勿来の関(穿地再考) トップページへ戻る
那戸曾 万葉千四百年
百葉集
吹く風をなこその関と思へども道もせに散る桜かな
勿来関
八幡太郎義家が「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな 」と詠んだ和歌の碑が、いわき市内の勿来の関にある。(千載和歌集)
勿来の関は、古代の奥羽三関のひとつとされている。
山形県温海町鼠ヶ関の念珠関(ねずがせき、越後と出羽との境)、福島県白河市旗宿の白河関(しらかわのせき、磐城国、関東から奥州に入る一門戸)、福島県いわき市勿来町の菊多関(きくたのせき、勿来関の古名)が奥羽三関といわれている。
勿来の関(菊多関)の創設は、古墳時代(大和朝廷時代)に東北地方以遠を除く、日本本土の大半を統一した大和政権(わが国、最初の統一政権)によるとされている。
八幡太郎義家とは、平安後期の武将、源義家で、八幡太郎と号した。
幼名を不動丸・源太丸、武勇人に勝れ、和歌も巧みであった。
清和天皇から六代目、源頼義の長男である。(相模守のとき、陸奥の豪族の安倍頼時、貞任の父子を討ち伊予守になり、東国に源氏の地歩を確立した。)
義家から四代目となる義朝の子に、源頼朝・義経がいる。
足利氏となった源義康の祖父でもあり、源義経の曽祖父の父にあたる。
京都府八幡市(やわた)にある元官幣大社の石清水八幡宮(いわしみず・はちまんぐう)で元服したことから、通称を八幡太郎といわれたという。
1039年(長歴三年)、源頼義の長男として生まれる
1056年(天喜四年)、前九年の役で、陸奥を転戦。
1062年(康平五年)、陸奥の安倍貞任を討ち、陸奥守兼鎮守府将軍。
1063年(康平六年)、従五位下出羽守となる。
1075年(承保二年)、源氏の頭領となる。
1087年(寛治元年)、後三年の役を平定、東国に源氏勢力の根拠とした。
1106年(嘉承元年)、歿。
八幡とは、少しもいつわりのない場合にいう語で、断じて。全く。誓って。と武士の宣誓する意である。
八幡宮(はちまんぐう=やはたのみや)に、宣誓する意である。
源義家は、父の頼義とともに、安倍一族を倒すために進軍した際、道中の五里毎(20キロメートル毎)に、安全と武運を祈って神社を建てた。
植田八幡神社、飯野八幡神社、楢葉八幡神社は、五里八幡といわれる。
源義家―義親―為義――義朝――義平
|―朝長
|―頼朝―頼家
|― :
|―義経(七男)
―義国―義康(足利)―吉兼―義氏―康氏―頼氏―家時―貞氏―尊氏
義家から四代目、源義朝の三男、源頼朝が、鎌倉幕府の初代将軍である。
源義康(足利)の七代目が足利尊氏で、室町幕府の初代将軍である。
なこそ‐の‐せき
【勿来関】(勿来は夷人くるなかれとも波越の意ともいう)
古代の奥羽三関の一。遺称地は福島県勿来の九面(ここづら)附近とされるが、諸説がある。もと菊多の関と称した。源義家の「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな」(千載集卷二)などに名高い。(歌枕)。・・・
(広辞苑の抜粋)
来る勿れという名の勿来の関なのだから、吹く風もこないでくれとおもうのだが、道もふさがるほどに山桜のはなが散っている。
と解釈され、後三年の役を平定し、都へ帰る途中に詠んだとなっているが、
後記の八幡太郎詩曲(作者不明)に照らすと、奥州征討途中が正しいと覚える。
八幡太郎詩曲(長唄勧進帳調)
今は軍の旅衣
袖こそ靡け旗風や
時しも頃は春四月
源の義家は
花の都を立ち出でて
吹く風を勿來の關と思へども
道もせに散る山櫻
花ごころ
軍といへは身一つは
死ぬか生きるか道奥の
陣營にぞ入りにける
白旗風起亂春暉はくきかぜおこりてしゅんきみだる
邊境已驚貔虎威へんきょうまでにおどろくひこのゐ
勿来関の位置
現在、勿来の関は、いわき市勿来町関田関山と関田長沢との周辺の所に、奥州勿来関趾として石塔があって、関跡を示す資料としている。
国土地理院の五万分の一にも「勿来関跡」と表記になっている。
記念碑の記号 ∩ であって、史跡・名勝・天然記念物の記号 ∴ ではない。
伝説の勿来の関は、現在の「勿来関趾」の石塔のある位置から北東方向へ1キロメートルの所に関所があったという。
その附近の前後と思われるところには、細道が一本、いまでもある。
現在の東日本旅客鉄道株式会社、常磐線、第二勿来トンネルを抜けてから、北方側へ約四百メートル(大津港駅―勿来駅間)、線路の西側にあたる。
四十余年前までは、その風景を思わせるような雰囲気のところである。
勿来町関田御城前と言う地名には、その名残りがある。
1897年(明治三十年)の日本鉄道磐城線(現常磐線)が平まで開通の際に、有耶無耶になったと推定する。
