18世紀後期の文学
[政治的社会的状況][諷刺新聞雑誌][文学の発展][センチメンタリズム] [ロシアセンチメンタリズムの独自性][農奴にされた農民の作品]
[目次]
政治的社会的状況
18世紀後期、ロシアはヨーロッパ列強の中でも目立つ存在になっていた。ルミャンツェフ(Румянцев)やスヴォロフ(Суворов)のような秀でた司令官の指導の下、ロシア軍は、当時強力な軍事大国であったトルコとの二度にわたる戦争で輝かしい勝利を収めていた。 この戦争の結果、ロシアは黒海への出口を得た。国の南部に、オデッサ、ニコラエフ、セヴァストーポリといった大都市が生まれた。 かつては、ロシア人民によるすべての勝利は、エカテリーナ2世(1762-1796)の下で自らの権力をふるっていた貴族たちが享受した。この時代は、農奴制と貴族地主の専横が猛威をふるった時期であった。自らの勅令で、エカテリーナ2世は率直にこう言明している。「私たちは、貴族地主の領地や所有地を断固として守るつもりであり、農民たちは、当然彼らに服従する義務を負うものとする。(Намерены мы помещиков при иx именияx и владенияx нерушимо сохранять, а крестьян в должном их повиновении содержать)」 農奴制はこれまで農奴制の存在しなかった地域、ウクライナや北カフカスのような地域にまで拡大された。ツァーリ(皇帝)の勅令と並んで、貴族地主たちに、自らの農民を流刑へと追放したり「他の不動産のように(как прочее недвижимое имущество)」農民を売り払ったりする権利も自由に行使させた。農民たちには、貴族地主の権力に対し訴訟を起こすことが禁じられた。農民は完全に貴族地主の所有物となり、地主の権力は領地においては際限ないものとなった。 こうした状況は、階級闘争の高まりを伴った。18世紀60年代から、農民、ウラルの労働者、コサックの貧民たちが団結を強めるようになっている。この時期の階級闘争の頂点は、指導者プガチョフ(Пугачёв(1773-1775))の指導による農民戦争に行き着く。これは封建的農奴制による圧制に対して向けられた強い民衆運動であった。しかし、(他の)すべての農民戦争と同じように、それは自然発生的なものであり、蜂起は敗北に終わった。こうした結末にもかかわらず、その暴動は農奴制に強烈な一撃を与えた。 プガチョフの乱は、エカテリーナや貴族階級を非常に脅かした。彼を鎮圧後、国家の政府の反動はさらに一層強くなった。
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諷刺新聞雑誌
70年代初め(特に 1769-1774年の間)から、いくらかの諷刺雑誌が出始める。その中に絶えず増大する階級闘争や社会の広い層に現在の秩序に対して否定的な考えの生じていることが明らかに反映されているものがある。政府は、自らの利益のために諷刺雑誌を利用しようと努めた。政府によって出版された雑誌(それにエカテリーナ2世自ら投稿した)や政府の影響の下にある他の雑誌は、できうる限り当時のロシアの現実への非難を和らげ、生活を飾り、迷信や吝嗇、浪費や流言といった社会の欠点だけを暴こうとした。しかし、ノヴィコフ(Новиков)の雑誌は、農奴農民の厳しい状況、彼らの赤貧や無法下におかれている状態について語り、貴族地主の専横と残忍さ、官吏たちの官金横領、収賄行為を暴きたてた。 プガチョフの乱の後、諷刺雑誌は中止された。それらは 1787年に復活し、その時は、И.А.クリーロフ(Крылов)が自ら雑誌を発行し始めた。しかし、クリーロフのジャーナリストとしての活動はすぐに終わった。 諷刺雑誌は、厳しい検閲や短期間の存在にもかかわらず、芸術文学の発展に大きな役割を果たした。 諷刺雑誌のページでは、巧みな形象の描写や真に描かれた生活の描写、平易な口語に近い生き生きとした言葉に出会うことができる。 雑誌「ジヴォピシェツ(Живописец=画家)」に掲載された「И**Т**への旅からの断章(Отрывок из путешествия в И**Т**)」や「阿呆への手紙(Письма к Фалалею)」のような作品は、悪漢貴族地主の権力下の農奴農民の苛酷な状況を真に描写し、領地所有者の粗暴で残忍な姿を表情豊かに描いている。
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文学の発展
