3. インド

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[アーリア人侵入以前の時代(BC4000年-BC1000年)][ヴェーダ賛歌の時代(BC1500年頃-BC250年頃)]
[仏教とヘレニズム(ギリシア)の影響][ラーガの古典体系と中世]
[北インドと南インドの伝統、イスラムの影響][近現代][インド音楽の東洋西洋への影響]

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アーリア人侵入以前の時代(BC4000年-BC1000年)

 インドには北西に侵入が容易な通路があり、海を除けば出口はない。およそ6000年以上にわたって、この亜大陸に流入し続けた民族の絶えざる波、そのほとんどがこのルートを通ってであり、それぞれの波が、それ以前に定住した民族を南方へと押しやる傾向があった。こうして、最も初期の時代に、今日、とても明瞭に識別できる、南と北との人種的及び音楽的伝統の違いが形成され始めた。更に、定住するようになった多くの人種の多様性は、それぞれ自ら固有の音楽をもたらし、インドを広大な音楽的知識の複合体となした。その中に、長い年月をかけ、古典音楽の伝統が、しばしばそして豊かに顔を見せた。しかし、その形成に、どんなに多くの多様な民族が影響を及ぼしたとしても、また、その歴史の中に変化が跡づけられるとしても、この芸術的伝統は、人種の影響よりも大きな影響を及ぼし、インド特有の決定的な性格を見いだした。
 初めに、私たちは最も古代の民族に目を向けなければならない。そのいくつかは、ネグリト(アジアのピグミー)のように--恐らく旧石器時代(BC4000年)のインド最初の定住民であろう)--今日、そうしたものとしては姿を消しているが、南及び東インドの広大な領域にその痕跡が見られる。部族民族音楽の体系的な調査は、その国(インド)の最も初期の音楽的層状構造の基盤を提供することができるだろう。インドには、14以上の主な言語と非常に多くの部族民族を誇っているけれども、ほとんどの民族の音楽はまだ真剣に研究されていない。
 これと同じく古代の時代(BC3000年)、インドはオーストラリアのアボリジニと何らかの関係があると信じられている民族の侵入を受けた。このタイプに属する原始的な狩猟民族である、セイロンのヴェッダ族(Veddas)は、(音楽の)旋律は二つの音だけに限られているように思える。
 しかし、古代のドラヴィタ族は、より高い文化とシスナデーヴァ(Sisnadeva)の儀式のような、たくさんの音楽と踊りを要求する豊穣祈祷儀式を知っていた。彼らの建築様式と哲学の多くのように、彼らの神々とそれに関連づけられた儀式音楽は、後の伝統の中に伝えられた。彼らの音楽的知識の残存物は、確かに、彼らの末裔のゴダヴァリ川(Godavari)の南のタミール語やその他ドラヴィタ系言語を話す肌の黒い民族の音楽の中に残っている。インドの音階のそれぞれの音は、一つの動物の鳴き声を表しているという長きにわたる伝承は、疑いなく、その起源を彼らの自然崇拝の中に見いだしたものであろう。
 新石器時代になると、地中海にいた様々な民族が、インドへの道を見いだした。原エジプト民族(proto-Egyptian people)は、巨石文化をもたらしたと信じられているが、多くの楽器ももたらした。それには、蛇使いの葦笛(南部では magudhi)あるいはその原型となったものや様々な太鼓が含まれていた。
 銅石器時代(Chalcolithic)(BC2500年頃-BC1500年頃)の間、シュメール人と関係のある民族が、北部で繁栄し、いわゆるインダス(渓谷)文明を造った。ハラッパ(パンジャブ地方)やモヘンジョダロ(シンド地方)での発掘は、高度な文化を持った芸術的な民族であったことを示している。その遺物の中に、踊り子や太鼓を叩いている女性の小立像がある。また初期メソポタミアで見られるタイプのアーチ(弓)型ハープの表意文字もある。

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ヴェーダ賛歌の時代(BC1500年頃-BC250年頃)