何故に「勿来関趾」の石塔を勿来町関田関山と関田長沢の位置としたのかについて、疑わざるを得ないが、昭和38年、勿来市から文化財の指定を受けて、今に至っている。
「勿来関趾」と文字を刻んだ白御影の石塔。
昭和二年福島民友新聞社が建立した。
〔 勿來關址 〕とか、〔 勿來關蹟 〕いう文字で刻んだ石塔を建てずに、いかにもとしなかったのは、有耶無耶で良かったのかも知れない。
宮城県と山形県の県境の笹谷峠には、有耶無耶の関≠ニいう史蹟があるが、出羽と伊達の最短路には違いないが、急峻な地形の所であった。
「勿来関趾」の石塔の近くに一ヶ所、また、南側の小高いところの台地に、八幡太郎義家が詠んだ和歌、「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな」と刻んだ碑が、柵に囲まれて建っている。
近くに、勿来文学歴史館(福島県いわき市勿来町関田長沢六の一番地)、正式名称「いわき市勿来文学歴史館」(財団法人いわき市観光公社)がある。
地理と歴史を軽くみて、観光重視する現代の役人が位置を決めて、そして地理と歴史はお構いなしの無遠慮な近代建築家が独創的な建物を設計した。
この地は、太平洋の水平線を遠くに見える見晴らしがよい所で、古くには、唐船の侵入、黒船の近海出没(1818〜 : 文政元年〜)の海防のために、見張りの場所として使い、知らせることが好都合の地点と推定される。
「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな」の歌碑の傍らで、見張り人の末裔かもしれなかった人の家があって、茶店をやっていた。
人里離れていたので、見張番の末裔でもなければ住んでいられないようなところであった。
《かってにわがままな推定》
戊辰の役に薩摩長州藩軍(新政府軍)が、錦の御旗をかかげた船で九面港に入って上陸し、攻めた、攻められた(棚倉藩、泉藩、磐城平藩)という。
その際に、九面港を見下ろすことが出来た、この近くの山(福島県いわき市勿来町関田長沢六の一番地を関山≠ニいわれていたはず)が、見張り場所になって、その緊急情報を棚倉藩の庄屋に知らせたのではないか。
「攻められて なすすべもなく しらせるだけが関の山」
官軍の勝利。(新政府軍、勝って官軍、負ければ賊軍)
この関山の北側の沢には、太平洋戦争の末期、1944年から1945年にかけて、太平洋を横断してアメリカ合衆国へ向けての、風船爆弾を揚げた場所(いわき市勿来町関田北ノ作)があって、着弾の確認はともあれ、太平洋の上空を浮く風船を見届けるためには、格好の地点とおもわれる。
遠野和紙に蒟蒻を塗りつけて風船を作ったしろもので、太平洋を越して、アメリカ合衆国まで、爆弾が届くと思っていたというから、稚拙な考案には科学技術者が参加していたのだろうか。
竹槍で機関銃に対峙しようと訓練をさせた当時は、はじめから悪夢をみていたというような変な時代であった。
「かぜまかせ まかせてやろうの ふうせんは うみになくし むなしいくさとおもえども」
現代で、携帯電話を持って、ゴム風船にぶらさがり、太平洋横断を試みたおじさんが、勿来の関山を発進基地としなかったのはせめての救いである。
「風船おじさん」が、どこでもつながるDoCoMoの携帯電話につられ、風船につられて、浮き上がったというお粗末な顛末だ。
こういう方は来る勿かれ、名が泣く。
勿来関 》遺称地は福島県勿来の九面(ここづら)附近とされるが、諸説がある。もと菊多の関と称した。《 と広辞苑にも紹介されている。
九面という地名は「このあたりだろう。」からかも、『ここずら』(ここ=此のところ、ずら=うずらむ=だろう、推量・疑問の意。) → 九面
菊多郡九面村は、陸奥国玄関口との記がある。
「ここつらや潮みちくれば道もなし ここを勿来の関といふらん」
飛鳥井雅世卿?(1390―1452)
試論だが、五浦海岸(いづうら)の次の海岸が九面(ここづら)海岸というので、六、七、八の浦か面を含む地名がありそうな気がする。
茨城県北茨城市平潟町には、九ノ崎というところがある。
海防のために、どこかを本拠として、海岸を順に一面から九面と称したか、九色の海面、九の崖面、九の磯面が見えた海岸。《かってな面白解釈》
ともあれ、九面海岸は、勿来海岸という名になってしまった。
「汐干潟磯のいくりに釣る人は波打ちくれば足揚げて避けつゝ」長塚 節
月が昇る頃は、海面に月光が岸にむかって道のように輝いて、最高の景勝である。
「勿来海岸の月」という有名な歌があるというが、知らない。
平安時代は、騎馬戦が主流であり、館は平地に置かれるのが普通で山城が築かれるのとは考えられないといわれており、いわき市勿来町関田御城前という地名の辺りに関があったとすることのほうが定説に近いと覚える。
