ローマの典礼:グレゴリオ聖歌の旋律

[ローマのミサ] [ミサ] [聖務日課][グレゴリオ聖歌の作曲者]

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 ドン・デヴィッド・ノウルズ(Dom David Knowles)が言ったように、「グレゴリオ聖歌の音楽は、情感の表現範囲が広く、荘厳で、精神性に富み、他のすべての芸術形式以上に厳粛で、その旋律はこの上なく内発的で純粋で、技法の完成度において、繊細で洗練されている。」この言葉は、その黄金時代、すなわち5世紀から8世紀までの時代の聖歌を描写している。
 旋律の特徴は、急に高い地点まで昇り、それから直線ではなく、「落ち葉のように小さく左右に揺れ動きながら」優しく終止形(カデンツァ)まで降りてくるところにある。旋律の道筋は予測できない。例えば、パレストリーナの音楽のような、上昇と下降の動きの数学的なバランスは全くない。
 旋律は、順次進行の動きが基本的に使用されていることを示している。旋律は、2度や3度の上昇・下降が極めて一般的で、4度の移動はそれほど多くなく、5度や6度は遙かにまれである。7度の上昇(下降は決してない)は、例外的なものである。旋律の範囲は、4度から例外的に11度までの広がりがある。それらは、3つのタイプに分類される。(a) シラビック(音節的):すなわち1音節に1音。(b) ネウマティック(ネウマ的):一音節に2音からおよそ4−5音まで。(c) メリスマティック(メリスマ的):一音節で歌われる長い華やかな句。この最後のタイプの書法は、主として、グラドゥアーレ、アレルヤ、トラクトゥス、そしてオッフェルトリウムに、そして、大応唱(the great Responsories)--その中で、ソリストたちが神の更なる栄光のために、あるいは、残念なことだが、時折、彼ら自身の栄光のために、彼らの技芸を見せることのできた「名人芸」の歌に現れる。
 表現全体の主題は、垂直の和声的な掛け合いもなく、単一の旋律線で歌の中に生まれる。単調さは、「反対の動き、繰り返し、模倣、旋律のエコー、音楽的リズム、つまり(一言で言えば)典礼での使用のために十分抑制されている限りにおいて、グレゴリオ聖歌を快く芸術的にするのに必要なあらゆる方法」1を用いて避けられている。
  1. Dom Gatard, O.S.B., Plainchant
その旋律、形式、テキストの扱いへの従属性、表現の質、時折用いられる音の生き生きとした描写などを詳しく検証する前に、私たちは、それらが見いだされる曲について明確な考えを持っていなければならない。すなわち、詠唱されたり歌われたりするテキストの部分に関する限りにおいてのミサと聖務日課の構造について。

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ローマのミサ

 ミサの歌は、ローマのグラドゥアーレ(Graduale)の中に含まれている。それは、(1) the Proper of the Time (2) the Proper of the Saints と (3) the Common of the Saints に分けられる。この分類の最初のもの、降誕祭(クリスマス)、復活祭(イースター)と聖霊降臨祭(ペンテコステ)の一連の曲は、降臨節(アドヴェント)の最初からペンテコステ後の最後の日曜日までのすべての日曜日、アドヴェントと四旬節(レント)とイースターとペンテコステ後の時期の平日と四季の斎日(エンバーディズ)、そして、12月26日と 1月13日の間にある聖人祝日(Saints Days)を含んでいる。二番目の the Proper of the Saints は、聖人自身の資料をもつ祝日を含んでおり、三番目の the Common of the Saints は、多くの祝日で共有されているテキストと聖歌の収集(曲集)である。これらの後に、奉納ミサ(Votive Masse)を含むセクションがくる。これら四つのセクションすべては、ミサの可変の部分とだけ関わっている。不変の部分、ミサの通常文(the Ordinary of the Masse)は、キリアーレ(Kyriale)の中に含まれている。グラドゥアーレの最後のセクションには、死者のためのミサ(the Masse for the Dead)、集祷文(Collects)、使徒書簡(Epistle)、福音書(Gospel)、序誦(Preface)などの暗誦のための音などが含まれている。

