安寿と厨子王
はじめに
福島県いわき市金山町朝日台に、安寿姫と厨子王の母子像≠ニいう碑が建立されて、いつのまに、中世以来の小説や演劇の題材にかかわりがあるとしての舞台にしてしまっている。
「山椒太夫」森鴎外著に、軽く組入れられているのには、少し抵抗がある。
最近、「金山」の周辺に、安寿と厨子王のゆかりの地≠ニかで、案内の標柱が立っているが、安寿と厨子王の史跡≠フ標柱は問題である。
地域の歴史のロマンをぶち壊したくはないが、住吉城の城主・平政道(奥州太守岩城判官政氏の子)と、当地と越後直江津にいたる経緯には共感できない。
偶然か、いわき市金山と越後直江津が、東西で緯度がほぼ同じではあるが、『ゆかり』はともかく、『史跡』とするには疑義がある。
【史跡】は、歴史上、重大な事件や、各種の施設の跡で、その保護保存を指定されたもの(1950年文化財保護法)であると学んでいる。
ゆかり【縁・所縁】、血のつながり、また何らかの続きあい・関係があること、という語義のため俗解として許容することにした。
山椒太夫の作者森鴎外は、意外な展開に驚いているだろう。
まほらばを検証する界で、石器の捏造問題があったとき、地域に住むものとして、信用性について少しの危機感がよぎった。
いわき市金山町に、初めて居住した時期には、まったく安寿と厨子王≠フ話など皆無であったからだ、無知といえばそれまでだが、信じられない。
この場に、安寿と厨子王のゆかりの地安寿と厨子王の史跡という標柱を建てる行為は、かってな想像と解釈のものである。
かってな想像と解釈≠ニ切り捨たわけは、一般に知られているものが、検証しないままに、手前味噌に歪めているのである。
由緒ただしき拠り所で、より上等な、とはいかないが、俯瞰するように、探求を試みるものである。
おためごかし【御為倒し】 表面は相手のためになるように見せかけて、実は、自分の利益をはかること。→おためずく【御為尽】「おためごがし」に同じ。
かどわかす【勾引】 子供や女などをむりやり、または、だまして他に連れ去る。誘拐する。→かどわかし【勾引】子供や女をかどわかすこと。誘拐。
らち【拉致】→らっち
らっち【拉致】むりにつれていくこと。らち →(かどわかし)
幼児本「安寿と厨子王ものがたり」の憶えも薄く、森鴎外の「山椒太夫」をちゃんと読んだというおもいがないが、おためごかし=Aかどわかし=Aらち≠ノ、括られた筋書きとおもう。
総べて、計画、実行、結果、拉致≠ナある。
「御為倒し物語」、「勾引物語」、「拉致物語」とはしなかった。
「人さらい」、「人買い物語」、「人売り物語」ともしなかった。
人身売買の話で、買い受けた「山椒太夫」を題名にしたのは、なんでだろう。
御為倒し、勾引、売り渡した「山岡太夫」、また、仲買の「宮崎の三郎」、「佐渡の二郎」を、物語の題名などにしなかったことを、かなわぬことだが、森林太郎(森鴎外、1862〜1922)に、聞いてみたいものだ。
森鴎外(作家、名は林太郎、島根県津和野生れ、東京大学医科出身、軍医、陸軍軍医総監、1862〜1922)が、「山椒太夫」(大正四年
:1915)で、明治政府側の立場か、医者として、古代ギリシャ、近代のアメリカでの奴隷というものとを対照し、日本古来の奴婢(ぬひ)≠、明治政府、貴族、平民に対して、警鐘をならしたものとおもいたい。
この物語では、「御為倒し(おためごかし)」、「勾引(かどわかし)」、「拉致(らっち)」で、罪と罰を訴えつつも、語り手の語りものの、安寿の拷問死、厨子王の仇討ち「非情に残酷な処刑」の場面を陰にして、出していない。
現今にいたっても、「気をつけろよ(油断大敵)」という言外の意味≠ェあるとおもう。
徳川幕府には用いられたが、維新後の明治政府には仕えず、民間で活動した、福沢諭吉(思想家・教育家、豊前藩の流れ、緒方洪庵に蘭学を学び、江戸に蘭学塾を開く、慶應四年
:1868に慶應義塾と命名、1834〜1901)は、「天は、人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず。」といい、独立自尊と実学を鼓吹し、一方で、「学問のすすめ」どころか、出稼ぎとは名ばかりの人身売買のからゆきさん≠黙認、外貨獲得をすすめたという。
森林太郎は、此れに対抗するように、「お上のやることは間違いない。」と官側の立脚で謂わんとしていたとおもう。
幼女拉致、小学生拉致、中学生拉致、高校生拉致が、防ぎようがなくて頻発、拉致犯は、罪であるとおもってなく、遊戯感覚であるならば、怖い世になった。
営利誘拐は、重大犯罪ということで刑が重いのだが、昨今の勾引+拉致を、誘拐という意識がなく、罪の認識が薄いのでないかとおもってしまう。
北朝鮮拉致問題を略奪被害国立場で有耶無耶としているのも困ったものだ。
拉致された恐怖と拘束された状態の心的障害の償いに対して罰が軽すぎる。