勿来関と歌碑
勿来の関を歌枕とし詠み込まれた歌碑が、勿来関跡にある。
詠むときの典拠すべき枕詞・名所として、歩いて見て感じ、噂に聞いて、などを偏見すると頭を傾げてしまう。
「見るめかる あまのゆききの 湊ぢに なこその関も わがすへなくに」と小野小町が詠んだ句碑。
「なこそとは たれかはいいし いわねども こころにそうる 関とこそみれ」と和泉式部が詠んだ句碑。
「をしめども とまりあへず ゆく春を なこその山の 関もとめなん」と紀貫之が詠んだ句碑。
「越えわぶる 逢坂よりも おとにきく 勿来をがたき 関と知るらん」と藤原道綱の母が詠んだ句碑。
「ほととぎす なこその関の なかりせば きみがねざめに まずぞきかまし」と藤中将実方が詠んだ句碑。
「なこそ世に 勿来の関は 行きかふと 人も咎めず 名のみなりけり」と源信明が詠んだ句碑。
「聞くたびに なこその関の 名もつらし 生きては帰へる 身に知られける」と後嵯峨天皇が詠んだ句碑。
「あずま路や しのぶのさとに やすらいて なこその関を こえぞわずらう」と西行が詠んだ句碑。
「陸奥の さはこの御湯に かりねして あすは勿来の関を越えてん」と西行が詠んだ句碑。
こえぞわずらう≠ヘ、《戸蝦夷ではなかろうか。》
西行は、二十七歳の時と晩年の二回、陸奥を訪れているようだ。
信夫の里といったら、現在の福島市の附近で、さはこ≠ヘ、現在の常磐湯本温泉だから、福島から湯本へそして勿来の方へ向かっていることになる。
松島の西行戻りの松≠ニいうことからも、伊勢から松島まで行き、復路を勿来関の経過したということになる。
蝦夷の人々は、大和朝廷に服従せずに、軍(いくさ)に敗北、北方へ後退し、関≠ニいうのは、724年(神亀元年)には、多賀城になっている。
いずれも、年代、場所、人物を考証すると疑問が湧いてくる。
足跡を残したはずはなく、歌枕でしかないのであろう。
「見るめかる あまのゆききの 湊ぢに なこその関も わがすへなくに」と小野小町が詠んだ和歌が、いわき市勿来文学歴史館にあるガラス越しでみる展望台に、さもこの地で詠んだ歌かのように表示している。
小野小町(850年頃)が、この地を、八幡太郎(1039―1106)より先におとずれたろうか。
八幡太郎が、1056年(天喜四年)、前九年の役で、陸奥を転戦、1062年(康平五年)、陸奥の安倍貞任を討ち、1087年(寛治元年)、後三年の役を平定した際に、この地に立ったとすれば、絶世の美人の小野小町は、それ以前に通ったことになる。
ずれ≠ニいう言葉は、小野小町の隠語とはあまり知られていない。
小町糸、小町針はともあれ、この名を冠したものの真偽は怪しい。
評判の美しい娘を小町娘というが、趣味の世界。
出羽郡司、小野良真の娘というので秋田出身としているのか、ゆかりの人物名を拝借して、米を「秋田小町」、秋田新幹線を「こまち号」と命名し、福島県田村郡小野町などは、小野町を生誕地とも最後の地だかもかまわずに町名にしている。
町名が先か、小野小町は死が先か、生誕が先かもの証がない。
絶世の美人が十二単衣をまとって、旅を歩く姿というのはないとおもう。
落ちぶれて、流れながれて、京都から秋田へ向かったとしても、最短の道は、日本海側の陸路であろう。
「をしめども とまりあへず ゆく春を なこその山の 関もとめなん」と紀貫之(868―945)が詠んだのも、「ほととぎす なこその関の なかりせば きみがねざめに まずぞきかまし」と藤中将実方が詠んだことも、八幡太郎(1039―1106)の以前の歌である。
藤中将実方が陸奥国司として赴任の途中に、ここを訪れることはない。
小野小町も和泉式部も紀貫之も、平安の交通事情では、京都からは旅にでているとは思い難い、なこそ≠ニいう語調が使いたかったのだろう。
京都・嵯峨野にあるなこそ(名古曾)≠詠んだとしか思えない。
嵯峨天皇(761―823)の離宮であった周囲には、名古曾(なこそ)の滝とうの置く、日本庭園の始まりのような池、大沢池というのがあるそうだ。
「滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」大納言藤原公任(966―1041)の歌がある。
こうすると、八幡太郎義家も、多賀城跡の辺りの名古曾関(勿来の関)で詠んだ和歌かも、わかんなくなってきた。
観光ガイドブック、マップル福島(エリアマップ昭文社)、見る、白河と並ぶ古関、勿来の関=u蝦夷の襲来を防ぐために設けたのが五世紀、以来、源義家、松尾芭蕉など多くの有名人が足跡を残した。四月中旬に勿来まつりがある。ひっそり静まり返る 歌枕 勿来関跡」と掲載されている。
松尾芭蕉が通ったのは、白河の関というのが定説。