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ミサ1
  1. 次の一覧のイタリック体で書かれているものは、ミサの可変部分、ローマン体は、固定した不変部分を意味している。

     ミサの前の祈祷(the Preparation)

 1. Introit
 2. Kyrie
 3. Gloria (四旬節と降誕節(レントとアドヴェント)の間は省略)
 4. Collects
 5. Epistle
 6. Graduale - Alleluia (季節や祝日に応じて、アレルヤが二つでグラドゥアーレがない。あるいは、グラドゥアーレの後にトラクトゥスがきてアレルヤがない。あるいは、アレルヤの後にセクエンティアがくる。)
 7. Gospel
 8. Credo (ランクの低い祝日では省略)

     奉納(The Offering)

 9. Offertory

     供儀(The Sacrifice)

 10. 序誦(Preface)の後に始まる Canon とサンクトゥス-ベネディクトゥス、そして偉大なる聖体(Eucharistic)の祈りに導かれ、「Per ipsum et cum ipso et in ipso」という頌歌(doxology)で終わる、など。

     聖体拝領(The Communion)

 11. Pater noster
 12. Agnus Dei
 13. Communion

     聖体拝領後と結び(The Post-Communion and Conclusion)

 14. Closing prayers
 15. Dismissal (Ite Missa est、あるいは、ある季節では、Benedicamus Domino)

 死者のためのミサ、すなわち、レクイエム・ミサでは、グロリアとクレドが省略され、グラドゥアーレ(Gradual)とトラクトゥス(Tract)、セクエンティア(Sequence)がある。

 
典礼の叙唱(レシタティヴォ)

 聖職者の大多数の限られた音楽の才能の中で、最も単純な聖歌は、祈りや使徒書簡、福音書の典礼の叙唱、すなわち朗詠である。序誦(Preface)や Pater noster(天にまします、我らが父よ)の歌は、より精巧である。
 平日1 や単なる祝日の日には、祈りは単一の音で詠唱され、大きな祝日には、少し装飾された詠唱が用いられた。序誦や Pater noster には、荘厳な平日の詠唱がある。
  3. Feria: 教会暦では、祝日ではない平日のこと。たとえ、ラテン語の元来の意味が、「祭りの日」であるにしても。Feria には、様々なランクがある。例えば、平日でも聖週間の間は、「より大きな(greater)」平日である。
下の福音書の詠唱の一つの例は、テキストと音楽とがいかに美しく適合しているかを示しているだろう。挨拶(greeting)と応答(response)が、レクト・トノ(recto tono)(一つの音調)で歌われている。福音を知らせる助祭(deacon)と会衆の応答の声が、句読を示すのに3度下がり、また、福音そのものでも、他の二つの点でそうなっている。疑問符は、暗誦の音調で半音下がり、その後、もとに上昇する声で示され、福音書の終わりは、「regnum tuum」の最初の音節の小さなグループの音によって示されている。

  譜例 2.

  譜例 3.

