[西洋への定住先で(4世紀-16世紀)][ヨーロッパ音楽との接触][現代の局面(19世紀後半-20世紀)]
離散(ディアスポラ)後の初めの数世紀の間に、ユダヤ教の精神的遺産は、収集され文書にまとめられた。タルムード(Talmud)やミシュナ(Mishnah)のような著作が現れるのはこの時期からである。もはや神殿は存在しなかったが、神殿の破壊前からより小さな規模での礼拝の中心がすでに発生し始めていた。これがシナゴグの起源である。神殿で音楽の指導者であり教師であったレビ人が初期のシナゴグで同じ任務を務め、伝統的音楽の形式を保持した。先詠者の責務であった礼拝は、次第にパレスチナとバビロニアで発達した。ラビたちは、堕落したギリシア音楽が自らの民に及ぼす影響を知っていたので、世俗音楽とのいかなる接触も認めなかった。こうした理由から、また、シリアやメソポタミアのユダヤ人たちが参加しがちであった異教の儀式に対する防衛としても、彼らは礼拝での楽器の使用を奨めず禁止さえした。事実、許された唯一の楽器は、子羊の角で--後のヨーロッパの影響は別にして--それは、今日シナゴグで見いだされる唯一の楽器である。しかも、それは、最も初期の時代からその角の役割である合図として特別な場合にだけ用いられた。
一方、声の音楽は、積極的に奨励され、ユダヤ礼拝の基盤となった。7世紀までには、バビロンでは、声の音楽は共同体的つまり合唱のようではなく、個人的なものになったように思える。なぜなら、離散とともに、共同体の礼拝はずっと小さな規模のものになり、個人により強調が置かれたから。こうした事情から、二つの発声法が重要となった。聖書の朗詠と祈祷の朗詠とが。
聖書の朗詠は、神殿の時代にすでに知られていて、そこからシナゴグに伝えられた。それは、現存するユダヤの伝統的な音楽の実践の最も古い型である。散文の朗詠は覚えるときの記憶を助けるために歌が用いられた。そして、その歌は一連の旋律の定型で作られていた。これらは、それぞれテキストの上または下に書かれた記号(タアミン=ta'amin「アクセント」)で示された。それぞれの記号は、メリスマすなわち朗詠される時の母音に適用される音のグループを示し、これがネウマ、言葉によって口述されるリズムを構成する。ネウマは、BC2世紀頃、すでに知られていたかもしれない。また、後には、キリスト教徒によって用いられ、初期キリスト教聖賛歌の基礎となった。現在知られている記号は、AD5世紀から AD10世紀の間にその起源がある。その3つある主な体系は、シリアのネウマといくらか類似している原パレスチナ・ネウマ(the Proto-Palesetinian)(5世紀)、バビロニアのネウマ(7世紀後半と8世紀)、そしてビザンチンの影響を見せているティベリアン・マソラ(Tiberian Masorite)(9-10世紀)である。これらの記号の意味は、1000年以上口伝で伝えられたので、異なる解釈を比較してみれば分かるように、かなりの変化を受けている。朗詠において詩文「アクセント」が歌われた音階旋法は、たいていテトラコードに基づいていて、聖書の各書がそれに相応しい音楽の旋法を持っていたように、その詩文アクセントの演奏(朗詠)は、当然、異なる書では異なる仕方で様々なピッチで朗詠された。聖書の最も古い信頼できる朗詠は、喜びの長音階的な音階(旋法)を用いている。
祈祷の朗詠も、また、神殿の時代にさかのぼるかも知れない。その証拠は間接的だが。その歌は8つの旋法(オクトエコス(octoechos))に基づいており、もともとは、暦との関連で体系化されたと信じられている。それは、第8章で述べたギリシアのハルモニアイのオクターヴ形式ではなく、一層複雑な構成をしており、旋律の型のモデルとして用いられている。それぞれの礼拝には伝統的な旋律の型があり、朗詠は、そうした旋律の型をアウトラインとして、その周りを自由に声で織りなして演奏(朗詠)した。演奏にはかなりの妙技(名人芸)が要求されたかも知れない。こうした即興演奏された旋律は、職業的な先詠者、ハザン(hazan)の名からハザヌト(hazanut)と言われた。ハザンというのは、中世から今世紀の初めまで、ユダヤ教礼拝において重要な地位を占め、私たちがユダヤ聖歌というときに連想する高度に飾られた旋律へと進化する上で一定の役割を果たした人たちである。
ユダヤ人たちの地中海やヨーロッパの多くの地への離散は、当然のこととして彼らの音楽の実践上に違いを生じさせた。シナゴグにおいても、シナゴグの外においても、それは主として彼らが住むようになった国々で受けた影響のためである。最初の重要なユダヤ文化の中心は、8世紀からのイスラムのスペイン征服に従ったユダヤ人たちによるものである。ユダヤ音楽へのアラビア音楽の影響は、実は、他のどんな単一文化の影響よりも顕著である。宗教的な歌より世俗的な歌の方が一層そうであるが。