古くから、語り手の「語りもの」では、表面は相手のためになるように見せかけて(御為倒し)、子供や女などを、だまして(勾引)、または、むりやり(拉致)他に連れ去り、売買されて、奴婢(ぬひ)≠ノされ、過酷な強制労働、拷問、仕置きを受けた苦痛、悲哀と復讐に満ちた筋書きであろう。
筑紫(九州の古称)に流された、父岩城判官正氏(いわきはんがんまさうじ)に会うため、磐城国(いわきのくに)から異郷の地、直井の浦(新潟県直江津)に辿り着いた厨子王一家が人売りの名人、山岡太夫に御為倒し、勾引、拉致、山椒太夫に買われ、奴婢(ぬひ)≠フ扱い、逃亡、救助、幸運、成功。
後に、厨子王が高官に任ぜられ、拉致で、奴婢(ぬひ)≠フように扱われた怨念を晴らすために、山椒太夫を非情な方法で「処刑」をしたという。
「山椒太夫」が、最古の與七郎正本=i寛永十六年 :
1639年、刊)、佐渡七太夫正本=i明暦二年
: 1656年、刊)で、文字として認められる以前の、口頭で語られたものとの隔たりがある。
「山椒太夫」森鴎外著(大正四年 :1915)が、中世の終わりから近世にかけて流行した、「説教節」と呼ばれる語りものの一つ、「さんせい太夫」を踏まえた内容で表現をしたのである。
越後の春日(現在の新潟県上越市春日)を経て今津へ出る道を、・・・・・
母三十歳、二人の子供、姉は十四歳、弟は十二歳、それに四十歳の女中姥竹の旅人四人の道中・・・・・
父の陸奥椽平正氏(むつのじょうたいらのまさうじ)が、永保の初めに筑紫に左遷された・・・・・ (永保の初め、1081〜1083)
ご存知、森鴎外著「山椒太夫」の物語だが、その内容からは、
安寿の誕生 (承暦四年か永保元年
: 1080か、1081)と推定。
厨子王の誕生 (永保二年か永保三年:
1082か、1083)と推定。
安寿と厨子王の父、陸奥椽平正氏(むつのじょうたいらのまさうじ)が、永保の初め(永保元年〜永保三年 :1081〜1083、白河上皇時代)
、筑紫に左遷。・・・・・《安寿三歳、厨子王が一歳》
安寿三歳、厨子王が一歳、岩代の信夫郡に住む。
安寿十四歳、厨子王十二歳、越後、直井の浦 で拉致。(嘉保元年 :
1094)
安寿十四歳、厨子王十二歳、丹後の石浦(現在の京都府宮津市由良)に売られる。(嘉保元年
: 1094)
安寿十五歳、丹後の石浦(現在の京都府宮津市由良)、沼で入水(嘉保二年
: 1095)
厨子王十三歳、中山(現在の京都府舞鶴市中山)の国分寺に逃げ込む
(嘉保二年 : 1095)
厨子王十三歳、東山の清水寺で、関白師実に出会う、「身の上をあかして・・・」と聞かれて、「父は十二年前に筑紫の安楽寺へ・・・」と答える。
関白師実(藤原師実 :
1042〜1101、忠実の祖父:1078〜1162)
師実が元服親になり、厨子王、元服、正道と名告る。 (嘉保二年 :
1095)
正道(厨子王)
の秋、丹後の国守に任官。 (嘉保二年 :
1095)
岩代信夫郡(現在の福島県信夫郡)、
越後の春日(現在の新潟県上越市春日)
今津(現在の新潟県上越市)
直井の浦(現在の新潟県直江津)
時代年号と場所が整理される。
それなのに突如として、「住吉城の城主・平政道が小山田の桜狩りの帰りに、義理の兄の重臣・村岡重頼に殺害されてしまうのです。邪悪な追っ手から逃れるため、そして父の冤罪をはらすため、岩城〜三春信夫〜越後へと旅を続ける。(長和六年 : 1017)・・・・・」という物語が出現した。
そして、いわき金山版の安寿姫と厨子王の母子像≠ナある。
いわき市文化財調査委員の故・岡田実氏が著した、創作の安寿姫と厨子王物語≠ノ振り回されたのか、荒唐無稽を楽しんだあとの記念像である。
その像の台座の正面には、福島県知事をしていた、木村守江氏の「愛」と一文字の揮毫が、櫻御影石に彫られている。
後に、木村守江知事は、汚職で逮捕され、失職し、櫻御影石に彫られていた、その一文字は、セメントモルタルで埋められていたが、人の噂も七十五日と、セメントモルタルを穿り、再び「愛」という一文字が戻った。
安寿姫と厨子王物語♂ェ田実著の本は、発刊当初に、「金山のかすや」で和菓子とともに販売していた。
かすや≠ニいうのは菓子屋≠ェ訛って言っていたとおもったら、店主の姓が「糟谷」であった。
安寿姫と厨子王物語≠ノ因んで、「銘菓厨子王」を製造した。
いわき市金山町朝日台の和菓子製造販売店「朝日屋」(通称を『かすや』、店主、先代の菓子職人糟谷名人)は、「銘菓いわき七不思議」を製造と販売をしていたが、「銘菓厨子王」も加えたようだった。
かすや≠フお菓子の味は、良かった。
先代の菓子職人糟谷氏は、名人といわれていた。
和菓子は勿論だが、「水晶玉の飴」というのは、逸品であった。
現在でも、朝日屋≠、金山の先住民は「かすや」と言っているとおもう。