 どのように、音楽的朗詠が発展したか、Pater noster の最初の言葉に付けられた 3b, b と c の版に十分示されている。例 3d は、今日用いられている正式の音調の始まりである。
 その音楽が、どれほど自然に言葉に適合しているかを見いだすには、これらの叙唱を歌ってみるだけでよいだろう。Pater noster のラテン語のアクセントは、それより前の音より高い音にでも低い音にでも無関係である。このことに関して「規則」はない。しかし、(後に引用する旋律の多くが示しているように)ラテン語のアクセントのある音節は、しばしば「揚音(トニック)」のアクセントと呼ばれるが、しばしば、高い旋律の解放へと放たれ、しばしば美しい効果をもたらしている。4
  4. よく言われてきたように、このアクセントは、残りのシラブルに与えられた音のグループに「輝き落とす(shines down)」。その言葉は、そのように「スポットライトを与えられる(spot-lit)」。しかし、二次的な重要性の言葉が、同様の扱いを受けることもまれではなく、ここでは、音楽は、全体として一次的なインスピレーションをまだ残しているテキストに優先する。
 ラテン語は、本来は、長短のリズムであったが、4世紀には強弱のリズムとなり、そのトニックアクセント(揚音アクセント)は、強調というよりむしろ旋律的な軽いものと見なされた。聖歌を歌う上でのアクセントの強調は、その音楽をタイプライター音楽にし、そのしなやかさや精神的美しさを破壊する。一般に、聖歌の歌い方は、優れたラテン語の雄弁術の上昇・下降を連想するほうがよいだろう。音楽は、常に、言葉の呪縛から逃れて自立的になろうとする事実を考慮に入れて、歌い手たちは--そして、グレゴリオ聖歌の作曲家たちは、主な聖歌隊の修道士たちの中にいたが--彼らの芸術を実践するために音楽的雄弁術以上のものを持ちたいと思ったとしても当然である。そこから、私たちは、聖歌の中に高度に装飾的なパッセージを見いだす。司祭者(Officiant)を祈りの、すなわち聖書からの朗読の終わりの句を装飾するよう、また、ある時には、特別な言葉の意味を強調したり、アレルヤの最後の喜びに溢れた母音を歌って自らを表現しようと導く本能に従って。リートの場合と同じように、句を支配する言葉があり、これらが語法上の(phraseological)アクセントとして知られるものを帯びるのである。

 
ミサ固有文の聖歌(The Chants of the Proper)

交唱聖歌(Antiphonal Chants):これらは、入祭唱(Introit)、奉献唱(Offertory)と聖体拝領唱(Communion)である。3つともすべて、行列聖歌(processional chants)でもある。Liber Pontificalis(6世紀)は、私たちにこう語っている。教皇ケレスティヌス(Celestine)(432年)は、「ダヴィテの 150の詩編を、みんなにアンティフォナ(交唱)で供儀(sacrifice)の前に歌うよう命じた。それは、その時までなされてはいなかった。聖パウロの書簡と聖福音書だけが、声に出して読まれて(すなわち朗詠されて)いた。」
 聖グレゴリウスの時までに、聖歌隊(恐らく応唱する聖職者も一緒に)は、交唱聖歌や詩編を歌うことを受け継いでいて、その結果、両方とも遙かに念入りなものになっていた。これは、単旋律聖歌の歴史において、あまりにもよく知られた話となっている。
 入祭唱(Introit)は、行列聖歌である。というのは、それは、教皇(pontiff)が、香炉で香をたく副助祭と蝋燭のともされた7つの燭台を持った7人の侍祭(acolyte)の後に、助祭長(archdeacon)や助祭によって付き添われて教会に入り、祭壇に向かうときに歌われたから。歌われる詩の数は、教皇によっていた。--古い写本では、最初の一つしか与えられていない。--教皇がグロリア・パトリを朗詠するカントール(歌い手)たちに合図を送っていたから。交唱聖歌が、再び繰り返され(詩編の詩の間でも)、最後には Sicut erat の後でも(繰り返された。)今日行われている、詩編の一つの詩しか歌わないという習慣は、入祭唱(Introit)が、普通の教会で、また、それほど洗練されていない儀式で歌われていた時代にまでさかのぼる。10世紀のサン・ゴールの Codex 339 の中に発見された 149の様々な入祭唱(Introit)のテキストのうち、少なくとも 143は、聖書からのもので、そのうち 102の多くが詩編から取られている。
 奉献唱(Offertory)と聖体拝領唱(Communion)は、奉献唱が、人々が奉献をするため祭壇に上る間に歌われ、聖体拝領唱が、聖体拝領を受け取るときに歌われるという意味で、行列聖歌である。聖アウグスティヌスは、「奉納の前と奉納されたものが人々に分配されている両方の時に、詩編からとられた賛歌を祭壇で歌うという実践」について語っている。
 聖歌隊が二つに分かれ、交唱的に(言葉本来の意味で)歌われた詩編から、奉納唱の歌は、7世紀までに交唱聖歌と詩編の詩の統合した曲に発展した。交唱聖歌は、聖歌隊によって歌われ、詩編の詩は、ソリストたちによって遙かに装飾されたものになった。
 人々が奉納を祭壇に持ってこなくなると、詩は、聖体拝領唱の歌と同じように省略され、今日のグラドゥアーレ(昇階唱)の中に、私たちが見いだすような交唱聖歌が残った。死者のためのミサでは、奉納唱と聖体拝領唱との歌は、交唱聖歌の後半(それは、アステリック印の後の部分=譜例 4(省略):訳注)がその後に繰り返され、まだ詩を残している。5 次の譜例は、聖体拝領唱の歌である。
  5. 12世紀や13世紀にまだ使用されていた詩のある奉納唱(Offertories)の非常に面白いコレクションが、Carolus Ott の "Offertoriale sive versus Offertorium (Desslee', 1935) の中に見いだせるだろう。
  譜例 4

