[北インドと南インドの伝統、ムスリムの影響][近現代][インド音楽の東洋西洋への影響]


北インドと南インドの伝統、ムスリムの影響(c.1000-c.1700)

 古典のラーガの体系は、全インドに共通のものである。しかし、歴史を通して見れば、地方地域の違い、特に、初期の時代から北インドと南インドとの違いは顕著である。このため、民族の移動と文化は、既に叙述したように、インダス渓谷やガンダーラのように、一つの原因である。しかし、他にも要因はあった。BC518年のダリウス王の戦役に続いて、インドはペルシア帝国に加えられ、この世紀の間、その一部となった。AD717年には、パルシー教徒(インドに到ったゾロアスター教の一派)がインドに逃亡した。そして、アラビア人が AD725年に、グジュラ(Gujurat)を占領した。このように、北インドはムスリムの征服が始まる 11,12世紀以前に、ペルシア・アラビアの影響がなかったわけではない。
 初め、インドのムスリムたちは、イスラムの小さからぬ地域で音楽の使用に眉をひそめたこともあって、音楽に好意的であったとは言えない。しかし、スフィ(Sufis)は、音楽を育んだ。そして、ムスリムの支配者達は、アルタマシュ(Altamash(1210-36))の時代から、パトロンとして振る舞い始めた。後に、音楽はインドムガール(Indian-Moghul)宮廷(16世紀初めから)で奨励された。そして、アクバル帝の下で頂点に達した。音楽家タンセン(Tansen)は、今日でも北インドではよく聞く言葉である。
 イスラムのインド音楽への貢献は、相応しく評価されているが、一つのことだけは明白である。ムスリムの影響によって、二つの音楽的伝統は完全に分割された。それは、今日、インド音楽で明確に識別できる。北インドのヒンドゥスターニ音楽と南インドのカルナティック音楽とである。前者は、古代アーリア文化による、中東からペルシアを通ってきた新しく豊かな(音楽の)影響を受け、吸収したものに由来する。後者は、形式はアーリアのものであるが、内容は広くトラヴィタのものである。伝統的ヒンドゥー音楽は、極めて崇高で抑制されたもので、北インドではロマンティシズムを感じさせる、ムスリムの優雅で装飾的で感情のおもむくままに作られる音楽の伝統によって豊かにされた。ヒンドゥーの伝統は音の基礎であり、もう一つのきわめてすばらしい要求をうまく取り入れ、すばらしく活力に満ちた芸術を生み出した。力強さと優雅さの混合は、事実、ムガール時代の北インドすべての芸術の中に明らかである。ムガール宮廷の文化は、より世俗の雰囲気をもたらした。例えば、これは、南インドのより宗教的なバラタ・ナティアム(Bharata Natyam)と比較することで、北インドの舞踏、カタク(kathak)の中に見ることができる。カルナティク音楽は、また、より知的で韻律的に厳格であった。一方、ヒンドゥスタニー音楽は、音や旋律をより近親感を与える繊細な特徴をもつものへと発展させ、多くの新しいペルシアやアラビアの調べやラーガ(例えば、ヘセイニ(Heseini)、ヘジャス(Hejaz)、カフィ(Kafi)、バハル(Bahar))を受け入れ、変貌した。ムスリムの影響から、また、ある楽器のために決められたラーガの好みは言うまでもなく、同一のラーガやより長く柔軟な拍子に異なる名前が与えられるようになった。
 南インドは、ヴィーナー(vina)を好んで用いる。それは 1400年頃現在の形になった。一方、北インドは、シタールの方を好んで用いる。後者は、二つの文化の融合を示している。形はペルシアのウード(ud(リュート))に、原理はインドのヴィーナーに似ている。南インドは、後に持ち込まれたヨーロッパのヴァイオリンを好む一方、北インドは、サロド(sarod)を好む。サロドは、土着起源(ヴィーナー型)である可能性が高いが、ムスリムの影響の下(ペルシアのサルド(sarud)参照)現在の形となった。ラーガ音楽の主音(tonic)、則ち基音(ground-tone)を演奏する楽器の名、タンブーラ、則ちフレットのない長いリュートは、ペルシアのタンブール(tanbur)に似ている。送風楽器の中で、シャナイ(shahnai)と呼ばれるオーボエは、寺院やあらゆるめでたい祭典(婚礼、儀式、行列、祭り)で用いられ、ペルシアから北インドに伝わった。その名はペルシアに由来する。それと比較しうる南インドのオーボエは、全く異なった名、アガスアラム(nagasuaram)と呼ばれる。太鼓に関していうと、ムリダンガ(mridanga)は、北インドより南インドで広く使われ、北インドでは、タブラ(tabla)の方がよく使われた。--恐らく、アラブのタブル(tabl)にちなむ名で、既に使用されているのを見た楽器をムスリムが新たに作り変えたことを表しているのであろう。

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近現代(1700年以降)