 BC1500年頃(あるいは、最も早くてもBC2000年)から BC1000年の間、民族移動前、BC3000年あるいは BC4000年に遡るが、西アジアに住んでいたが、アーリア語を話す民族が、インドに到達した。イランやヨーロッパの多くの民族同様、インドは(南部を除いて)今日まで、アーリア人が支配的である。アーリア人の最も初期の聖なる知識、当時まで口伝されていたものが、BC1500年から BC500年(恐らくもっと早く)の間に、リシ(rishis=賢者)によって初めて書き留められた。その結果、ヴェーダ(Veda,文字通り「知識」の意)と呼ばれる四つの書ができあがり、それには、祈り、讃歌、神々と結びつけられた儀式の定式文句が含まれている。
 これらの讃歌の採用された生贄の儀式は、世界の秩序を維持するものと見なされ、効力を発揮するために、正しい詠唱が強調された。リグヴェーダ(Rigveda)(讃歌のヴェーダ)は、四つの書の中で最も古く、(c.1500BC-c.1200BC)、その歌は、音の高さ(pitch)で明確な違いを暗示する三つのアクセント、ウダーッタ(udatta=「上げた」すなわち上の音)、アヌダーッタ(anudatta=「上げない」すなわち下の音)、そしてシュヴァリタ(svarita=「響かせた」すなわち中間の音)で歌われた。その音は、音高と散文のリズムが、一音節に一音ずつ密接に言葉に従った。こうした歌は、今日でもインドの多くの地域の神殿で聞くことができ、3000年の時を経て、ほとんど変わっていないように思える。
 旋律的には、ドラヴィタ族の歌の影響で豊かになったそれほど簡素でない形式の歌は、サーマヴェーダ(Samaveda)(歌のヴェーダ)の中に見いだされる。その言葉は、主としてリグヴェーダの第九書から適用されたもので、音楽が記譜されていて、ここでは反対に音楽の方が言葉より重要になっている。--今日の音楽でも、まだ行われている強調である。これまでより多くの捧げ物や犠牲と結びつけられ、サーマの歌は、三人の祭司によってユニゾンで歌われる。音階は、かつては五音であったが、後には七音音階が用いられた。実際には、普通用いられている音はもっと少ない。定型の旋律は、テトラコード(四度の音域)の中を動くことが非常によくある。その音階は、元来下降するものと考えられたことから、本質的に声の音階であり、こうした音階は、今日でもあるヒマラヤの渓谷で歌われている歌の中に見いだされる。その歌は、ギリシア音楽にも、後の時代のヒンドゥー音楽にも対応するものがない半音階的な要素によって特徴づけられる。ヘブライの(セファルディの)予言者の歌と共通のものがあるのだけれど。
 今日、16の異なった韻律の単位があるが、古いサーマの歌には3つしかない。フラシュヴァ(hrasva=「短い」)とディリガ(dirigha=「長い」)--短い音節と長い音節に対応している--それとヴリディ(vrddhi=「増音された」)である。最後のものはフレーズの終わりをわざと引き伸ばすものだが、(他の多くの特徴と同じように)キリスト教の単旋律聖歌に、それに対応するものがある。声の技法においても比較できるものがある。例えば、17世紀になって、ヴェーダの歌の中に見いだされた、東洋のトレモロ(震える)のような歌い方もまた、中世で、ある単旋律の歌のネウマ(quilisma,pressus)が、震える声(tremula voce)で歌うように指示していたことが挙げられる。
 常にインドの主要な宗教であったヒンドゥー教(Hinduism=Sanatana dharma(永遠の法))は、ヴェーダの伝統を体現している。しかし、今日の正統ヒンドゥー教で用いられている歌が、どの程度まで初期の形を保っているのか判断することは困難である。古代の論文は、ほとんど情報を与えてくれない。残存している学校は、取り組み方が異なっている。更に、超自然的であると信じられていた歌の発声法は、固く秘密にされている。これは、疑いなく伝統を損なわないように働いていたが。
 古代人の間では、声の音楽は極めて重要であった。同時に、音楽の意味を表すサンスクリット語、サンギータ(Samgita)は、それより広い、音楽と踊りのある歌の芸術と学問という意味を持っていた。ヴェーダやその他の古代の資料には、すでに楽器に言及されている。それは、ヴェーダの儀式そのものの中では、抑制されて用いられていた。踊りの要素も、恐らく祭司たちの手の動き--一部は象徴的に、一部は疑いなく音楽の記憶を助けるために--に限られていただろう。 しかし、これらの動きは、後の宗教的また極めて古典的なインド南部の舞踏形式、バラタナーティアム(Bharata Natyam)の基礎を形造った。楽器や踊りの要素の発展は、確かに、土着民族の芸術によって刺激された。例えば、元来はアーリア人の神ではなかったシヴァ神は、後に舞踏の神であるヒンドゥーのナタラジャ(Nataraja)になった。
 最も初期の時代から、またヒンドゥーの時代を通じて、音楽はずっと宗教的儀礼、宮廷の儀式、そして私的な祭典(ocassions)と密接な関わりがあった。これらすべての演奏において、宗教的要素は、一度として切り離されたことはなかったし、現代のストリートシンガーのレパートリーも、主として神々と関わりがある。しかし、聖なるものと世俗のものは、常に慎重に区別された。マルガ(Marga;文字通りの意味は「探し求められたもの」)は「神々によって作曲された」音楽であり、規則に従って歌われると解放へと導かれ、人間の生のサイクル(輪廻)から抜け出す(解脱)ことができた。デーシ(Desi;文字通りの意味は「地方の」)は、娯楽の音楽であった。
 この時代の、後に編集された偉大な叙事詩、ラーマーヤナ(BC5-6世紀)とマハーバーラタ(BC400-AD400)は--それには有名なバガヴァッド・ギータ(Bhagavad-gita)を含んでいるが--しばしば音楽に触れていて、音楽がすでに十分発達していたことを示している。これらの叙事詩の場面は、音楽的舞踏演劇の中身を形作っており、その伝統は、今日、特に南部のケーララ(Kerala)のカタカ(Kathakah)に生きている。
 ヒンドゥーの音楽に、特に集中して書かれた最も古い書物は、ナーティヤシャーストラ(Natyasastra)の第28章から第33章までを構成しているもので、今日BC200年頃と年代づけられていて、その時代十分確立していた実践形式を編纂している。現在、ヒンドゥーの芸術形式は、この時代に非常に多くのものを負っており、ヒンドゥーは、この論文の著者であると伝承されている賢者、バラタ(Bharata)を、ヒンドゥー古典音楽の創始者と見なしている。