応唱聖歌(Responsorial Chants):応唱聖歌では、会衆は、ソリスト自身がちょうど歌った詩編の詩で、あるいは、アーメンとかアレルヤとかいった何か短い間投詞でソリストに応答した。詩編は、このように、聖書からの朗読の間に歌われた。その朗読は、初めは3つあり、1つは旧約聖書から、2つ目は新約聖書からのものであった。6世紀には、聖書の朗読は二つ使徒書簡(Epistle)と福音書(Gospel))に減らされ、その間に、グラドゥアーレ(昇階唱)の詩編とアレルヤとが歌われた。グラドゥアーレは、その名を、司祭たちがそこで歌ったアンボ(ambo)、すなわち、小さな説教壇へ通じる階段から取られたように思える。こうして「カントール(歌い手)は、聖歌集をもって説教壇へ昇り応唱を歌った。」朱筆(の言葉)は、気づかれると思うが、「カントール」のことを言っているのであって助祭のことではない。聖グレゴリウスは、助祭のソリストたちの過度の虚栄を観察して、595年7月5日の教令(decree)で、彼らの魂の善のため、この仕事をするのを禁じたから。ローマの聖コスマスや聖ダミアン(SS cosmas and Damian)の教会のいくつかの美しいモザイク画は、これらの若い紳士たちを描いている。彼らは、絹のダルマティカ(法衣)(dalmatics)の上に長い髪を垂らし、自らとても満足しているように見える。グラドゥアーレとアレルヤ(あるいはトラクトゥス(詠唱))が歌われる間、典礼の行為は、全くないことに気づくべきである。みんな座して、神の偉大な栄光のために捧げられた演奏に耳を傾けている。この時までに、グラドゥアーレは、その詩を一つだけしか保持していない。それは、トラクトゥスと共に、東方教会の聖歌に、その洗練さの多くを負っているメリスマ的な聖歌となっていた。
 アレルヤ(Alelluia)は、時にそうであるが、グラドゥアーレの一部と考えるべきではなく、別の聖歌である。その二つは、音楽的には結びつけられない。ユビルス(jubilus)と呼ばれるアレルヤの最後の母音の発声法は、聖アウグスティヌスによって「言葉のない歓びの歌」として有名な一節の中に描写されている。聖グレゴリウスの年長の同時代人であるカッシオドルスは、私たちにこう語っている。「カントールの舌は、その中で歓び、歓び溢れて会衆はそれを繰り返す。そして、決して十分持つことのできない何かよきもののように、それは絶えず変わるネウマで新たにされる。」
 サン・ゴールの Codex 339には、95のアレルヤの聖歌がある。詩の 70は詩編からとられ、14は聖書の他の部分から取られている。正確には、詩がいつアレルヤに加えられたか知られていないが、詩のないこの聖歌の写本の中に痕跡はない。