松尾芭蕉は有名人には違いない、勿来の関に足跡というのは絶対ないが、「風流の初やおくの田植えうた」という芭蕉の句碑があるので、詠んだのはここか、勘違いしてしまうが、これは、白河市白坂を過ぎて、須賀川に至り、宿泊先の主人相楽等射へ挨拶をこめて詠んだといわれている。
文部省唱歌には、「八幡太郎義家の歌」というのがテイチク・レコードから発売されていたという話もある。
ついでだが、北東方向へ7キロメートルの位置(いわき市小浜町)に、海岸段丘状の地形のところに、泉藩の唐船見番所があった。
その突端に竜宮岬と称されているところがあって、琉球人が漂着したかのような地名がついている。
後に、縁もゆかりも無い者が「浦島」という旅館を経営した経緯があり、歴史と物語を歪めている。
勿来関という名
歌碑には、彫られている文字がさまざまである。
なこその関
勿来関
勿来の関
名古曾関
那古曾関
なこそ、その名こそに、何かを覚え関心、疑問、探求した。
四十年前に、国土地理院五万分の一地図に、勿来川という文字を見たとき、勿来人としては驚いた記憶がある。宮城県宮城郡多賀城にあった。
現在、宮城県多賀城市、そこに名古曾神社というのがあるのにさらに驚く。
たがじょう【多賀城】 奈良時代、蝦夷に備えて、現在の宮城県多賀城市市川に築かれた城柵。(724年 : 神亀元年)
福島県いわき市の勿来関の創設から約130年後に、築かれたようである。
多賀城跡を訪れると、おじさんボランティアが、訪れた人々に、多賀城の歴史の案内をしていた。
「ここの多賀城は、九州大宰府(筑前筑紫郡)の外国からの守りに対して、北の蝦夷からの守りの国府です。現在の岩手県、秋田県までを統治していた城がありました。青森は、まだ、日本でなかったわけです。まつりごとの際、会津の伊佐須美神社が遠いので、まつりをこちらでやるように移した神社で、総社というのがこの辺りです。現在の塩竃神社より、はるかに大きな神社がありました。天皇が変るたびに神社の格式が変わります。また、福島県に、勿来の関というのがありますが、あちらは、菊多の関といって、本当の関、なこその関≠ヘ、ここにあったということです。二説あるようです。」と説明をしていた。
おじさんボランティアの説明を真面目に聞いていた中老の夫婦の傍らに近寄って聞き入っていると、聞き手が増えたことで、多賀城人は、ますます熱弁をきかしつつあった。
「勿来川≠ニいう川がありますが、勿来の関との関係、どこから流れてきますか。」と傍聴者であるのにも拘わらず質問をしてみた。
すると、「あっ、それならば、あっちの人に聞かなければわからない。」とおろおろさせてしまった。
多賀城の碑の説明に向かおうとしている、他のボランティアガイドを指し、ここ多賀城跡を訪れた者へ、可能な限りの奉仕をしようとしていた。
呼び戻すまでもないので、再びそのおじさんボランティアに、「この辺に、なこそ神社≠ニいうのもあるそうですが、どこですか。」と尋ねた。
「それは、名前の名と古いの古と、なんだっけ、それは神社というよりも、ほこら(祠)ですよ」と言った。
「名古曾神社と書くのでしょう。」というと、「そう、そう。」といった。
「八幡太郎義家が、吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな、と詠んで、千載和歌集に撰ばれている、和歌は、こちらのなこその関≠ニいうこともあるかとおもって、38年ぶりに来てみました。」というと、この八幡太郎義家の和歌の存在については、しらない風であった。
坂上田村磨呂(758―811)が征夷大将軍となり、蝦夷征伐に大成功があったという説明が主である。(正三位大納言に昇る、京都清水寺を建立。)
多賀城の碑の説明に向かおうとしていた、他のボランティアガイドに尋ねれば良かったかと惜しんだ。
勿来川の源流を良く知っているのは、宮城県の利府人のようであった。
多賀城人が「なこその関」を含めて説明をするのならもう少し関連の話も持っていないとならないとおもった。
史材不足では、話材がない、
軽薄でも観光協会のパンフレットを見た方が良いと覚える。
いずこの観光案内も、知らない観光客に対し、知ったかぶりで案内するということに落胆した。
重要文化財「多賀城碑(壺の碑)」には、去常陸国界四百十二里≠ニいう文字が刻んである。
常陸国の北界からならば、約245キロメートルなので、一里は、約600メートルとなる。
一里が、4キロメートル(八幡太郎義家の五里八幡)として換算すると、約1648キロメートルになってしまう。(日本列島に匹敵)
常陸国の界が南側か北側かのどちらかとしても、疑問が残る。
安政7年8月(1778)、平潟洞門完成の碑には、仙台まで、二百八十八里と彫られている。