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仏教とヘレニズム(ギリシア)の影響(c.250BC-c.AD600)

 しかし、古典の伝統は、突然に花開いたわけではなかった。しばらくの間、ヴェーダの伝統は、僧侶達が独占して伝承するようになった。その間に、二つの要因が結びついて、インドの音楽、特に北部において大きな影響を及ぼした。ギリシアあるいはスキタイ(Scythian)文化が、BC327年、マケドニアのアレクサンダー(大王)の遠征によってもたらされたこと。BC262年、ヒンドゥーの君主、アソカ(アショカ)王によって、(仏教の)信仰信条(creed)が受け入れられ、(それより2世紀以上前に創設された)仏教が突然興隆したこと。すでに言及したインダス(渓谷)文明のものと比較されうる弓形ハープが、バールフット(Bharhut)(中央アジア)のストゥーパの時代(BC180年)から神殿(寺院)のレリーフに現れている。今、インドにはその痕跡は何もないけれども、寺院のレリーフを飾って以来 AD800年頃まではまだ、多く使用されたに違いない。しかし、特にキリスト紀元1世紀に新しい文化が発達した。古代インドに顕著な送風楽器である cross-flute(サンスクリット語:vanici)が、この時代のレリーフに現れる。(例えば、サーンチー(Sanchi,中央アジア))ガンダーラ(現在のカシミール地方のガンダハル)のギリシア仏教彫刻は、楽器の宝庫であることを示している。--弦楽器に送風楽器に打楽器--これらはすでに使用されていたに違いない。手鼓(hand-drum)は、当時、今日と同じくらい人気があったことは明らかである。新しい文化によってもたらされた楽器の中で、実際には、リュートだけが定着し、インドの風土の中で新しく重要な形態を発達させた。ガンダーラには、ガンダルヴァ(Gandharvas)という職業音楽家がいた。そして、これらの「天上の」存在が、聖なる芸術形式を民衆に知らしめた。彼らは、全音階でない原理に基づく音階、ガンダーラ・グラーマ(Gandhara grama)(すなわちガンダーラ音階)といわれるものを使ったと言われている。ギリシアの二重テトラコードの理論が、インドの音の分割の解説者達に伝えられたと考えることは、それほど可能性のあることではない。
 仏教の特別な影響が何であったとしても、それを決定することは難しい。なぜなら、この時代は音楽的には、最も研究されて来なかったから。アシュタゴサ(アシュヴァゴーシャ)(Ashtaghosa)によって作曲された熱烈な讃歌は、信仰を広めるための手段であったけれども、仏教がインドを越えて広まった時、仏教はまた、インドの多くの特徴を極東の音楽様式に深くしみこませた(第4章、第5章、第6章、第7章を見よ)ことも確かである。インドでは、強力な組織化の力として、疑いなく働いたであろう。

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