 トラクトゥス(詠唱):トラクトゥスは、アレルヤが歌われない七旬節(Septuagesima)と復活祭(イースター)との間の悔悛の季節に歌われ、応唱のない(今日では、カントールと聖歌隊で歌われるが)純粋にソロの聖歌である。ペータ・ヴァグナー(Peter Wagner)は、「グレゴリオ聖歌の旋律入門(Introducton to the Gregorian Meldies)」の中で、「トラクトゥスの旋律は、ラテン教会の聖歌の極めて古く尊い記念碑であり、イタリアで4・5世紀まで用いられていた形式でミサのソロの聖詩朗詠(solo-psalmody)の旋律型を保存している。その当時は、ソロの歌い手たちが、それまでよりも豊かなメリスマータ(melismata)で彼らの芸術を飾ろうとし始め、この革新によって詩編の省略がもたらされた。」詩編第90編の大部分が、四旬節の最初の日曜日にトラクトゥスで歌われ、詩編第21編のかなりの部分が、棕櫚の聖日(Palm Sunday)のトラクトゥスで歌われる。」6
  6. 詩編は、ヴルガータの数え方で、すべて引用している。例えば、ここで第90編、第21編とした詩編は、A.V.や the Book of Common Prayer では、第91編と第22編である。
 他のトラクトゥスでは、詩編の数行だけが歌われる。この聖歌の著しい特徴は、その旋律がすべて第2旋法か第8旋法であることである。

 セクエンツィア(続唱):8世紀に、グレゴリオ聖歌に付け加えるために生じた新しい創造的な衝動、ミサ通条文の「付加された(farced)」キリエを説明するときに再び触れられるが、セクエンツィア、すなわち「後に続くもの」として知られるようになったトロープスのその形式の中で、非常に重要で永続的な結果をもたらした。旋律あるいはテキストのあるいはその両方のアレルヤに加えられ、何人かの学者が考えているように、それは、先グレゴリオ聖歌のアレルヤにその原型を持っていたかも知れない。セクエンツィアが作られたのは、とにかく、8世紀を通じてが最も盛んであった。
 「Liber Ymnorum(後に、Liber Sequentariumと題される)」の序で、サン・ゴールの修道士--彼はそこで 890年に司書となった--ノトカー・バルブルス(Notker Balbulus(どもる人))は、アレルヤの非常に長い旋律を暗記する困難さについて述べ、ノルマン人によって破壊されたジュミエージュ(Jumieges)(ルーアン近く)から避難してきた僧侶が、その修道院に来て、ユビルス(jubilus)に付けられた詩を含む交唱聖歌集をもたらしたとき、どんなに嬉しかったか述べている。彼は、詩そのものには、なんら優れた意見は述べていないが、旋律を覚えやすくしようという考えは、称賛している。ノトカーは、自ら旋律に言葉を付ける仕事に取りかかったが、その結果を師のイソ(Yso)に見せた時、後者(イソ)は、彼の技より、その勤勉さをほめ、彼の努力したものを訂正して言った。「旋律のすべての音は、別の音節を持たなければならない。」この判断は、イソが、すでに知られていた規則を引用しており、ノトカーは、確かに音節的なセクエンツィアを発明したのではないことを示している。アイルランドの学者や修道士たちは、ノトカーの更なる努力に非常に喜び、彼が一巻のセクエンツィアを編集するよう駆り立てた。
 ウェレス博士(Dr.Wellesz)が言うように、もし「ノトカーが、本当に「すべてのアレルヤ・ユビルス」の旋律に言葉を付けた最初の聖歌(賛美歌)研究者だとするならば、私たちは、彼を、確かにそうであったように、偉大な詩人として称賛しなければならないだけでなく、勃興しつつあった詩のジャンルの偉大な革新者と考えなければならないだろう。」
 グレゴリオ聖歌の技巧について話すには、独立した曲として考えられているセクエンツィアの詩的音楽的体系に戻らなければならないだろう。トレントの公会議は、ローマのミサ典書から、4つのセクエンツィアを除いて、すべて取り除いた。その残された4つは、Victimae Paschali (ブルグンドのウィーポによる復活祭の詩--d.c.1048年)、Veni Sancte Spiritus (ステファン・ラングトン(Stephen Langton))による聖霊降臨節(Whitsuntide)の詩--d.1228年)、Lauda Sion Salvatorem (聖トマス・アクィナスによる聖体祝日(Corpus Christi)の詩--d.1274年)と Dies irae (死者のためのミサ:チェラノのトマスによるとされている詩であるが、恐らく、別の13世紀のフランシスコ会修道士による詩)である。スタバート・マーテル(Stabat Mater)(7つの聖母の哀歌:詩の作者は、教皇イノケンティウス2世、聖ボナヴェントゥーラ--d.1274年--また、ヤコポーネ・ダ・トーディ--d.1306年などと様々に言われている)は、1727年までミサに入れることは認められなかった。