この頃は、一里は、六町制で、約654メートルとなっているので、約188キロメートル。
現在の自動車の走行距離と等しいので、驚く。
一合の油を燈しながら歩いて届いた距離が山の一合目という説を、平地の距離として行ったとしたならば、どうであろうか。
この碑は、真偽も検証し、真のようだということになっているが、字体、字並びの視点で評価したようだが、記述の内容から真偽を再検証したほうが良いと覚える。
東北歴史博物館の前身は、例の遺跡発掘捏造事件の関係が深い。
国府と利府の関係も気にかけてきた。
那戸曾と仮定し、探求してみる。
【那】ナンぞ。=何。どうだ。どの。
『那邊』ナヘン。どのへん。どのあたり。どこ。
【戸】とびら。守る。トドめる。
[字源]門≠フ左半分の形をかたどる。
【曾】カつて。以前に。まえかた。これまでに。かさねて。
《かつて、関のとびらがあったのは、どこなんぞ。》
常陸国(茨城)に、那珂川がある。
【珂】 玉の一種。白瑪瑙(めのう)。
貝の一種。轡(くつわ)を飾る。
《那珂=A白瑪瑙(めのう)がある川、どこなんぞ。》
《かってな、わがままな解釈》
菊多関(きくたのせき)
菊多郡にあったので菊多の関。
東海道(奥州浜街道)の多珂郡を過ぎて奥州に入ると、菊が多かった。
それで、菊多郡となった。
奥州浜街道、菊多郡の臨海を菊多浦といっている。
多珂郡は、白瑪瑙(めのう)玉、または轡(くつわ)を飾る貝が多かったのではと思われる。
水戸を過ぎて、那珂川を渡り、現在の日立市から北茨城市である。
現在、JR常磐線、日立多賀駅という駅名がある。
鹿島浦と菊多浦との間に、多珂浦というのがあれば美しい石≠ェあるはずと海岸を歩くと、確かに、石、貝殻が集まる浜があった。
伊師浜という名があって、国民休暇村となっている。
また、小貝浜という名もあるのには感動である。
集まるという意の【湊】という文字を、竜宮岬と鵜ノ子岬に囲まれた湾状の海面に表示された古代地図(東北歴史博物館、宮城県)を見つけた。
勿来海岸のある菊多浦(五万分の一地形図、国土地理院)である。
「見るめかる あまのゆききの 湊ぢに なこその関も わがすへなくに」と小野小町が詠んだ句碑の湊≠煢語となる。
以前に訪れた、徳川記念館で常陸風土記を、もう一度見て、再確認をしてみよう。
勿来関と境界
国の境は、動物の棲み分けの状況からも、川、山の稜線が自然である。
豪族の勢力も川を境界としていたと推定される。
福島県の海側は、菊多郡、石城郡、標葉郡、行方郡、宇多郡、亘理郡。
吾妻鏡(東鑑 1104―1180)の写しを見たことがあるが、難しくて読めなかったが、史となっているようだ。
郎等といわれた下級の武士の組織を源頼朝が活用し、源平合戦を制した。
戦で天下を制した権力者が参加した武士への功労として土地を与えた。
1868年 (明治元年)、奥州陸奥国から奥州磐城国として分離する。
1871年 (明治四年)、廃藩置県。
1893年 (明治二十二年)、町村制実施。
東国とは、箱根以北らしいが、中世以降には磐城地方(白河も磐城国)以北をいっていたようだ。
白河以北、一山百文とは、貨幣価値から江戸時代とおもう。
奥州への道を、東海道(奥州磐城街道=奥州浜街道=陸前浜街道)といっていたようである。
東海道五十三次との関係についてはわからない。(江戸時代)
古代、中世の時代は、常陸国と奥州国との境界は、現在のいわき市石塚町国分とも伝えられている。
いわき市立植田東中学校の周辺と金山運動公園 (いわき市金山町朝日台)との間とおもわれる。
いわき市金山町朝日台は、いわき市発足前には、勿来市植田小浜町中ノ作といわれていた。
勿来市になる前は、石城郡植田町大字小浜字中ノ作で、その前は、石城郡小浜村中ノ作といった。
中世以前には、菊多郡と石城郡の境であったことには違いない。
いわき市東田町は、東坂村と塩田村が合併して東田村となったが、東坂は、国分(くにわけ)への坂道であろう。
入り口に羽黒神社がある。
奥州と関東の境の国分≠ニいう地名のところにある、いわき市立植田東中学校が開校した際に、いわき市立植田中学校の学区の東部を分割のために命名され、通称をひがし中といっているが、とう中でも、東大につながれば素晴らしい中学校の名称である。
東国との国分けに在る、いわき市立東中学校(あずま)でも良かったのかも知れない。
超古代は、常陸国多珂郡多珂郷、常陸国多珂郡菊多郷までが、坂東(関東)で、以北は、陸奥国石城郡、陸奥国標葉郡、陸奥国行方郡、陸奥国宇多郡、陸奥国亘理郡という奥州(東北)ということもあったようだ。
それが、653年に、常陸国多珂郡菊多郷が、陸奥国菊多郡となり、奥州は、陸奥国菊多郡、陸奥国石城郡、陸奥国標葉郡、陸奥国行方郡、陸奥国宇多郡、陸奥国亘理郡となったという。
