「☆天性人後・その1・2」

「☆天性人後・その8・千住小塚原(骨ヶ原)」

 1771年(明和8)前野良沢生涯のうちで最も長い一晩だったにちがいない。明日は千住小塚原で腑分けが行われる日である。腑分けされる主は、ある大罪をおかした50ばかりの京都生まれの老婦(?)でした。

 その時代、日本の解剖医学の現状はきわめてうすらさむい。中国から伝わる五臓六腑説があるだけだった。

 宮中のお抱え医師山脇東洋がそれに対して疑いを持ったのがほんの20年前のこと。彼は1754年(宝暦4)京都所司代の許可を得て京都六角にある刑場で同士らと腑分けの見学を行っている。東洋は必死でその内臓をスケッチした。5年後に「臓志」と名付けて刊行された。どうもそのスケッチもあやしいようだが、ともかく中国の五臓六腑説は必ずしも正しいとはいえないことだけはわかった。

 さて、前野良沢はなんとかオランダ語を読めるようになりたいのである。とにかく、良沢、玄白、中川淳庵(じゅんあん)その他朋友らと「たへるあなとみあ」の図が確かなのを確かめるために千住小塚原に向かったのである。結果、「たへるあなとみあ」のオランダ図は確かなものであることが証明された。

 そして、「たへるあなとみあ」を良沢、玄白、淳庵三人で翻訳することを決心するのです。それが生涯かかろうと、なまやさしいものではないことは百も承知でした。

 まず、「解体新書」の予告ともいえるべき人体図三枚解説付きのパンフレット型「解体約図」が刊行されたのが安永2年(1773)のことである。

 ちなみに、1772年(明和9)1月15日田沼意次が老中に昇進、政治の実権をにぎる。

 参考文献・みなもと太郎著「まんが、風雲児達」2009/11/8

       

「☆天性人後・その7」