀近くの間、神殿の音楽は間断なく続けられた。宮廷の音楽は、諸王に受け継がれて繁栄した。しかし、BC587年、イェルサレムはアッシリア王ネブカドネザルの手に落ちた。突如としてユダヤ国家は終焉し、神殿は破壊され、多くのユダヤ人がバビロニアへ連れ去られた。彼らの多くはそこに留まり、何世紀もの間、他のユダヤ人とは完全に孤立した状態で生活した。彼らの保持してきた聖歌は、初期の数世紀の間にペルシアやイエメン(南アラビア)といった東方の各地へ散らばっていった他の孤立したユダヤ共同体の聖歌といくつか著しい類似点を示している。このように、これらのユダヤ人たちは、非常に古代の形式をいくらか保持しているように思われ、その聖歌は最初の神殿の時代にまでさかのぼる要素を含んでいるかも知れない。

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第二の神殿

 バビロン捕囚(BC586-588年)後、多くのユダヤ人は、ペルシア支配の時期にパレスチナに帰還し、王家の歌い手たちも男女ともに一緒に戻った。ユダヤの共同生活が再び始められたが、当然のことながら、以前ほどは大規模なものではなかった。もちろん、もはやユダヤの王宮はなく、宮廷音楽もなかった。新しい生活は、建造が BC514年に完了した第二の神殿に、主な中心が置かれた。礼拝は音楽とともに行われ、神殿の音楽家たちの一族は、捕囚以前の時代のようにレビ人の家系であると主張した。音楽の伝統は、疑いなく、最初の神殿の伝統と何らかの繋がりはあっただろう。聖書の詩編のほとんどはこの時期のものであり、その表現は、古い時代のものととは異なって、今や小さなグループや個人の祈りを中心に展開する。私たちは、それらが歌われた旋律パターンのいくつかについて、名前さえも知っている。このように、詩編 viiiには指示がある。「聖歌隊の指揮者によってギデトにあわせて」。その意味は、「「ブドウ絞り器」の旋律に合わせて歌う」あるいは「ガドの町の旋律に合わせて歌う」であろう。アンティフォナ的な歌やレスポンソリウム的な歌は、今や一層普通のものとなり、レビ人、すなわち先詠者(precentor)が詩行の最初の半分を歌い、会衆が詩行の後半を応唱する。これは、キリスト教の教会音楽の技法の先触れとして重要である。
AD1世紀の終わり頃、第二の神殿には、まだ詩編やモーゼ五書(タルムード)の一部を歌うレビ人の合唱があった。最小の構成メンバーは12人であり、年齢は30歳から50歳、彼らの訓練の期間は5年であった。これに、レビ人の少年たちが「音に甘美さを付け加えるために」加えられただろう。神殿の楽団は最小で12人の演奏家、9つのリラに2つのハープ、そして一対のシンバルから成り立っていた。12の祝祭日のそれぞれには、2つのハリル(halilim)が加えられた。ハリル(halil)は、今では横笛に与えられた名前であるが、古いハリル(halil)は、東洋(オリエント)あるいはエジプト起源のダブル・オーボエであって、最初の神殿の礼拝では知られてはいない。むしろ、パンの笛(シュリンクス=syrinx)のような小さなパイプ・オルガン(magrepha)がキリスト紀元の初め頃に現れたように思える。
 最初の神殿の時代と同様、神殿の聖歌隊と神殿の楽団との間の正確な関係はわかっていない。楽団は聖歌隊の伴奏をしたかも知れないし、交互に演奏されたかも知れない。また、その両方で演奏されたという可能性も除外することはできない。第二の神殿でも、最初の神殿と同じように、トランペット(ラッパ)と子羊の角が合図として用いられたが、実際の礼拝の音楽では、何の役割も果たしていなかった。

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分派の音楽

 神殿で聞かれた音楽と並んで、恐らく分離したユダヤ教の宗派が、何らかの自らの礼拝音楽を持っていただろう。例えば、最近発見された死海文書(Dead Sea Scrolls)には、そうした宗派の一つ、現在、紀元一世紀に存在したエッセネ派であると信じられている宗派の、神への感謝の詩編やその他の礼拝の資料を含んでおり、しかもその写本は、ネウマの音楽の記譜のように見えるいくつかの記号を含んでいる。他の初期の記譜体系との比較から、万一それが記譜法であることが証明されれば、これらの記号は、ユダヤの現存する最古の音楽の記譜体系に属することになるだろう。それ以前に他のものが存在した可能性があるにしても。

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ギリシア・ローマ時代

 この頃までに、パレスチナは、BC332年にアレクサンドロス(アレクサンダー大王)に征服されてギリシア帝国の一部になっていた。ヘレニズムの影響は、なるほどユダヤの宗教音楽の範囲の中ではそれほど目立ってはいないが、世俗音楽では、事情は大きく異なっている。第8章で見たように、BC3世紀からAD1世紀にかけてギリシア音楽は主情主義(emotionalism)で特徴付けられるが、当時の教育あるユダヤ人の間では、この種の音楽がかなり流行していた。
 キリスト紀元以前1世紀からローマ人はその地域を占領し始め、AD6年には、ユダ(パレスチナ南部)はローマの属州になった。ローマ人は、イスラエルになんら文化的影響を及ぼさなかったが、実は、ユダヤ人国家にとっては運命的なものとなる第一歩を踏み出した。AD70年、ティトゥス帝のもと、ローマ人は第二の神殿を破壊した。次の世紀またそれ以後も、ローマによる迫害、内部での反乱、経済的圧迫などが結びついて、状況は非常に困難なものとなり、AD200年以後、パレスチナに定住するユダヤ人は減少した。古典時代の終焉は、ユダヤ人の東方や西方への大離散(ディアスポラ)を立証することになった。それは、ユダヤ人の生活と音楽とに全く新しい状況をもたらし、ユダヤ人の主な発展の中心はパレスチナ以外の地でのことになった。

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ユダヤ・キリスト教の起源

 AD1世紀から活動していたユダヤ人のグループの一つは、ここで特に言及する必要があるだろう。すなわち、イエスの信徒となった人々、キリスト教徒である。最も初期のキリスト教の先詠者は、ユダヤの礼拝の神殿で育まれた人たちで、ローマ・キリスト教音楽の起源(始まり)は、後の章で述べるように、ある程度ヘブライの神殿の音楽に跡づけられるかも知れない。ユダヤ音楽の理論は、これまで文書に書かれたものは何も知られていないが、民を救うために BC4世紀にエジプトに連れてこられたユダヤ人の子孫たちの住むアレクサンドリアは、ユダヤ教やキリスト教の発展、また、初期キリスト教、特にビザンティウムの伝統音楽の発展における資料の系統化や保存において重要な役割を果たした。

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