朝日屋≠ニいう名は、「勿来市植田小浜町中の作」から「いわき市金山町朝日台」と町名変更になった際に、店名も変更したような気がしてならない。
安寿姫と厨子王物語=A岡田実著、その本は、和文タイプライタで打ったレトロ雰囲気の自主出版本と記憶している。
読んだときの印象がまだ忘れない、えっ、まさか≠ニ、驚きがあった。
我が家(現在、兄の家)の井戸が、当時、平政道を小山田の桜狩りの帰りに、逆臣・村岡重頼が殺害した後に、咽喉の渇きを潤した「水飲み場」となって、父方本家所有の水田に使う灌漑用水地を「首洗いの池」、そこからの下流で、旧六号国道(現在の県道いわき上三坂小野町線)を横断した所の溝の流れには、「太刀洗川」と名付けて、地図まで書いてある。
笑止千万、かっかっかっかである。
「水飲み場」といわれた所は、清水がこんこんと湧いていたし、この水は、確かに美味い、いまでは、花壇の水遣り用である。
父方本家叔父(苗字帯刀郷士、唐船見番所の末裔)が、ここを宅地にした際、「井戸につかえ」ということで設備した。
また、灌漑用水地の脇にある稲杭小屋へ、連れられて行ったことがあるが、
「首洗いの池」、叔父からは、そんな話は、一度も聞いたことがない。
現在、「安寿と厨子王のゆかりの史跡 太刀洗川」の標柱を建てているが、名称のある一般河川、渚川の源流のようである。
その位置は、分水嶺(嶺とはいえない、標高約70メートルの丘の頂部)までの距離は近い。
まして、その上流は、近世に開いた棚状の水田である。
その水田の引き水は、涌き水を貯めた、人造の灌漑用水地からである。
現況では、その貯め水と水田があるので、流量があるようにおもわれるが、約九百九十年前に、安寿姫と厨子王物語≠ナ、岡田実氏が著したようには、首を切り落とした際の太刀の血を洗えるほどの水の流れとはおもえない。
叔父が子供の甥に、「首洗いの池」、「首を切った太刀の洗った川」などと、あまりに不気味なので教えなかったものか、叔父が無知であったかの以外には、由緒のある所ならば、勿体をつけても、教えてくれたのではないかと覚える。
講談師の神田香織版の安寿姫と厨子王物語≠フ登場人物と年代を説明のパンフレットのようなものがある。
その解説には、安寿姫と厨子王物語≠、寛永十六年(1639年)刊行の「五説教」を原点としていると記載されていた。
平将門の子孫、平政氏(岩城判官)の子供二人のうち、姉が家臣の村岡重頼の妻となり、弟、平政道が後を継ぎ、住吉城の城主となる。
安寿、厨子王、岩代国信夫庄 を出発(長和六年 :
1017)し、二十日後に、越後に着く。
寛仁四年(1020)
、安寿は、厨子王を山椒太夫の屋敷を脱出させ、自らは入水自殺を遂げるとある。
森鴎外「山椒太夫」では、安寿十四歳、厨子王十二歳、越後、直井の浦に、着いた。(嘉保元年 :
1094)
安寿十五歳、厨子王十三歳、越後、直井の浦、山椒太夫の土地から逃げる。(嘉保二年 :
1095)
同じ拠り所であるはずが、年号、場所、人物を比較すると異なっている。
そこで、関心、疑問、探求。
まずは、比較のはじめに、新潟県直江津の場面。
神田香織版(岡田実著と同じ内容?)の安寿姫と厨子王物語≠ナは、安寿と厨子王が岩代国信夫庄を出発し、二十日後に、越後に着く(長和六年 :
1017)としている。(長和六年は、四月二十二日まで、四月二十三日からは、寛仁元年
: 1017となる。)
森鴎外著「山椒太夫」では、越後、直井の浦にいるのは、嘉保元年(1094)となっている。
ただし、嘉保元年 (1094)は、森鴎外著「山椒太夫」で、安寿と厨子王の父、陸奥椽平正氏が、永保の初め(永保元年
: 1081〜永保三年 :
1083)
、筑紫に左遷という年号と安寿と厨子王の年齢から推定である。
長和六年 (1017)と嘉保元年(1094)だから、七十七年の隔たりがある。
山椒太夫の奴婢≠ゥらの脱走場面。
神田香織版「安寿姫と厨子王物語」では、寛仁四年(1020)、安寿は、厨子王を山椒太夫の屋敷から脱出させて、自らは入水自殺を遂げるとある。
森鴎外著「山椒太夫」で、山椒太夫の土地から逃げる。安寿は、入水自殺。(嘉保二年 :
1095)
寛仁四年(1020)と嘉保二年(1095)で、75年の隔たりがある。
そして、奴婢≠フ期間が、
3年間と1年間のといういう隔たりがある。
神田香織版「安寿姫と厨子王物語」では、厨子王は、閑院右大臣藤原公季に救われ、治安三年(1023)に、平政隆と命名される。
森鴎外著「山椒太夫」で、厨子王十三歳、東山の清水寺で、関白師実に出会う、「身の上をあかして・・・」と聞かれて、「父は十二年前に筑紫の安楽寺へ・・・」と答える場面がある。《嘉保二年(1095)と推定。》
師実が元服親になり、厨子王、元服、正道と名告る。 (嘉保二年 :
1095)