常陸国多珂郡菊多郷と陸奥国菊多郡の境、現在のいわき市勿来町窪田に、菊多の柵があったともいわれている。
江戸時代には、村の玄関に関所(御番所)を置いた。
鮫川の左岸、いわき市植田町に番所下という地名が残っている。
勿来関とゆかりの人物
小野小町=@ 平安前期の人。絶世の美人。(850年頃)
出羽郡司小野良真(篁の子)のむすめともいう。
(広辞苑)
田村郡小野町、小野荘の小野篁・愛子の子ともいう。
(小野町の歴史)
小野道風(894―966)が小野篁(たかむら)の孫というので、 従姉弟になって しまう。
・・・虚像の美女。
紀貫之=@ 平安前期の歌人。
醍醐、朱雀天皇に仕えた。
「土佐日記」。
(868―945)
和泉式部=@ 平安中期の歌人。
大江雅致の女(むすめ)、情熱的な一生を送り、恋愛歌
人として有名。「和泉式部日記」、「和泉式部集」。(生歿不詳)
藤原実方=@ 藤原実方 中将藤原実方朝臣、左近中将と陸奥守を兼務していたともいわれている。
宮城県名取市愛島笠島で歿。(光源氏のモデルといわれている。)
(960―998)
源義家=@ 平安後期の武将、源義家で、八幡太郎と号した。
幼名を不動丸・源太丸、武勇人に勝れ、和歌も巧みであった。
(千載和歌集に一首)
(1039―1106)
西行=@ 平安・鎌倉初期の歌僧。俗名、佐藤義清(のりきよ)。
鳥羽上皇に仕えて北面の武士。
伊勢を本拠に、陸奥、四国を旅した。
松島に「西行もどりの松」というのがある、勿来の関に、似ている場所である。
高い丘が好き と推測できる。(1118―1190)
後嵯峨天皇=@ 鎌倉時代、第八八代天皇、「続古今集」(1220―1272)
飛鳥井雅世卿=@室町中期の歌人「新古今和歌集の選者」(1390―1452)
長塚 節=@ 歌人・小説家、小説「土」、茨城県生まれ。(1875―1915)
勿来と名乗ったもの
勿来町=@ 町名(いわき市勿来町)
勿来駅=@ 駅名(東日本旅客鉄道株式会社、常磐線)
勿来第一小学校=@学校名(いわき市勿来町窪田)
勿来第二小学校=@学校名(いわき市勿来町窪田)
勿来第三小学校=@学校名(いわき市勿来町窪田)
勿来第一中学校=@学校名(いわき市勿来町窪田)
勿来第二中学校=@学校名(いわき市勿来町窪田)
勿来高等学校=@ 学校名(福島県いわき市勿来町窪田)
勿来幼稚園=@ 法人名(いわき市勿来町窪田道山)
勿来桜=@ 蝋燭(製造者 いわき市平)
勿来の関=@清酒(製造者 いわき市植田町 鷺酒造)
八幡と名乗った所
八幡を冠しているのは、石清水八幡宮をはじめ、近いところでは、八幡太郎義家が東国征討の際五里毎に建てた神社の植田八幡神社、飯野八幡神社、楢葉八幡神社がある。
仙台では、大崎八幡神社が有名。
郡上八幡というのもある。
八幡平というのもある。
拠り所が薄く、史材不足で、堂々と世に出している書面があるある。
史觀
東北歴史博物館に展示されている古代地図で、標葉郡を見つけた。
現在の双葉郡楢葉町の辺りである。
いわき市川前町は、市制施行前には、石城郡川前村で、その前は、楢葉郡川前村という名称の変遷が、いわき市の案内には記載されている。
しかし、「川前は、たしか、しねはぐん≠フはず。」と長老に言われた。
漢字は知らないということだったので、古代地図に【標葉郡】というのを見て、此れだとおもった。
史材を探し求めていたものにめぐり合ったと覚えた。
しかし、しめはぐん≠ニ読むのではと史觀する。
標(しめ)は、しめ縄(標縄、注連縄)、標柱、標識。
標葉は、榊をさしているのでないのかと覚えた。
しめ縄は、神前または神事の場に不浄なものの侵入を禁ずる印として張る縄であり、榊は、境木の意か(広辞苑)との解説もわかるような気がした。
榊は、阿武隈丘陵より西側になく、この辺りが北限なのかも知れない。
菊多郡の菊は、天皇で、石城郡(守、軍)・標葉郡(境木・榊)・標縄いずれも、神に関係する。
ある方に、「福島県では、榊が中通りとか会津にはないが、何故なのか。」と聞かれたことがある。
サカキという植物などは、どこにでもあるとおもっていたので、感心してしまって、関心、疑問、探求。
そこで、新潟の大きな園芸会社に「福島県では、榊が中通りとか会津にはないが、何故なのですか。日本海側ではありますか。」聞いてみると、「確かに本榊というのは、太平洋側にしかない。」という回答があった。
標葉郡の北面は、行方郡(なめかた)である。(やるかたかも知れない。)
行方という名称、指して行く方向なのか、役目をいうのかも確かめたい。
時代と磐城
古墳時代( 〜593)
大和政権により、勿来関を創設。
飛鳥時代(593〜710 : 和銅)
推古天皇〜元明天皇。
聖徳太子(517〜622)
憲法十七条(?)