14世紀から15世紀の間に東ヨーロッパに定住したユダヤ人たちは、今日では、ユダヤ人の定住したすべての地域の中で、数においては最大である。彼らは、家族の歌(愛の歌、子守歌、労働や婚礼の歌、舞踊の歌)の大レパートリーを発展させてきた。その多くは東洋の音階である。これらの歌の旋律の特徴の中に、ヨーロッパのre、doシャープ、siフラット、la(すなわち、おおよそ半音、増二度、半音)に近い特徴的なテトラコードがある。このテトラコードは、東洋のヘイヤズ(Heijaz)音階の中に見いだされ、タタール・アルタイの歌ではよく知られているもので、ユダヤ人の間でもまた非常に重要なものである。それは、つまるところは東洋に由来するものかも知れないが、彼らの悲しみや苦難、希望や願い、そして遊牧生活の音の表現でもあるように思える。
9世紀に、ユダヤ人たちは朗詠ではなく旋律的に固定された歌の形式を採用し始めた。これは、疑いなく異教徒の音楽との接触によって広くインスピレーションが与えられたのだろう。例えば、有名なコル・ニドレイ(Kol Nidrei)は、グレゴリオ聖歌から一部を借用している。グレゴリオ聖歌は、特に、中央ヨーロッパのユダヤ人に影響を与え、中世ヨーロッパのシナゴグの旋律は、教会旋法を多用している。
しかし、中世の間、教会がヨーロッパ音楽の大パトロンであり続けた限り、その二つの音楽の伝統、ユダヤとヨーロッパの音楽との接触は、いかなる仕方ででも直接的であろうとは、ほとんど思えなかった。しかし、ルネサンスの間に、宮廷で世俗音楽が勃興するとともに、ユダヤ人たちは、音楽家として採用されることが可能となった。特に、イタリアで16世紀後半から。彼らは、イタリアで初めてゲットーの外での生活に参加したのである。
サロモーネ・ロッシ(Salomone Rossi)は、何年もの間(1587-1628年)マントヴァの宮廷にいた人物で、モンテヴェルディの時代そこにおり、何らかの重要性を持つ作曲家であり、ユダヤ礼拝のために、それを歌うソリストとコーラスを採用してポリフォニーの曲を書いた最初の人物であった。(1622年)ロッシには直接の継承者はいなかったが、1700年頃、ドイツのシナゴグではさらに一歩進め器楽音楽を導入した。オルガンやさらに特に異教徒の聖歌隊の採用を通して、多くのユダヤでない音楽がシナゴグでも聞かれるようになった。イスラエル・ヤコブソン(Israel Jacobson)(1768-1828年)は、コラールを含むキリスト教の素材をユダヤ音楽に適用した。サロモン・シュルツァ(Salomon Sulzer)(1804-90年)は、歴史的にユダヤ教的であるものに用いる素材を限定していると信じていたが、それにもかかわらず、彼自身の作曲は、その個性は、きわめてヨーロッパ的であることが分かる。軽妙なルイス・レヴァンドゥスキ(Lewandowski)(1821-94年)がそれに続いた。そして、まもなく、アメリカのシナゴグがヨーロッパのシナゴグをまねし始めた。
そうこうしている間に、18世紀初期に、西ヨーロッパの聖職者の運動に従った一宗派、ハシド(ハシディズム)が東ヨーロッパのユダヤ人の間に起こった。ハシディズムは、神との恍惚の合一への手段として音楽を採用した。そして、典型的なハシドの曲は、通常ゆっくりと始まって、急速に終える続くセクションで構成されている。ハシドの歌は、疑いなく、ユダヤ音楽の退廃を遅らせるのに力あったが、ヨーロッパの和声との接触が伝統的聖歌の旋法の感覚を破壊し始めていたので、それを守るにはすでに遅すぎた。18世紀後半までには、崩壊はすでに十分なほど進んでいた。というのは、採用された音楽の多くは、その音楽が宗教的であるにはほど遠く、何人かの革新者が進めようとしていたことは、ある礼拝の旋律がヴェルディのオペラ「ラ・トラヴィアータ(La Traviata)から借用されたという事実からも見て取れるだろう。
最近、作曲家たちは、こうした事態に反対し、ユダヤのイディオムと西洋音楽との真の関係を育もうとしている。スイス生まれのアメリカのアーネスト・ブロッホ(Ernest Bloch)(1880-1959年)のように、よりよい見通しのなかでシナゴグ音楽を書き始めた。古代の音楽の伝統は、事実上消滅してしまったが、ユダヤ音楽の中には、ある精神の連続性がずっと存在した。それは、まだ明確な文化的実体をもっているように思える。