正道(厨子王)
の秋、丹後の国守に任官。 (嘉保二年 :
1095)
治安三年(1023)と嘉保二年(1095)では、72年の隔たりがある。
関白師実(藤原師実 :
1042〜1101、忠実の祖父:1078〜1162)
神田香織版の安寿姫と厨子王物語≠ナは、安寿と厨子王が岩代国信夫庄を出発し、
20日後に、越後に着く(長和六年 :
1017)とあるが、藤原師実が生また時よりも、25年も前であり、登場人物としてはありえなくなる。
講談師神田香織版の安寿姫と厨子王物語≠ヘ、磐越自動車道開通記念版初披露で講談を直接に聞いた。
いい声と滅り張りの効いた話に、女性講談師に、ついうっとりと聞きほれる。
「磐城国、住吉城の城主・平政道が小山田の桜狩りの帰り、義理の兄の重臣・村岡重頼に殺害されてしまうのです。邪悪な追っ手から逃れるため、そして、父の冤罪をはらすため、岩城〜三春信夫〜越後へと旅を続ける。(長和六年 :
1017)・・・・・」
ここでは、「住吉城の城主・平政道」の件は、平将門の子孫、平政氏(岩城判官)の子供二人のうち、姉が家臣の村岡重頼の妻となり、弟、平政道が後を継ぎ、住吉城の城主という説明だ。
森鴎外著「山椒太夫」では、安寿と厨子王の父、陸奥椽平正氏(むつのじょうたいらのまさうじ)が、永保の初めに筑紫に左遷された・・・・・・・・・・。の内容を比較してみる。
安寿と厨子王の父は、岡田実著いわき金山説では、逆臣の村岡重頼に、殺害される「平政道」となっていて、安寿と厨子王と母が冤罪をはらすために旅に出るとなっている。
「平政道」は、平将門の子孫、平政氏(岩城判官)の子となっている。
平将門(〜940)は、平貞盛・藤原秀郷に討たれる(天慶三年
: 940)。
その子には、平良門とされているが、平政氏が、岩城判官になった経緯がよく分からない。
森鴎外著「山椒太夫」では、筑紫に左遷され、筑紫で亡くなったという父が、「平正氏」となっている。《どちらも広辞苑には収載されていない》
厨子王が元服してからの名前、神田香織版の「安寿姫と厨子王物語」では、「平政隆」、森鴎外著「山椒太夫」では、「正道」である。
親の名を子が継ぐ風習は、近世までつづいているが、どうであろう。
いずれも、丹後の国守に任官し、仇討ちになっているのは共通している。
ここに、明治時代の大衆よ、くやしかったら、偉くなって、官になって、見返してやれ、そうすれば、自分も、家族も、身内も、隣人もよくなる。≠ニ立身出世のすすめをいっているような気がしてならない。
東大イコール官僚の基盤なのかも知れない。(慶大と東大の対立の構図か)
森鴎外著「山椒太夫」で、父の陸奥椽平正氏(むつのじょうたいらのまさうじ)が、永保の初めに筑紫に左遷された・(永保の初め、1081一〜1083)
八幡太郎義家が、前九年の役、陸奥の安倍定任を討ち、陸奥兼鎮守府将軍に (康平五年 :
1062)、そして、後三年の役を平定、東国に源氏勢力の根拠とした。
(寛治元年 : 1087)
※勿来の関で歌を読む(平定に向かう説と帰りの説が有)
この平安時代中期永保の初め≠ノ、八幡太郎義家(源義家)が、勿来の関で、吹く風を勿来の関と思へども道もせに散る山櫻かな=@と詠んで、この地を往復しているのが同時代なので、森鴎外著の信憑性、分からなくなってきた。
探求で疑問になってしまった。
與七郎正本=i寛永十六年 :
1639年、刊)、佐渡七太夫正本=i明暦二年
: 1656年、刊)は、勿論、見たことも読んだこともない(読めない)。「山椒太夫」(大正四年
: 1915)の児童版は手元にあって確かめられるが、「安寿姫と厨子王物語」岡田実著は、所有しているが、手元に見つからずに、再読して分からないところの確認をしてみたい。
講談師の神田香織版の安寿姫と厨子王物語≠フ登場する「平政道が小山田の桜狩りの帰りに、・・」の「小山田」とあるが、明治以来の小山田村を指しているとおもうが、付近には、上山田村、下山田村、井上村があった。
江戸時代の区画に、菊多郡小山田村というように、字限図(あざぎりず)的な名称(租税のため)である。
小山田村は、石城郡山田村、いわき市山田町の法田(はった)と井上と名称が変更になって、現在では「小山田」という地名は地図にはなくなっている。
なぜ「山田≠フ桜狩りで・・」ないのだろう。
山田には、楞巖寺(りょうごんじ)のしだれ櫻は、古木と大木と数と美しさ、安養寺のしだれ櫻の美しさ、たしかに、櫻では有名ではあるが、九百九十年前の老樹ではない。
「小山田」という場所に桜狩りをしたというゆかりを検証したのか、または、どれかの文献に「小山田」という地名を当てはめたのだろうか。
「小山田」といえば、いわき市の誕生した際に、双葉郡大久村小山田から編入のいわき市大久町小山田村もある。