奈良時代(710〜794)
律令政治が行われ、磐城郡。(郡役所跡地発掘中)
律令政治が行われ、鮫川流域に菊田郡が置かれる。
多賀城(宮城県多賀城市市川)に、蝦夷に備えて城柵を築く。(724年 :
神亀元年)
平安時代(794〜1185)
大伴弟磨呂が征夷大将軍で、蝦夷征討に派遣。(794 : 延暦一三年)
坂上田村磨呂(758―811)が征夷大将軍となり、蝦夷征討に大成功があった。
(794 :
延暦一三年以降)
常陸平氏の流れの岩城氏が土着、好嶋庄の地頭の役割になる。
岩城氏が、岩城郡の地頭になる。 延喜式神名帳(927 : 延長五年)資料。
岩城道則の後室、徳尼御前が白水阿弥陀堂を建立。(1160 : 永歴元年三月)
源平合戦、公家から武家時代へ《郎等=下級の武士の組織》
源頼朝が平氏追討の兵をあげる。(1180 : 治承四年)
屋島の戦、頼朝・義経、平氏打倒。(1184 : 元暦元年)
壇ノ浦の戦、源義経が平氏滅亡。(1185 : 元暦二年)
鎌倉時代(1185〜1333) 《古代から中世へ》
奥州合戦(1189 : 文治五年 源義経歿、平泉高館山)により、東北地方の中世の幕が開
き、合戦で功績のあった、関東の武士、源頼朝に味方した在地の武士たちに、恩賞として所領
を与える。
岩城氏が、岩城郡および好嶋荘の地頭になった。
常陸守護佐竹氏の流れ、小川義綱氏が、西小川中柴に館を建てる。(1320 : 元応二年)
小川氏が下小川の長福寺を開山。(1322 : 元亨二年)
岩城氏の勢力拡大で小川氏が岩城氏の家臣団に組み入れられる。
菊田庄、下野国の守護小山氏、上遠野郷に本拠。
小山氏の一族、藤井氏は、足利方の有力な一員、後に上遠野氏を称する。
陸奥国、岩崎郡金成村地頭の金成又三郎が、東国人鎌倉番人に所領を譲り状。
(1329 : 嘉歴四年)
奥州東海道岩崎郡長谷村地頭に岩崎氏。(1329
: 嘉歴四年)
南北時代(1333〜1392)
北畠顕家、焼失の飯野八幡宮の造営。(1334 : 建武元年)
室町時代(1392〜1573)《足利時代》
岩城隆忠、薬王寺を再建。(1334 : 文安四年)
国人領主、白川氏(結城氏)、石川氏との争い、岩城氏が惣領主の地位を確立。
(1442〜1466)
調停役の白川氏が長井村を所有。(1451)
戦国時代(1477〜1573)
領国拡大に死闘を繰り返す。
国人領主、岩城氏が飯野平(大館)城を築き居城、本拠とした。(1484 : 文明十五年)
岩城氏が相馬氏と国境の木戸、金剛川(楢葉)で合戦。(1534 : 天文三年)
上遠野氏が岩城氏の支配下(家臣団)になる。
安土桃山時代(1573〜1600)
岩城領検地。( 1595 : 文禄4年)
三阪氏、三倉城を統治。
平山氏、中寺館を統治。
江戸時代(1600〜1867)
関ヶ原の戦い。(1600 : 慶文)
岩城領一二万石没収。(1602 : 慶長七年)
徳川家康は、磐城領一〇万石を鳥居忠政に与え、磐城平藩主の鳥居氏が入領。
(1602 : 慶長七年)
その後に幕府直轄地に細分割される。
磐城平藩主鳥居氏の女婿・土方氏により窪田藩成立。(1622 : 元和八年)
上遠野は、棚倉藩に組み入れられる。(1622
:
元和八年)
八茎銅山、再発見で採掘。(1625 : 寛永二年)
磐城平藩主七万石で上総国から内藤忠興が入領。(1634〜 )
泉藩成立、磐城平藩主内藤忠興が弟政晴に二万石を分ける。(1634 : 寛永十一年)
磐城平藩主七万石で内藤忠興が五万石。(1634 : 寛永十一年)
窪田藩は、三代六十二年で、除封廃藩となって、幕府領になり、窪田代官所の支配になる。
(1684 : 貞享元年)
窪田藩は、棚倉藩領になる。(1627 : 享保十三年)