このように、ユダヤ人たちはヨーロッパ音楽の資源を多く採り入れて来た一方で、その主流の音楽にも貢献している。すでに上で述べたサロモーネ・ロッシは、実際、西方の分野で活動した。ユダヤの礼拝へのポリフォニーの貢献に加えて、彼はヴァイオリン音楽のパイオニアでもあり、それにモノディ的な歌の原理を適用した最初の一人である。しかし、ヨーロッパ音楽へのユダヤの直接の影響は、なかなか力を結集できず、17世紀18世紀の間のように、全体としてユダヤ人は外国人として扱われ、ほとんど交渉はなかった。しかし、異教徒たちはシナゴグで聞いた音楽に魅了され、ユダヤの伝統的な歌を作曲の基盤として用いることをいとわなかった。イタリアの作曲家、ベネデット・マルチェッロ(1686-1739年)の詩編の合唱曲のように。
フランス革命後(1789-95年)、ユダヤ人はヨーロッパ社会において市民として受け入れられた。そしてヨーロッパ音楽の中に一つの場を見いだした。しかし、新しい社会生活を熱狂的に受け入れたので、彼らがゲットーと関連するすべてのことを顧みなくなるという傾向に陥ったことは不自然なことではない。かくて、ユダヤ的であると多くの特徴を彼らの作品の中にはっきりと識別することは難しい。技術的な才は著しく伴ってはいたが。先ず、メンデルスゾーン(1809-47年)、マイヤーベーア(Meyerbeer)(1791-1864年)、そしてオッフェンバッハ(1819-80年)がくる。ロマン主義の絶頂期には、マーラー(1860-1911年)とシェーンベルク(1874-1951年)がいる。シェーンベルクによって選ばれた文学テキストは、ユダヤの問題と大いに関連があり、彼の十二音列の概念は多くのヨーロッパの作曲に新しいが、きわめて論争的な方向性を与えた。
しかし、全般にユダヤの音楽家たちは、作曲家というより優れた演奏家であったように思える。西洋世界の偉大な演奏家たちのかなりの割合がユダヤの名をもっている。
ユダヤ音楽の素材によって影響を受けたユダヤ系でない作曲家の中に、ブルッフ(Bruch)(1838-1920年)がいる。また、ムッソルグスキー(1839-81年)とリムスキー・コルサコフ(1844-1908年)がおり、彼らの作品には、ハシドの旋律の痕跡が見いだされるだろう。
1882年から、ユダヤ人は全世界から聖なる地への「帰還」が始まった。彼らは、ヨーロッパ、エジプト、アジアその他の地域から来て、共通の言葉として現代の形のヘブライ語を用いた。彼らとともに、歌や踊り、その多くは彼らが長い間滞留していた国々で学んだものであるが、それを現代の音楽技法とともにもたらした。現代のパレスチナの都市の建設は、新しい職業の歌の息吹を吹き込んだ。1920年代、そして更に特に 1930年代の間に、オペラ劇団とオーケストラが活発になった。ユダヤのオペラが書かれ、ユダヤの劇場音楽が制作され、安息日の祭日の枠内でのコミュニティの歌が始まった。ヘブライの大学は、1925年に年代付けられるが、古いユダヤの朗詠の研究や東方ユダヤの音楽の収集が行われ、後には技法を記録化することで役立てられ、作曲家の背景は非常に豊かになっている。ユダヤの作曲家や他の音楽家たちは、パレスチナの放送サービスが 1936年に開かれて以来、非常に多くの機会が得られている。
パレスチナの作曲家たちは、音楽の環境に様々に対応している。先ず、ヨーロッパ様式の同化融合は完全なものとなり、その結果、型にはまった陳腐なものとなってしまった。ドイツのユダヤ人、エリッヒ・ヴァルター・シュテルンベルク(Erich-Walter Sternberg)(b.1898年)やポール・ベン・ハイム(Paul Ben-Haim)(1897年フランケンブルガー生まれ)のような古い世代の指導的作曲家たちは、中央ヨーロッパの現代のイディオム(作風)から生じている。何人かの作曲家たちの中には、慎重に、東洋の旋律を、古いものも新しいものも育んでいる人たちもいれば、聖書の過去の精神に没頭し、それを大切な表現手段と考えている者もいる。一方、パレスチナで生まれそこで訓練を受けた他の若い作曲家たちは、努力なしに自然にその多彩な背景を吸収している。
シナゴグ音楽の礼拝の様式は、現在、現代の風潮と形式の融合したものであり、ユダヤの作曲家たちは、まだその分野にはほとんど魅力を感じていない。一方、田舎の開拓地の労働では、新しい音楽の「礼拝」の息吹を吹き込み、祝祭には新しいものと古いものとが結びついている。
1948年のイスラエルの現代のユダヤ国家の建国は、重要な転換点であったことが証明されるかもしれない。明らかに諸々の文化を再収集し、再び結びつけようとする願望が見て取れる。今日、イスラエルで起こっていることは、2000年前カナンの地で起こったことに幾分共鳴しているかも知れない。東洋と西洋は前例のない規模でぶつかり合っている。明確な結果を期待するのはまだ早いが、ちょうど日本が極東で重要な音楽のるつぼとなっているように、イスラエルは近東でのるつぼ、そしてある程度、東洋と西洋の音楽の入り口となっている。