「塩谷城(いわき市東田町)・・・・・」というところがあるが、東田町は、東坂村と塩田村の両方の一文字を使った合併の名称で、明治二十二年(1893)の町村制実施の際に、合併前の村の名称からの文字を使って、併合の名称にした履歴のものである。
平安時代中期に、うばが丘としている地には、安寿姫と厨子王の母子像(いわき金山版)が建っているが、その場所(標高80.1メートル)は、かつて営林署の苗畑であった。(直江津の居多浜に姥獄明神があるそうだ。)
住吉城が現在の小名浜住吉ならば金山との位置関係は、どうだったのだろう。
住吉と小山田間は、直線で、約13キロメートル、道程で、五里はあった。
八幡太郎が五里八幡というくらいだから、昔は、一日の歩く距離と想像する。
住吉と小山田の低地の道を使う最短の中間は、添野の大沢、金山も中間地点、休憩の時間、逆臣が襲撃するには、まことに都合がいいことは分かる。
平安時代中期に、住吉と小山田を結ぶ道筋なら、地形的に、藤原川を越えて、本谷、玉露(玉露村と甘露寺村が合併)、泉、添野、江畑、高倉、山田という、比較的低地で山岸にある道を使うであろう。
または、添野から植田を通り、月山下、仁井田、そして山田は考えられる。
住吉から本谷、下川、そして、金山、東田、植田、月山下、仁井田、山田の道程は、住吉、泉、添野、山田の道程に比較して、距離もあり、急峻である。
黒須野の低地から、1.5キロメートルで、標高が約80メートルに登る、平安時代中期に、急坂を道にするはずがない。
旧六号国道で、東京から岩沼間で、最も急坂となった個所である。
現在のドライブ感覚のルート選定は有り得ないとおもう。
知っているところを検証してみれば、こういう結果に至るのであるので、故岡田実氏の著書安寿と厨子王物語≠ナの記載の内容には、信憑性には、やや問題があり疑いの目を持つ≠ニいうことにならざるをえないのである。
疑いの目を持つ≠ニいうことは、俗に言う『猜疑心』ではなく、正しいものを手に入れるためである。
安寿と厨子王の母子像
ここにあることにいぎはない。 安寿の行方について
ついでだが、いわき市金山町の道端を飾っている
花壇に、「はないちもんめ」という看板がある。
花一匁≠ェ、人身売買の風俗歌というのを知っていての活動であるのか、ということである。
「ふるさと はなれて はないちもんめ かあってうれしい はないちもんめ・・・」。
なんと悲しい唱えではないか。
「はな」(女、子供)が一匁で買われて行く場面をふしをつけて唱えている。まさか文部省唱歌とか、童謡、「わらべうた」とかに分類されているとおもいたくはない。
広辞苑には、「はないちもんめ【花一匁】子供の遊び。二組にわかれ、ふしをつけた唱えごとをしながら、じゃんけんで勝ったほうが相手方の子を取る。」と採録されている。
森鴎外「山椒太夫」では、船乗り山岡太夫が、船頭の宮崎の三郎に「左手の拳を開いて見せた。右手が貨(しろもの)の相図になるように、左手は銭の相図になる。五貫文に附けたのである。・・・・・」これが人身売買の取引光景である。(右手は、まるで、「じゃんけんぽん」)
時代背景で、相場こそ差があるが、「はないちもんめ」の筋書き同様である。
昭和、それも太平洋戦争後の約
五十年前までは、福島県石城郡勿来町では、まだ、人身売買事件があったのである。
「安寿と厨子王のゆかりの史跡」という標柱、「はないちもんめ」の看板を複合すると、ふるさと金山≠ェ、人身売買のゆかりのある地と発祥のように表示していると笑われても仕方ないのである。
金≠ェからんでいる地名がゆえに注意を払うべきである。
ゆかり≠ニ「しせき」の違い、「はないちもんめ」とはないちめん≠ニどうやら勘違いをしている様子。
しせき(歯石)≠ヘ、歯科医に除いてもらい、「花一匁」は、「花一面」とし、司会に、訂正してもらえるだろうか、はなから分かっていない=B
真面目なほど滑稽であると覚える。
いわき市について
昭和四十一年十月一日(1966年)、平市、内郷市、常磐市、磐城市、勿来市の五市と、双葉郡久ノ浜町、双葉郡大久村、石城郡四倉町、石城郡小川町、石城郡遠野町、石城郡川前村、石城郡三和村、石城郡好間村、石城郡田人村の九町村、計十四の地方行政区が合併し市制施行した。
この地域を「磐城」と呼称しているのは、往古の奥州磐城の国、磐州、磐城平藩等があったので、市制施行で誕生の際に、【いわき市】と命名、聖徳太子が制定した憲法十七条の一条文にある以和貴≠ノ対照している。
いわき市の発足までの変遷、命名の裏面
往古の奥州磐城の国、磐州、磐城平藩、一般的に「磐城地域」と称しているから【いわき市】の誕生に際して、それから命名したと多くの市民は思っているだろう。
昭和四十一年に石城郡九町村と五市が合併し、いわき市という平仮名の称に決まったが、その際に、各市町村の思惑があって、おだやかならぬ事情があったという。