大野、大浦は、笠間藩牧野氏が所領。(1749 : 寛延二年)
遠山政亮により湯長谷藩一万石で成立。(1670 : 寛文十年)
湯長谷藩一万五千石に。(1687 : 貞亨四年)
泉藩主、板倉氏。(16 : 年)
泉藩、二万石から一万五千石に減石。(1702 : 元禄十五年)
幕府代官所五千石、合戸村、渡戸村、三坂村、市ヶ谷村(市萱)、中寺村が直轄支配。
(1702 : 元禄十五年)
下野国鬼怒川の渡瀬川の修治を命じられる。(1725 : 享保十年十月)
日光廟の修繕を命じられる。(1731 : 享保十六年四月)
百姓一揆(1738 : 元文三年九月)
鎌田川原で百姓一揆煽動の罪で処刑。(1739 :
元文四年八月二十三月)
磐城平藩内藤氏、日向国延岡へ転封。(1747 : 延亨四年)
磐城平藩から幕府直轄地、小名浜代官所。(1747 : 延亨四年)
幕領小名浜で、川前、下桶売、上桶売、小白井支配。(1747 : 延亨四年)
磐城平藩主五万石で井上氏が入領、十年間統治。(1747 : 延亨四年)
幕府領、中神谷代官所。(1747 : 寛延元年)
常陸笠間藩の領地、渡戸村、中寺村、下市萱村、上市萱村、上三坂村、中三坂村、下三坂村
、差塩村が小名浜代官所の支配。(1749 : 寛延二年)
磐城平藩主五万石で安藤氏が入領、統治。(1757 : 宝暦七年)
安藤氏、幕府の要職として老中職。
棚倉藩主小笠原長尭、平潟同門を穿つ。(1779 : 安永八年)
上桶売村は、新発田藩の分領になる。(1790 : 寛政二年)
棚倉藩主松平氏の時代。(1836〜1866)
川前、下桶売、上桶売、小白井が棚倉藩になる。(1836 : 天保七年)
泉藩、本多氏。(1836 : 天保七年)
泉藩主の本多忠徳が、藩校「汲深館」を設立。(1852 : 嘉永五年)
石炭発見、片寄平蔵。(1855 : 安政二年)
片寄平蔵、弥勒沢で開鉱、常磐炭田開発の起因。(1857 : 安政四年)
湯長谷藩より石炭採掘許可、磐前郡太平左平太。(1859 : 安政六年)
明治時代(1868〜1912)
磐城平城が落城。(1868 : 明治元年)
陸奥国を分離して磐城国を設置。(1868〜1869 : 明治元年)
廃藩置県で磐前県が成立、県庁を平に置く。(1871 : 明治四年)
福島県の成立。(1876 : 明治九年)
市町村施行。(1893 : 明治二十二年)
磐城炭鉱の設立。(1893 : 明治二十六年)
入山採炭の設立。(1893 : 明治二十六年)
日本鉄道磐城線が平まで開通。現在の常磐線。(1897 : 明治三十年)
好間炭鉱の設立。(1904 :
明治三十七年、白井遠平)
大正時代(1812〜1926)。
好間炭鉱が古河鉱業に譲渡。(1915 : 大正四年)
昭和時代(1926〜1989)
日本水素工業小名浜工場設置。(1938 : 昭和十三年)
磐城炭鉱と入山採炭が合併、常磐炭鉱株式会社を設立。(1976 : 昭和十九年)
磐城共立病院創設。(1950 : 昭和二十五年)
福島労災病院創設。(1956 : 昭和三十一年)
小名浜港に一万トン岸壁が完成。(1957 : 昭和三十二年)
新産業都市の指定。(1964 : 昭和三十九年)
常磐ハワイアンセンターのオープン。(1966 : 昭和四十一年)
大日本炭鉱の閉山。(1967 : 昭和四十二年)
古河好間炭鉱の閉山。(1969 : 昭和四十四年)
常磐炭鉱の閉山。(1976 : 昭和五十一年)
参照資料
広辞苑=@第四版 新村 出編(岩波書店)
サンシャインいわき・ガイドマップ≠「わき市観光物産課・観光協会
平成十五年 夏 浜 耕
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