神林復所
(かんばやし ふくしょ)
郷土の偉人
「当時の知識人の鑑」
神林復所は,磐城平城主安藤氏の儒者で、寛政七年六月二十五日(1795)、平に生まれる。
平藩安藤家の儒者和田左吉の長男である。幼名を「秀太郎」、後に「清助」、さらに「譲」と改称。
諱は、良弼。復所は号である。
享和二年(1802)、八歳の時、母方の神林家の嗣が絶えたのでこれを継いだ。
和田家は、弟の万弥が家督となった。
幼少から優秀で、二十歳の時、江戸の昌平黌の教官佐藤一斎に師事する。安積艮斎は同門である。
朱子学を学び、帰郷後、藩校施政堂の教授をつとめた。
白河藩若原氏の娘、那珂子と結婚、五人の子があった。
弟が、和田格斎、神林惺斎は息子である。
経書、宗学、経義を研究、擬能書家としても知られ、絵も堪能で、自画像も現存する。
明治十三年(1880)、八十六歳で亡くなる。
復所の父の長兄は、学者一家といわれ神林一家だが、その事績に関しては、明らかでない
。
平長橋町と内郷小島町の境界に、徳姫がかけたという,尼子橋≠詩にした人、学者、
大須賀筠軒
の父であり、俳人、大須賀乙字の祖父にあたる。
大須賀筠軒
は、わけあって、大須賀家の養子になる。
「岩城騒動記」神林復所著 元文三年九月
「岩城四十八館記」神林復所著
《福島県石城郡誌 大正十一年十二月五日発行、福島県立図書館資料を参照》
おおすがおつじ【大須賀乙字】俳人。名は績。福島県生れ。東大卒。雑誌「アカネ」(のち「人生と表現」を創刊。著「乙字俳論集」「俳句の研究」「乙字句集」など。(1881〜1920)と広辞苑に収載されている。
磐城の人
広辞苑に収載の人物
やつはしけんぎょう【八橋検校】近世筝曲の祖(1624〜1644)
ゆうてん【祐天】僧侶(1637〜1718)
あまだぐあん【天田愚庵】歌人(1854〜1904)
おおすがおつじ【大須賀乙字】俳人(1881〜1920)
くさのしんぺい【草野心平】詩人(1903〜1988)
2003年11月11日 記 桃太郎