「和を以って貴しとなす(以和貴)」の精神などということを、いわざるをえなかったのである。
いわき市の中心となった、平市の地名、平≠ヘ、平泉の説、平氏の説、飯野平の説があるが定かでない。
いわき市内の地名(郡・町・村・大字・字・小字)の存在、命名の由来について確認することは困難である。
地名(字名)の由緒ただしき拠り所≠フを知りたいものだ。
いわき市の地名(字名)の再検証
歴史的名称は、土地の形状、形質および天侯、ならびに土地使用の目的、状態、権利など、または、ある位置からの関係で命名されたと推定される。
明治二十二年(1893)の町村制実施の際に、合併によって名称が変更になり、命名の当初からの意義、そして由来のあったものが変遷したために、今現在の地名表記からは、何で≠知ることが難しい。
いわき市東田町は、東坂村と塩田村の両方の一文字を使い、合併の名称。
明治二十二年(1893)の町村制実施の際に、合併前の村の名称からの文字を使って、併合の名称にした履歴のものである。
朝日台
「ふるさといわき抄」高木稲水著(昭和五十三年五月発行)のいわき市地名考≠フ稿に、「朝日台(勿来金山)などと、台のついた地名は、物をのせる台のようになっておる。」と『土地の形態による地名』《谷と沢と作》に分類して、まことしやかに解説しているが、怪説である。
【朝日台】は、かつて、勿来市植田小浜町中ノ作という地名で、まばらに住宅が点在していた所だったが、比較的に後住民として当地に住居を構えた、金作氏(後に区長になった)が、「家から毎日朝日が見えるから」と自宅の住所を新聞の名前ごときに「朝日台」と称していた。
それを、昭和四十一年に石城郡九町村と五市が合併し、いわき市となり、発足後のどさくさに町名変更したものである。
これが由緒ただしき拠り所≠ナある。
より知っているところを重ねて検証してみれば、またまた、こういう結果に至ることからも、記載の内容は、信憑性にはやはり問題があって疑いの目を持つ≠ニいうことにならざるをえないのである。
台のついた地名は、物をのせる台のようになっておる。≠ネどとの解説にあっては、浅はかであり、こちら側ならば、台≠ゥらの連想は、仏の台(うてな)で蓮の花なので地名にはあてなかったろう。
東・西・南・北の方角で、何処を基準座標として、踏在何歩区するというのが、地球な発想での分類と命名である。
「朝日台」は、東田町金子平団地のように、岡を削って谷を埋めての整地造成で住宅地とした部分が少なく、自然の形質形状が変更の小さい住宅地である。
町名の「金山町」も理由なしで、山とか岡が台状だから台地≠ネのであって、地形から命名するなら「金山」というよりも「金丘」、「金岡」、「金台」である。
古代からの地名を捨て、近代でわけもわからずに付与するのはいかがとおもう。知らないのに知ったかぶりが気になるところである。
この気なんの気ふしぎな気。
金山町
そもそも、いわき市金山町の「金山」(かねやま)なんて、これこそ出処不明の地名である。
通称「金山」は、いわき市石塚町、いわき市東田町、いわき市岩間町、いわき市小浜町の地名が混在している地区で、石塚町との接壌地には、現在でも、いわき市石塚町国分(くにわけ)と名が残っている地である。
いわき市石塚町、東田町、岩間町および小浜町の人々が、公有地の民間山林所有とし、開墾し、耕作地として、「かねやま」と呼んでいた丘のようである。
いわき市の市制以前は、勿来市でもあり、それ以前は、石城郡植田町大字石塚、石城郡植田町大字東田、石城郡植田町大字岩間、石城郡植田町大字小浜である。
いわき市市制施行後の町名変更に際し、「金山町」への改称にあたって、地主から抵抗が大きく、石塚、東田、岩間の大字では、改称を拒んだと推測される。
「金山町」と改称できたのは、いわき市小浜町中ノ作の区域が多かったという背景には、小浜町の地主が、親族関係者に耕地を宅地として、既に譲渡していた。
また、知人を通じた譲渡等が多く、住宅地化しており、残った耕地については、小浜町の地主が、好意をもって地番変更の同意をした結果であって、市制施行で、石城郡植田町大字小浜字中ノ作から、勿来市植田小浜町中ノ作、そして、いわき市金山町朝日台となったのが地名の来歴である。
字名(あざめい)となっている、朝日台、汐見台、月見台、東台、南台などは、台≠ニいう文字を付ければよい風に付与したようだ。
現代において、晴れた朝に、自分が住む家の縁台で、日が昇るのを見て、地球上で最も朝日が美しいと確信し、付与した縁のゆかりもない地名である。
通称「金山」を、終の棲家の地と選んだ故金作翁が、地名変更する機会に命名の草案として、いわき市植田小浜町中ノ作から、いわき市金山町朝日台への変更にあたり、自身の名に含まれている、作≠ゥら金≠ヨ成ることへのこだわりだったかも知れない。
