Chap.1 5年前の春

<1992.4.5 Springhop>

L字型のテラスの下はパームツリーが並ぶ海岸通り。海が心地よいリズムで春の朝日に輝いている。
舞由は、目が覚めるとテラスへのドアを全開にして、潮風を部屋に招くのが日課だった。
今朝の舞由は、少し寝坊してしまった。舞由はアクビをしながらミネラルウォーターをグラスに注ぎ、昨夜遅くまで読んでいたモッケーのルールブックを片手にテラスの椅子に腰掛けた。

舞由は昔からスポーツのルールを覚えるのが苦手だった。舞由のハイスクール時代の彼はベースボールの選手だった。彼が9回裏に逆転ホームランを打ってチームが優勝したパーティで、「素晴らしい張り手だったわ。」と言ってみんなを引かせたこともあった。
舞由はその時のチームのみんなの表情を思い出してクスリと笑うと、モッケーのルールブックの最初のページを開き、昨夜の復習を始めた。

「モッケーは、ラグビーに似ていますが、ボールを自陣に運び込む点が大きく異なります。パスは自分より前の者にしかできない点もラグビーとは逆です。相手のボールを奪う場合は、タックルをすることになりますが、足にタックルした場合は5ヤード前進のペナルティが課せられます。噛みついた場合は、鼻ピンの罰則を受けます。」

舞由は、ルールブックから顔を上げると、海に目を向けた。
「モッケーか。。。」
舞由は昨日のキャンパスでの出来事を振り返った。

フーロアカデミーの入学式が終わったキャンパスは、新入部員獲得を狙ったサークルの勧誘の声で賑わっていた。
サークル活動に興味のない舞由は、ゴロンやタッチのデモンストレーションをしている新体操部からの勧誘をやっとの思いで断って、校舎の裏側を通り抜けた。
その舞由の目に、荒れたグラウンドで練習しているモッケー部の連中の姿が飛び込んできた。スポーツの苦手な舞由でも、彼らはヘタクソで、弱小チームであることはすぐに分かった。
しかし、舞由は立ち去ることができなかった。鼻についた土を払うこともなくボールを追う彼らの姿を、舞由は魅せられたように見つめてしまった。
「1週間後に、試合があるの。」
舞由は突然背後から声をかけられ、驚いて振り向いた。トレーニングウェア姿の小柄で細身の女が立っていた。
「その試合に負けるとね、廃部になっちゃうの。」女は舞由の横に並ぶと、グラウンドの方を見つめた。「だから、彼らは真剣。」
パスがうまく通った。舞由は、思わず「やったわ。」と声を漏らしていた。
女は舞由に顔を向け微笑んだ。「私はミク。モッケー部のマネージャーよ。あなたは?」
「あ、私は舞由です。新入生です。」
「よろしく。」
「はい。」
「さあ、行きましょう。」ミクは、舞由の肩を軽く叩くと、グラウンドに向かって歩き始めた。舞由は驚いたが、立ち去ることもできず、ミクの後に続いた。

「ちょっとぉ〜みんなぁ〜」ミクは、グラウンドのメンバーに声をかけた。みんながワラワラと集まってきた。
「なんだい? ミク。」鼻の土を袖口で拭いながらムウが言った。
「紹介するわ。舞由ちゃんよ。」ミクが言った。
近くで見るチームのメンバーは、ずっと体が大きくて傷だらけなのに舞由は気がついた。
「舞由ちゃん。彼がキャプテンのムウ。」ミクが紹介した。
「やあ。」ムウが笑った。
「あ、はい。あの、はじめまして。。。」
「それから、彼はまろん。ツムジよ。源さん。それに、涼太。」ミクが紹介した。
「あの、私。。。」
「新しいマネージャーなの?」ツムジがミクに言った。
「いえ、私はただ。。。」
「なんや、違うんかいな。」まろんが言った。
「あの。。。試合、頑張って下さい。」舞由が笑顔で言った。
「ありがとう。」涼太が白い歯を見せた。
「さぁ、練習を再開しよう。」ムウが言った。
みんなは、またグラウンドに散らばっていった。
「舞由ちゃん。」ポジションについたムウ達の姿を見守りながらミクが言った。「みんなが元気になれる最高の笑顔、ありがとう。」
その言葉に舞由は驚いてミクを見た。
「あの連中、とっても単純なの。舞由ちゃんみたいな女の子の笑顔、大好きなのよ。」ミクは笑った。「ほら、動きがイキイキしてる。」

舞由は、帰り道に本屋に寄って、モッケーのルールブックを買った。
舞由は、ミクの言葉が嬉しかった。自分は何の取り柄もない普通の女の子だと思っていた。悪い事もしなければ、目立つこともなく、ただ普通の女の子。それが自分だと舞由は思っていた。
ハイスクール時代の彼からさよならを言われたのも、自分がつまらない女だからと信じていた。
舞由は、ルールブックの入った紙袋を胸にぎゅっと抱きしめ、ショーウンドウに映る自分の姿を見た。
「みんなが元気になれる最高の笑顔。。。」
舞由はショーウンドウに向かって微笑んだ。

それが昨日の出来事。
舞由は、ミネラルウオーターのグラスをゆっくりと倒した。こぼれた水が、白いテーブルに小さなの水溜まりを作った。
眩しい光に変わった朝日が、こぼれた水と氷を宝石のように輝かせた。
舞由は思った。
「初日から遅刻ね。」


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