Chap.4 珈琲

<1992.4.6 Springhop>

月明かりに照らされた浜辺の波打ち際を、舞由とモカは肩を並べて歩いた。
舞由は、少し踵の高い赤い靴を脱いだ。モカも真似をして、履き潰されたスニーカーを脱いだ。
足を洗う波はまだ冷たいが、舞由にはそれが気持ちよかった。
モカは、さっきから口笛をふいていた。しかし、それが何の曲なのかは分からなかった。舞由は、このまま優しいメロディーを聞きながら歩きたかった。だから、曲名を聞かなかった。
波の音が、静かなリズムでモカの口笛のバックバンドを演じている。
さっき泣いたことも、ずいぶん昔のことのように舞由は思えてきた。
潮風がとても気持ちいい。

舞由は歩きながらモカの横顔をそっと見た。
少し離れた優しそうな小さな目、長い髭、変わった形の鼻の穴。
鼻の穴? どうしてピクピク動いているの?
「口笛じゃなかったの!!」舞由が立ち止まって叫んだ。
「そうだよ。鼻笛さ。得意なんだ。」
「さっきから!?」
「そう。」
「じゃあ、私はあなたの鼻の鳴る音で。。。」
「あ、ここで海岸通りに戻ろう。例の喫茶店はもう少しだよ。」
モカは、しゃがみこんでスニーカーを不器用に履き始めた。
舞由は、しばらくモカの顔を険しい表情で見ていたが、ついにクスクスと笑い始めた。
「何がおかしいの?」
「ううん。なんでもない。」
舞由も靴を履いた。踵の高い靴を履いた足元がぎこちなく感じた。
この靴はもう履きたくないと舞由は思った。

その喫茶店は、海岸通から海に飛び出して建てられていた。
店の名前は、アネス。壁には白の、窓の縁にはペパーミントグリーンのペンキを何度も塗り直した、古く小さな店だった。
モカが店のドアを開けると、カウベルがカラリと鳴った。
その音に、マスターが珈琲の豆を挽く手を止め、顔を上げた。
「いらっしゃい。ちょうど、いい豆を挽いているところだ。」
「それにしようかな。」モカが言った。
舞由もうなずいた。
「特製モカブレンド2つだね。」マスターのぱぱんぃは、豆を挽き始めた。「おっと、3番目の椅子は壊れているからね。」
2匹は、その椅子を避けてカウンターに座わり、ぱぱんぃが珈琲を煎れる手つきを、黙って見つめていた。
煎れたての珈琲のいい香りが店内に広がった。

「珈琲には勇気が溶けている。」突然モカが言った。
舞由は吹き出した。「何それ?」
「山に行くだろ。冬山さ。吹雪で辺りの様子が分からないことがある。道も見えない。毛が凍り付き、目が開けられない。そこで、ボク達は雪洞を掘る。」
「セツドウ?」
「そう。雪にトンネルを掘って、そこに潜り込むんだ。そんなに広くは掘れない。パーティーのみんなが肩寄せ合うのがやっとの広ささ。みんなの顔がぼおっと見える。みんな不安を隠した顔をしている。」
ぱぱんぃが、珈琲カップを2匹に前に注意深く置いた。
「そんな時に、珈琲を煎れるんだ。」
モカは、珈琲を一口飲んで続けた。「この珈琲みたいな素晴らしい香りが雪洞に広がったとき、みんなの顔がほころんでいくんだ。1つのカップで回し飲みをしているうちに、笑い話が飛び出してくる。吹雪が気にならなくなる。」
「だから、勇気が溶けている。。。」舞由は珈琲を見た。

「モカ君は、」
「モカと呼んでよ。」
「じゃあ、モカ。。。何だか照れる。」
「照れるならモカチンでもいい。ハヒ坊はやだな。」
「ふふっ。モカはどうして山に登るの?」
「山のいたずらな天使と出会うため。」
「いたずらな天使?」
「オコジョって言うんだ。幻のイタチといわれてるけど、一度この目で見たいんだ。」モカは遠い目をして言った。「もしかしたら、言葉が通じて話ができるかもしれない。」
「素敵な夢ね。」
「そうでもないさ。舞由ちゃんの夢は何?」
「分からない。」舞由は、珈琲にミルクを入れると軽くかき混ぜた。「でも、みんなが幸せに暮らせたら、っていつも思うわ。」
「みんながそんな夢を持ってるといいね。」モカがニコリと笑った。
「ホントに。。。でも、私には何もできない。」

舞由は、珈琲を一口飲んだ。
突然、舞由は昨日会ったモッケーのチームのことを思い出した。
一週間後が試合だと言ってわ。あのチームの夢は、きっと試合に勝つことなんだわ。
ボールを追って走る、ムウ、涼太、ツムジ、源さん、まろんの姿を思い出した。
ミクの声が聞こえた。
「みんなが元気になれる最高の笑顔、ありがとう。」
舞由は時計を見た。9時だった。
「マスター」舞由は言った。
「はいよ。」
「珈琲をポットに入れてくれませんか?」
「え?」
「おいしい珈琲をたっぷり。」舞由はモカを顔をチラリと見て続けた。「勇気もたっぷり溶かしてね。」
モカは驚いたが、すぐに満面の笑顔を浮かべた。
「了解。」ぱぱんぃは、新しい豆を取り出すと、豆を挽き始めた。


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