大須賀筠軒
(おおすが いんけん)
郷土の偉人
尼子橋≠フ詩
果膳尼子勝男子 五郡風雲任指揮
來上當年架虹背 眉騰猶自照秋衣。
飄々踏月度長橋 近市人眠欲半宵
吟立悠然秋意遠 一聲横笛水迢々。
平長橋町と内郷小島町の境界に、徳姫がかけたという,尼子橋≠詩にした人、大須賀筠軒。
日本有数の漢詩人にして画人、史家として「磐城史料稿本」を著作。
大須賀乙字(俳人、東大卒、1881〜1920、いわき出身で広辞苑に収載されている人物)の父である。
大須賀筠軒は、
天保十二年(1841)十二月二十四日、磐城平城主安藤氏の儒者、神林復所の
三男として、平城下に生まれた。幼名を英三郎という。
嘉永元年(1848)、八歳で、
藩校施政堂に入学。
安政六年三月、十九の春、江戸に向かい、大学頭林復斎の門に入る。昌平黌に自由に出入りし、経学、文章学を学んだ。文久二年四月(1862)磐城平に戻る。藩校の頭取を命ぜられる。
元治元年(1864)の春、藩に建議、容れるところなく処分を受ける。
この処分の後、仙台に滞在中、藩校養賢堂の教授大槻磐渓に出会う。
八月、士籍を脱して、田之網村舟門の大須賀家に入婿にな
り家業に精を出す。(漁業、水産加工)
結婚した、大須賀家の一人娘、大須賀茂登は、号を痩玉と称し、相馬候婦人に仕え学才があった。
慶応四年(1868)の戊辰戦争のため、大須賀一家は仙台に逃れた。
奥羽越列藩同盟の盟主仙台藩に続き、平藩も降伏、再び舟門に戻り、家業の挽回をはかった。
佑賢堂と名を変えた藩校の講師を委嘱され、明治四年の廃藩置県まで教職。
明治八年七月、磐前県第四中学校教師、磐前県地誌編輯掛となる。翌九年磐前県は福島県に合併。
明治十一年妻茂登が亡くなる。明治十二年から行方・宇多郡長となり、中村に赴く。
後妻に国府田国保の妹ウメを娶る。ここで二子を得た、長男は夭死、二男績が俳人乙字である。
明治十五年三島通庸が福島県令にとなるや、その専制横暴と合わず、辞して下野し、各地遊歴。
明治二十七年安積中学に勤め、教授嘱託、漢文と倫理を受け持つ。
明治二十九年仙台の第二高等学校で教鞭をとることになって、仙台に居を移し、生を終えるまで仙台に住んだ。
はじめに住んだ仙台市土樋は、隣が新体詩人土井晩翠の住居で、漢詩人大須賀筠軒との交流は話題となった。明治三十四年八月の学期末まで満五年間、教壇に立った。最も安定した期間であった。
仙台に筠軒あり、漢詩人としての名声は、明治三十四年十一月仙台に来た明治天皇の午前揮毫、明治四十四年四月、当時皇太子、後に大正天皇の御前揮毫で、漢詩を披露したことでも知られる。
明治三十七年退職、翌年十一月、道場小路に居を移す。
大正元年八月二十八日、七十二歳の生涯を終えた。
磐城の人 広辞苑に収載の人
やつはしけんぎょう【八橋検校】近世筝曲の祖(1624〜1644)
ゆうてん【祐天】僧侶(1637〜1718)
あまだぐあん【天田愚庵】歌人(1854〜1904)
おおすがおつじ【大須賀乙字】俳人(1881〜1920)
くさのしんぺい【草野心平】詩人(1903〜1988)
2003年11月11日 記 桃太郎