 1700年になってすぐにムガール帝国が衰退し始めた時、インドの音楽は、既に変化の兆しを見せていた。音楽は民衆の間でより、貴族の庇護の下で一層発展を遂げていたので、音楽は民衆の間では、あまり評価されなくなっていた。声の音楽も器楽の音楽も、次第に異なる演奏家を必要とするようになった。
 そうしている間、イギリスの関心が 1600年頃からずっと増大していた。そして、インドは新しい局面を迎える。イギリスの支配の間、18世紀半ばから、20世紀半ば(1757-1947)まで続くが、古い封建制度は次第に崩壊し、音楽はその主要な庇護者を失い始めた。音楽は社会的な地位を失い、芸術性と活力を失い始めた。20世紀初めには、既に広まっていた崩壊過程がゆっくりと始まった。
 18世紀後半、インド音楽に、ヨーロッパは少なくとも一つ幸福な貢献をした。--ヴァイオリンである。ヴァイオリンは、インドの繊細な音調に非常に役立った。ヴァイオリンに西洋とは異なる調弦をし、インドの技法に適合させることで、インドのアイデンティティを失うことなく、時折多くの新しい資源を同化し、インド文化は、ヴァイオリンを同化するのに成功した。南インドでは、クラリネットがうまく取り入れられた。19世紀には、宣教団やインドの西洋崇拝者その他の人々が間違った指導をし、インド音楽に運命的な一歩を踏み出した。彼らは、西洋の同じ音律(平均律)に調律したハルモニウム(必ずしもきちんと調律されたわけではないが)を普及させた。この楽器は、今日非常によくタンブーラの代わりに用いられている。これは、インド人の音の感受性を鈍感にする傾向がずっとある。更に、いずれの体系に対しても正しい評価はほとんどなされず、これらの崇拝者たちは、非常に明確な結果を持った既に十分発達したインドの旋法に、西洋のハーモニーを押しつけようとした。最近は、映画音楽や軽音楽はずっと人気を博している。ラジオはそれを広める手助けをした。より優れたレベルのヨーロッパ音楽が、グロモフォン・レコードを通してインドに到達したが、基本的には、ヨーロッパ音楽にインド人の心はほとんど反応しないことを正直に認めなければならない。コンサートの演奏は、インド古典音楽の中に何ら場所を見いださない。最近になって、ヨーロッパで公式のコンサートを始めてから数世紀経ってだが、主としてラジオの影響の下、いくらか前進をしている。
 しかし、現代の生活は、新しい発展を求めていると信じ、インドの音楽家の中には、新しい形式を模索している人もいる。思想の流れとしては、徹底的な伝統主義者からどんな犠牲を払っても現代性を追求しようとする人々まで。神々を民衆と置き換えたり、すべてを民族音楽の創造に専念する人はいうまでもなく。最もよいと考えられた傾向は、ベンガルのラビンドラナト・ダゴール(Rabindranath Tagore(d.1941))のように、古典のラーガの伝統を深くしみ込ませ、新たなインスピレーションを求めて民族音楽の方を向き、それによって音楽史に十分な前例のあるプロセスを繰り返そうという個人の詩人・音楽家たちの流れである。ごく最近では、よりポリフォニーな線に沿った表現の方向に自らの道を感じている何人かの古典音楽家たちもいる。
 現代、音楽を記譜しようといういくつかの試みが見られる。なぜなら、ヴェーダ讃歌の記譜法は便利であるが、多くの異なった体系が地域ごとに用いられているから。様々な未発達の体系が古代のソルーファ体系(ドレミファ音階)から生まれ、記憶の助けとして使用されている。しかし、これ以上のことは、一回一回様々に即興演奏されるラーガ音楽において、記譜法はほとんど役に立たず、創造的な要素、また何世紀にもわたってその体系を生き生きと柔軟に保ってきた規範と自由との間の著しいバランス感覚を失わせさえしているかも知れない。インドの古典体系は、恐らく、東洋すべての偉大な音楽の伝統の中で、現代にまで生き残っている芸術的に最も重要なものである。

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インド音楽の東洋西洋への影響

 ムハマッドの国々(magam-iqa)に比べうるものが生じる千年以上も前に、インドに旋律・リズム(ラーガ・ターラ)の体系が存在したということは、一度も説明されていない。初期の段階で、ペルシアがインドに影響を及ぼしたかも知れない。私たちが見てきたように十分な接触があったけれども証拠は曖昧である。
 インド音楽の影響は、主として極東に現れる。仏教の目覚め(キリスト教紀元の初め数世紀)において、楽器と音楽の影響は、中国、韓国、日本そしてチベット(第4,5,6章を見よ)に及ぶ。ヒンドゥー教の目覚め(8世紀頃)で、東南アジア、インドネシア(第7章を見よ)に及ぶ。
 ジプシーを通じてヨーロッパに達したものもある。このアーリア人たちは、インドを起源にし、中世の間(6世紀から15世紀)彼らの通過した国々のカラーを帯びる傾向はあったが、アラビアやヨーロッパに、あるラーガ--全くインドのものである多くの旋律や装飾、また、スヴァラ・マンダラ(srava-mandala)として知られる楽器は、ジプシーのシュンバルム(cymbalum)という形で、私たちの鍵盤楽器の祖先の一つとして関心がある。--をもたらした。スペインのジプシーのインディアナ(Indiana)は、ヒンドゥーのバイラヴィ(Bhairavi)に対応する。
 今世紀(20世紀)初め、いくつかのヨーロッパ音楽は、ヒンドゥーの彫刻や演劇にインスピレーションを受けた。例えば、グスタフ・ホルスト(1874-1934)のリグ・ヴェータからの讃歌(Hymns from the Rig-Veda)やオペラ、シャヴィトリ(Savitri)またアルバート・ルッセル(Albert Roussel)のオペラ・バレー「パドマヴァティ」のような、あるインド音楽の特徴を具体化したもの。インドの音楽は、恐らく、東方の他のどんな音楽よりも西洋の好みに近いだろう。最近では、インドの音楽家達は、ヨーロッパやアメリカを訪問し、インドの古典音楽の優れた録音がいくつか西洋でも手にはいるようになっている。他の東洋の音楽の録音とともに、これらは、現代音楽に現在開かれている、より重要な素材の中に数え入れられなければならない。

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