いわき市内の地名(字名)に「金山」の存在は、いわき市沼部町金山(かねやま)であるが、命名の由来は不明である。
ほかに、「いわき市常磐西郷町金山」(じょうばん にしごうまち かなやま)という地名(字名)は由緒ただしき拠り所≠フ地名とおもっている。
当地には「金山神社」(かなやまじんじゃ《読み方不明》)というのがあるので古代から認知された地名とおもう。
また、福島県大沼郡金山町(地方自治体)といわき市金山町(自治会)とが肩を並べて「友好町」などと言いよって交流をはかる図々しい方々にはあきれている。
歩録
いわき市金山町の「金山」(かねやま)、出処不明の地名に関心、疑問、探求である。
「金山」は、いわき市石塚町、いわき市東田町、いわき市岩間町およびいわき市小浜町の地区で、石塚町の東南の接壌地には、現在でも、いわき市石塚町国分(くにわけ)と地名が残っている。
阿武隈丘陵地の東南端にある、湯の岳の南方約7qに位置し、標高81.1mの岡で関東ローム層の最北端ともいわれる。
「金山」は、いわき市岩間町、小浜町および開拓の農家が耕作し、「かねやま」とか「かなやま」と通称していた地である。
うさぎ追いし、かのやま・・・、まさにこの情景の地である。
金山(岩間町上山)には、当時の国道六号線(現在の県道いわき上三坂小野線)が通っていた。
旧道といっていた、岩間町上山の丘状背部にあって、幅3mほどの山道であった。
その道は、丘の上から海がよく見え、下りにさしかかると切り通しの道となり、両側の山には樅の大木がおおっていて、暗く、一人で歩くには、恐ろしい感があった。
ジャングルに入ったようである。切り通しの崖に、蔓がぶら下がり、木の根が露出していた。
岩、石、土、水、草木、野鳥、小獣類に次から次への初見に感動、自分だけの秘境という感じだった。
その畑の端には、土器のかけらを見かけて拾った記憶がある。
思い起こせば、縄文土器でもないし、弥生土器ないので、天日干しで作った土器(そんなものが歴史にあったか確認をしていないが)だったのかなともおもった。
時代と磐城
古墳時代( 〜593年)
大和政権により、勿来関を創設。
飛鳥時代(和銅 : 593年〜710年)
推古天皇〜元明天皇。
聖徳太子(517〜622)
憲法十七条(?)
奈良時代(710年〜794年)
律令政治が行われ、磐城郡。(郡役所跡地発掘中)
律令政治が行われ、鮫川流域に菊田郡が置かれる。
多賀城(宮城県多賀城市市川)に、蝦夷に備えて城柵を築く。(神亀元年
: 724年)
平安時代(794年〜1185年)
大伴弟磨呂が征夷大将軍で、蝦夷征討に派遣。(延暦一三年 :
794)
坂上田村磨呂(758〜811)が征夷大将軍となり、蝦夷征討に大成功があった。(延暦一三年 :
794 以降)
常陸平氏の流れの岩城氏が土着、好嶋庄の地頭の役割になる。
岩城氏が、岩城郡の地頭になる。 延喜式神名帳(延長五年
:
927)資料。
八幡太郎義家が、陸奥の安倍定任を討ち、陸奥兼鎮守府将軍。 (康平五年 :
1062)
安寿の誕生 (永保元年 :
1081)
厨子王の誕生 (永保三年 :
1083)
安寿と厨子王の父、陸奥椽平正氏(むつのじょうたいらのまさうじ)が、永保の初め
(永保元年〜永保三年 :1081〜1083、白河上皇の時代)、
筑紫に左遷。
八幡太郎義家が、後三年の役を平定、東国に源氏勢力の根拠とした。 (寛治元年 :
1087)
※勿来の関で歌を読む(平定に向かう説と帰りの説が有)
岩城道則の後室、徳尼御前が白水阿弥陀堂を建立。(永歴元年三月 :
1160)
源平合戦、公家から武家時代へ《郎等=下級武士の組織》
源頼朝が平氏追討の兵をあげる。(治承四年 :
1180)
屋島の戦、頼朝・義経、平氏打倒。(元暦元年 :
1184)
壇ノ浦の戦、源義経が平氏滅亡。(元暦二年 : 1185)
鎌倉時代(1185〜1333) 《古代から中世へ》
奥州合戦(文治五年:1189 源義経歿、平泉高館山)により、東北地方の中世の幕が開き、
合戦で功績のあった、関東の武士、源頼朝に味方した在地の武士たちに、恩賞として所領を与える。
岩城氏が、岩城郡および好嶋荘の地頭になった。
常陸守護佐竹氏の流れ、小川義綱氏が、西小川中柴に館を建てる。(元応二年 :
1320)
小川氏が下小川の長福寺を開山。(元亨二年 :
1322)
岩城氏の勢力拡大で小川氏が岩城氏の家臣団に組み入れられる。
菊田庄、下野国の守護小山氏、上遠野郷に本拠。
小山氏の一族、藤井氏は、足利方の有力な一員、後に上遠野氏を称する。
陸奥国、岩崎郡金成村地頭の金成又三郎が、東国人鎌倉番人に所領を譲り状。(嘉歴四年 :
1329)
奥州東海道岩崎郡長谷村地頭に岩崎氏。(嘉歴四年 : 1329)
南北時代(1333年〜1392年)
北畠顕家、焼失の飯野八幡宮の造営。(建武元年 :