先鋭な階級闘争に満たされた複雑で激烈な生活、また外国の革命的事件の影響は、文学上でも階級闘争を先鋭化した。非常に様々な社会階層から多くの作家が現れている。この時期の作家の中に、エカテリーナ2世を筆頭に最も位の高い貴族から、中位下位の貴族階級の代表者、一般市民(平民)、そして農奴農民に至るまで見いだすことができる。 古典主義は著しく変化し、文学及び芸術の新しい傾向--センチメンタリズム--が生まれ、現実を真の姿を描き始め、その傾向が強くなり発展し始めた。この点は、18世紀の最も優れた詩人の一人--ガブリイル・ロマノヴィッチ・デルジャーヴィン--の作品が証明している。 Г.Р.デルジャーヴィンの人生経験は、豊富で多様であった。彼の経歴は、一兵卒で始まり大臣で終える。自らの職務を遂行にあたり、彼は様々な社会階層の人々、平民から宮廷の人々までの生活に触れた。この豊かな経験が、誠実で率直な人間であるデルジャーヴィンによって、彼の作品の中に広く反映されている。 頌詩では、デルジャーヴィンは、多くの点で古典主義の規則から逸れている。例えば「フェリーツァ(Фелица)」という頌詩では、古典主義が、あらゆる美徳を備えたエカテリーナ2世の形象の描写に、均整のとれた構成に、また、ロシア頌詩に典型的な十行のストロフィの中に現れている。しかし、一つの作品にいろんなジャンルを混ぜてはいけなかった古典主義の規則に反して、デルジャーヴィンは、ここで、頌詩と諷刺詩とを結びつけたり、女帝の好ましい姿に彼女の高官たち(Г.ポチョムキン、А.オルロフ、П.パニン)のよからぬ形象を対照させている。これらの高官は、非常に正しく描写され、彼ら一人一人の顔の特徴が非常に強調されているので、それを読んだ当時の人々は、エカテリーナも含めて、すぐにそれが誰であるか特定できるほどであった。 この頌詩では、作者自身の性格、人格、視点、習慣までもまた見える。デルジャーヴィンのペンの下、頌詩は、真に正直に現実を描く作品に近づいた。 彼は、古典主義の厳格な規則と言葉を破ってこの頌詩を書いた。デルジャーヴィンは、ロモノーソフの時代から文学に定着していた三文体論を放棄した。頌詩には高い文体と定めれらていたが、デルジャーヴィンは、荘厳で威厳ある響きのする詩句に、同時に全くの中位の文体を用い(汝は、指の間から愚行を見、一つの悪にさえ我慢ならない。(дурачества сквозь пальцы видишь. Лишь зла не терпишь одного.))、「低文体」に出会うことさえある。 頌詩「フェリーツァ(Фелица)」では、軽妙な朗々たる詩句は滑稽な口語の言葉に近づいていて、ロモノーソフの頌詩の荘重で威厳のある言葉とは非常に異なっている。 彼の勝利を讃える愛国的頌詩の主な英雄は、ロシアの兵士、ロシアの民衆である。 ロシアの民衆は、デルジャーヴィンの描写の中では、他人の土地の侵略者ではなく自らの祖国の防衛者であり、ナポレオンによって隷属させられたヨーロッパ民衆の解放者である。頌詩「アルプス山脈越え(На переход Альпийских гор)」で、詩人は振り返って西ヨーロッパの民衆にこう呼びかける。
ロシアは全体の善のために戦う
自らの、あなた方の、すべての安寧のために
Воют Росс за обще благо
За свой, за ваш, за всех покой.
デルジャーヴィンは、彼の考えでは、国家を強固なものにしたことを称賛するだけでなく、「不幸な声に耳を傾けない(несчастный голосу не внемлет)」宮廷の貴族高官を暴いたのである。驚くべき公正さと辛辣さで、彼は、国家に対して何の功績もないのに自らの高い地位を誇り威張る貴族高官たちを嘲笑した。
ロバ(莫迦)はロバのまま
たとえ星(勲章)の山があろうとも。
知性を働かさなければならない時にも
ただ耳をあてるだけ。
Осёл останется ослом,
Хотя осыпь его звездам.
Где должно действовать умом,
Он только хлопает ушами.
(Вельможа「貴族高官」)
頌詩「君主と裁判官たち(Властители и судии)」では、デルジャーヴィンは、自らの理想的な国家の官吏(活動家)について描写する。
あなた方の義務は、法を守ること
力あるものに気兼ねしないこと
助けのない者や守ってくれる人のいない者
孤児や寡婦を見捨てないこと
あなた方の義務は、罪なき者の不幸を救うこと
不幸な者たちに保護の手を差しのべること
力ある者たちから力のない者を守ること
束縛から貧しい者を救い出すこと
Ваш долг есть сохранять законы,
На лица сильных не взирать.
Без помощи, без обороны,
Сирот и вдов не оставлять.
Ваш долг спасать от бед невинных,
Несчастливым подать покров;
От сильных защищать бессильных,
Исторгнуть бедных из оков.
頌詩「記念碑(Памятник)」で、デルジャーヴィンは、自らの法則が歴史的に不滅であると宣言し、彼が頌詩で初めて「滑稽なロシアの文体(забавный русский слог)」--軽妙で平易、冗談交じりの口語体の言葉について語ったことを示している。彼は、自らの功績は「敢えて--微笑みながらツァーリに真実を語った(дерзнул...истину царям с улыбкой говорить)」ことだと考える。
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