 
ミサ通常文の聖歌(Chants of the Ordinary of the Mass)

 ミサ通常文の聖歌は、元来、現代のグラドゥアーレ(クレドを除く)の中に見るような順に作曲されたのではなく、それぞれのカテゴリーに分類された旋律の別々の書に書き留められたものだった。グラドゥアーレのソレム版(ヴァチカン版ではなく)は、それぞれの曲に年代を付けており、その範囲は10世紀から16世紀までの期間である。これらの年代は、曲ごとに様々である。例えば、最も新しい曲、よく知られた Missa de Angelisでは、次のような年代が付けられている。キリエ、15世紀から16世紀、グロリア、16世紀、サンクトゥス、11世紀から12世紀、アニュス・ディ、15世紀。もちろん、これらは写本の年代であるが、通常文の旋律のいくつかは、明らかに、その原初の起源を示している。大多数は、グレゴリオ聖歌以後で、その性質から知られるように、「スコラ(schola)」が通常文の歌い方を引き継いだ時に作曲されたのだけれど。原初の聖歌は、ミサ XVI-XVIIIのキリエ、ミサ XVのグロリア(Simple Feastのためのミサ、それは、ドン・グレゴリー・マレー(Dom Gregory Murray)が言っているように、「第4旋法の詩編の音調の変形とほとんど変わらず、・・・序誦(Preface)、Pater noster その他の典礼参加者の聖歌に非常に類似している。」)、ミサ XVIIIのサンクトゥスとアニュス・ディ、そして死者のためのミサ(レクイエム・ミサ)(その中では、miserere nobis が、dona eis requiem に、dona nobis pacem が dona eis requiem sempiternam に変えられている。)
 アニュス・ディは、革新として、聖土曜日に聖人たちの連祷(Litany of the Saints)の終わりで歌われ--今日でも、最も初期の状態を保持しているミサの典礼を示す--その旋律は、上で述べたミサ XVIIIのと同じである。