1334)
室町時代(1392年〜1573年)《足利時代》
岩城隆忠、薬王寺を再建。(文安四年 :
1334)
国人領主、白川氏(結城氏)、石川氏との争い、岩城氏が惣領主の地位を確立。( 1442〜1466)
調停役の白川氏が長井村を所有。(1451)
戦国時代(1477年〜1573年)
領国拡大に死闘を繰り返す。
国人領主、岩城氏が飯野平(大館)城を築き居城、本拠とした。(文明十五年 :
1484)
岩城氏が相馬氏と国境の木戸、金剛川(楢葉)で合戦。(天文三年
: 1534)
上遠野氏が岩城氏の支配下(家臣団)になる。
安土桃山時代(1573年〜1600年)
岩城領検地。(文禄4年 :
1595)
三阪氏、三倉城を統治。
平山氏、中寺館を統治。
江戸時代(1600年〜1867年)
関ヶ原の戦い。(慶文 : 1600)
岩城領一二万石没収。(慶長七年 :
1602)
徳川家康は、磐城領一〇万石を鳥居忠政に与え、磐城平藩主の鳥居氏が入領。(慶長七年 :
1602)
その後に幕府直轄地に細分割される。
磐城平藩主鳥居氏の女婿・土方氏により窪田藩成立。(元和八年 :
1622)
上遠野は、棚倉藩に組み入れられる。(元和八年 :
1622)
磐城平藩主七万石で上総国から内藤忠興が入領。(1634〜 )
泉藩成立、磐城平藩主内藤忠興が弟政晴に2万石を分ける。(寛永十一年 :
1634)
磐城平藩主七万石で内藤忠興が5万石。(寛永十一年 :
1634)
與七郎正本=@刊行(寛永十六年 :
1639年)
佐渡七太夫正本=@刊行(明暦二年 :
1656年)
窪田藩は、三代62年で、除封廃藩となって、幕府領になり、窪田代官所の支配になる。
(貞享元年 :
1684)
窪田藩は、棚倉藩領になる。(享保十三年 :
1727)
大野、大浦は、笠間藩牧野氏が所領。(寛延二年 :
1749)
遠山政亮により湯長谷藩一万石で成立。(寛文十年 :
1670)
湯長谷藩一万五千石に。(貞亨四年 :
1687)
泉藩主、板倉氏。
泉藩、二万石から一万五千石に減石。(元禄十五年 :
1702)
幕府代官所五千石、合戸村、渡戸村、三坂村、市ヶ谷村(市萱)、中寺村が直轄支配。(元禄十五年 :
1702)
下野国鬼怒川の渡瀬川の修治を命じられる。(享保十年十月 :
1725)
日光廟の修繕を命じられる。(享保十六年四月 :
1731)
百姓一揆(元文三年九月 :
1738)
鎌田川原で百姓一揆煽動の罪で処刑。(元文四年八月二十三月 :
1739)
磐城平藩内藤氏、日向国延岡へ転封。(延亨四年 :
1747)
磐城平藩から幕府直轄地、小名浜代官所。(延亨四年 :
1747)
幕領小名浜で、川前、下桶売、上桶売、小白井支配。(延亨四年 :
1747)
磐城平藩主五万石で井上氏が入領、十年間統治。(延亨四,年 :1747)
幕府領、中神谷代官所。(寛延元年 :
1748)
常陸笠間藩の領地、渡戸村、中寺村、下市萱村、上市萱村、上三坂村、中三坂村、下三坂村、差塩村が
小名浜代官所の支配。(寛延二年 :
1749)
磐城平藩主五万石で安藤氏が入領、統治。(宝暦七年 :
1757)
安藤氏、幕府の要職として老中職。
棚倉藩主小笠原長尭、平潟同門を穿つ。(安永八年 :
1779)
上桶売村は、新発田藩の分領になる。(寛政二年 :
1790)
棚倉藩主松平氏の時代。(1836〜1866)
川前、下桶売、上桶売、小白井が棚倉藩になる。(天保七年 :
1836)
泉藩、本多氏。(天保七年 :
1836)
泉藩主の本多忠徳が、藩校「汲深館」を設立。(嘉永五年 :1852)
湯長谷藩より石炭採掘許可、磐前郡太平左平太。(安政六年 : 1859)
森林太郎が生まれる。1862年
明治時代(1868年〜1912年)
磐城平城が落城。(明治元年 :
1868)
陸奥国を分離して磐城国を設置。(明治元年 :
1868〜1869)
廃藩置県で磐前県が成立、県庁を平に置く。(明治四年 :
1871)
福島県の成立。(明治九年
:
1876)
市町村施行。(明治二十二年 :
1893)
大正時代(1812年〜1926年)。
「山椒太夫」森鴎外著(大正四年 :
1915)
森林太郎歿(大正四年 :
1922)
昭和時代(1926年〜1989年)
平成時代(1989年〜 )
巻尾
動物のなかで、人間と他の動物との大きな違いは、分類と命名ができることである。
科学的手続を踏まない誤まった解釈は、洒落など活用される。
安寿と厨子王
2003年9月10日
記 浜 耕
発行 百 囀 舎
浜耕(はまこう):自称、分楽者。
関心、疑問、探求。砂浜は、掘っても、穿っても、何も実らない。にもかかわらず、分けては楽しんで、分かった事で楽しみ、分からなかった事が分かるまでも楽しみ。
トップページへ戻る