  譜例 5

 キリエ:キリエ・エレイソンは、聖土曜日の諸聖人の連祷の初め(また、もちろん、それが用いられる他の所でも)で歌われ、連祷が終わると、再び復活祭(Paschal)の旋律になる。(ミサ I)それは、復活祭(Easter)の夜を徹しての祈り(Vigil)のミサの始まりを意味している。7
  7. 改革された聖週間の儀式は、ソレムの Easter vigil を含み、ピウス7世によって権威が賦与された一般教書 Maxima Redemptionis Nostrae Mysteria (1955年11月16日)によって発効された。The Holy Week Manual (Burns & Oates, 1956)の中に見いだせる。
 キリエがローマのミサで、いつ最初に用いられたのか誰も知らない。しかし、確実に、6世紀初めまでには、典礼書(祈祷書)の一部が形造られていて、かなり前にできあがっていたかも知れない。598年に書かれたシラクサの司教、ヨハネス(John)への書簡には、聖グレゴリウスは、コンスタンチノープルの習慣を、余りにも容易に真似ることに異議を唱えてこう言っている。「キリエ・エレイソンを、私たちはギリシア人たちが言うとおりに言ってきたことはないし、今言っているわけでもない。なぜなら、ギリシア人の間では、みんなそれを一緒に言うが、私たちのところでは、それは、聖職者によって言われ、人々が応答する。そして、また、同じ回数だけクリステ・エレイソンが付け加えられ、ギリシア人の間では決して言われない。」それぞれの誓願は、歌われるべき決められた回数--現在のように、それぞれ3回--は、典礼学者メッスのアマラリウスによって、831あるいは 832に、初めて記録されている。彼は、皇帝ルイ(Emperor Louis)によってローマに派遣され、そこで典礼の実践その他のことについて報告しており、そこで9度キリエが繰り返されていることを発見した。
 創造的活動(それはすべての芸術に広まるが)の大爆発、それは、トロープスやセクエンツィアという形式の新しく適応された大量の聖歌を生み出したが、それが、8世紀の間に大規模に始まったように思えるが、それよりかなり以前にさかのぼれるかも知れない。
 ギリシア語のトロポス(tropos)という言葉は、旋律の意味であるが、典礼に関していうと、旋律あるいはテキストだけ、あるいはその両方で、すでに存在する聖歌に書き加えたものを意味する。その結果、華麗な旋律が拡張されたり、そのままの旋律に言葉が付けられたりした。最も古い現存するトロープスは、サン・ゴールの修道士で、詩人であり送風(管)楽器と弦楽器の演奏家で建築家で彫刻家でもあったトゥオティロ(Tuotilo)の作品であると考えられている。
 トロープスの最もよく知られた形式はセクエンツィアである。それは、前のセクションで扱われている。
 トロープスとセクエンツィアは、典礼に権威だけによって随意に付加が許されたものであった。というのは、グレゴリオ聖歌の尊き集成(全集)は、公式には決してみだりに変更することはできなかったから。
 キリエを「詰め込む(farce)」のは、ごく普通の典礼であって、私たちは、グラドゥアーレのキリエの部分に今日でもある副題を読むときに、このことを思い起こす。そして、その名を様々なミサに付けている。例えば、ミサ IVには、「Cunctipotens genitor, Deus」という副題が付いている。キリエという言葉は省略され、改められたテキストが始まる。「Cunctipotens genitor, Deus omnicreator, eleison」その言葉は、キリエの旋律に合わせられている。

  譜例 6

 上の例が示しているように、この過程は、ネウマの旋律を音節的なものにした。典礼のほとんどすべての部分は、何らかの仕方で「トロープスに」された。(troped)そして、典礼学者たちが、これらの発生に不満を持ったとしても、彼らは新しい土地を切り開こうとする避けがたい欲求の証人である。それらは、知られた作者による最初の独立した作曲である。

 グロリアとクレド:聖グレゴリウスの時代の教皇ミサの儀式を描写している Ordo Romanus I の記載事項は、人々がキリエだけでなく、グロリアも歌ったことが可能であるように思わせる。
 彼らが(キリエを)歌い終えると、教皇は人々の方を向いて、Gloria in excelsis(その季節であれば)を始め、すぐに再び東の方へ向きを変える。それが終わると、再び人々の方を向き「Pax vobis」と言う。そして、もう一度東に向いて、Oremusと言い祈りが続く。
 9世紀までには、スコラ・カントールム(Schola Cantorum)は、グロリアを歌うことを引き継いでいた。ミサ XIIの単純なグロリアを、それは、5度の音域を超えることはまれ(アーメンの前のフレーズ)であるが、「cantus ad libitum」、Gloria III と比較すれば、後者は、巧みな歌い手のグループを除けば、いかなる領域から外にどれほど離れているかを示しているだろう。

  譜例 7

 もともとはギリシア語の朝の賛歌であるグロリアが歌われた最初の明白な証拠は、教皇聖レオ1世による説教(sermon)の中に見いだせる。12世紀までに、それは、もはや司教たちに限られたものではなく、聖職者たちは、復活祭日(Easter Sunday)にだけ歌うことが許されていたのだが、決められた時には聖職者たちによっても用いられるようになった。
 ローマ教会は、クレドをミサに導入した最後の教会であった。ライヘナウの大修道院長、ベルノ(Berno)が、皇帝アンリ2世の戴冠式のためにローマにいた時(1017年2月)、なぜクレドを歌わないのか尋ねている。彼は、ローマ教会は、他の教会とは違って、異教に汚されていないので、その信仰を確証する必要がないと言われた。しかし、皇帝は、最後にはクレドを歌うよう、ベネディクトゥス8世の説得の成功した。が、それでも、より高位のミサに限られていた。
 キリアーレ(Kyriale)の中に6つの曲がある。そのうち最も新しく作曲された No.III(17世紀)は、最も人気があり、今日、会衆(いずれにしろ、いくつかの教会の)が、普通一般の沈黙を破って参加するわずかな聖歌の一つである。大きな式典で、聖ペテロの大聖堂の前の広場で、すべての民族の人々の大群衆によってクレドが歌われるのを聞くのは、非常に精神が昂揚する。

 サンクトゥス・ベネディクトゥス:サンクトゥス(天使の賛歌)を歌うのは、Ordo Romanus I によれば、聖グレゴリウスの時代のミサの標準的特徴であり、恐らく、6・7世紀まで人々によって歌われていただろう。その後、聖職者たちによって引き継がれ、最後には聖歌隊によって代わられた。
 古い写本では、現代のグラドゥアーレにおいてのように、サンクトゥスとベネディクトゥスは一つの聖歌として現れ、それが分割されるのは--一つは聖別(consecration)の前に歌われ、もう一つは聖餐杯の奉挙(the elevation of the Chalice)の後で歌われる--全く、ポリフォニーの作曲による聖歌によって、聖別式の間、参列者たちがしばしば待たされた時間の長さによっている。
 ベネディクトゥスという言葉は、詩編 117から取られ、それで、我らが主が棕櫚の聖日(Palm Sunday)にイェルサレムに意気揚々と入城したとき、人々が彼を歓迎したものである。Hosanna in excelsis は、彼らが思わず口にした称賛(歓呼)の叫びである。(今日、サンクトゥス・ベネディクトゥスは、単旋律の一つの聖歌として、また、もちろん、曲が短いときには、装飾された音楽でも--例えば、ウィリアム・バードの「三声のためのミサ」のように--歌うことが許されている。

 アニュス・ディ:Liber Pontificalis には、「主の身体が切り裂かれる時に」 Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis と聖職者と人々とによって歌わなければならないと書かれている。私たちが見てきたように、そのテキストは、連祷(Litany)から取られている。アニュス・デイは、9世紀には二度、スコラ(schola)によって、それから聖職者によって歌われたが、12世紀には、現在と同じように、3度、3度目の誓願の終わりでは miserere nobis に変えて dona nobis pacem として歌われた。しかし、イノケンティウス3世(1216年)が、ローマのスコラ・カントールムでは、3度の誓願それぞれの終わりに miserere nobis と歌う古代の習慣を保持していると述べているように、ラテラノ大聖堂(Lateran Basilica)では、まだ、その伝統に従っている。

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