聖務日課
「西洋修道院制度の創始者(Patriarch of Western Monasticism)」である聖ベネディクトは、「会則(Rule)」の中で、礼拝堂に遅れてやって来た人々について「神の業より、何物も優先してはならない。(Ergo nihil operi Dei praeponatur)」と言っている。「神の業」という言葉で、彼は、聖務日課(Officium Divinum)、教会法に基づく日課(Canonical Office)とも呼ばれるが、それを意味していた。
このすばらしい祈りの宝庫は、一般には、偉大なベネディクト修道会の建物を訪れた者を除けば、ほとんど知られていない。彼らは、もし十分早く起きたなら、夜の日課(朝課と賛課)や日中の時課(1時課、3時課、6時課、9時課、晩課)、また、共同体すべての人々が、一日の終わりの時に(ad completorium)集まり、その後の「大いなる沈黙」が次の日の朝早くまで、すなわち、朝課や賛課といわれる時まで建物を訪れる終課の祈り(聖務)である修道士たちの夜の祈りに出席することができる。
聖詩朗詠(Psalmody)というのは、聖務日課の祈りや賛美の基礎で、時間そのものは詩編118:164(日本語訳119:164)の言葉の周辺に集約される。「一日に七たびあなたをほめたたえます。」と同じ詩編の「夜半に起きて、あなたに感謝します。」
修道士は、その修道院生活の初めから、すべての詩編書、また短い日課や最も一般的な礼拝の定式文句を覚え、暗記しようとしなければならなかった。
毎晩、恐らく、使用によって摩損したり色あせたりして、略語で満ちた写本から聖書や教父たちを読まなければならなかった人々は、すすけたランプのほのかな光によって、また、眼鏡の助けもないので、一般には特別な準備が要求されただろう。読み手が聞き手に自分が言っていることを理解させられなくても、私たちがするように書物を参照することはできなかった。なぜなら、聖務日課は発明されていなかったし、写本はまれであったから。1
1. David Knowles, "The Monastic Order in England". |
2. Laudsというのは、その名を、この時刻の修道院の聖務日課でしばしば起こる Lauda あるいは Laudate で始まる詩編からきている。 |
夜と闇と雲、すべての世界の混乱と無秩序は消えて無くなれ。--光が差している空は明るくなっていく。キリストが到来しつつある。 |
3. 世俗の聖職者たちによって言われた聖務日課 |
朝課(Matins)
招詞(Invitatory)(詩編第94(日本語訳95)--Venite exultemus Domino--季節や祭日に応じて様々なリフレインを伴う。
賛美歌(Hymn)
第一夜課(First Nocturn)
詩編の前後に歌われるアンティフォナの3つの詩編
唱和短句(Versicle)と唱和(REsponse) Pater noster. Absolution(赦罪)4 聖書から取られた祝福の三課(Blessing Three Lessons)、それぞれあとに長いレスポンソリウム(応唱)が続く。
4. このタイトルの下で言われる祈りの一つが悔悛の性格のものであるのでそう呼ばれる。 |
Quem vidistis, * pastores? dicite, annuntiate nobis, in terris quis apparuit? * Natum vidimus, et choros angelorum collaudantes Dominum. V. Dicite, quidnam vidistis? et annuntiate Christi nativitatem, * Natum ... Gloria Patri ... * Natum ... (おぉ、汝ら、羊飼いたちよ。汝らが見たことを話し、我らに告げよ。地上に誰が現れたのか。我らは、新しく生まれた子供と主とを讃える歌を歌う天使たちを見た。V. 語れ、汝らは何を見たのか。そして、キリストの誕生を我らに告げよ。) (ラテン語のテキストの最初のアステリスクは、incipit 、すなわち、合唱が参加する前のカントール(先詠者)によって歌われた吟唱の終わりに付けられた印である。他の三つは、聖歌隊が繰り返しをする点である。詩と Gloria Patri の前半は、先詠者(カントール)によって歌われる。) |
5. 応唱のパターンは様々で、上の普通の図式とは著しく異なっていることもある。平日の聖務日課では、夜課は一つだけである。 |
1時課(Prime)
賛美歌、一つのアンティフォン(交唱)での3つあるいは4つの詩編。
カピトゥルム(Capitulum)
短いレスポンソリウム(応唱)(Short Responsory)
この形式は、長いレスポンソリウムとは異なっている。次のは、クリスマスの日のテキストである。
R. Christe Fili Dei vivi * Miserere nobis
V. Qui natus es de Maria Virgine * Miserere nobis. V. Gloria Patri.
R. Christe Fili Dei vivi * Miserere nobis
聖歌隊は、先詠者たちの後に唱和(response)全体を繰り返し、詩(Verse)の第2の部分と Gloriaの後の唱和全体を歌う。(生ける神の子であるキリストは、我らを憐れみ、処女から生まれしものは、我らを憐れみたもう。)
唱和用短句と唱和、そして様々な祈り
3時課、6時課、9時課(Terce, Sext, None)
賛(美)歌
一つのアンティフォン(交唱)での3つの詩編
カピトゥルム(Capitulum)
短い応唱(レスポンソリウム)、唱和用短句と唱和
晩課(Vespers)
賛課の時と同じパターン(しばしば、同じアンティフォン(交唱)で)。しかし、5つの詩編があり、旧約聖書の賛歌(canticle)はない。
マニフィカート、アンティフォン(交唱)で、新約聖書の賛歌として。
終課(Compline)
始まりの祝福の後、聖書からの短い朗読、赦罪を伴う一般的な悔悛(告解)、一つのアンティフォンでの3つの詩編、賛美歌、聖書小句(chapter)、短い応唱(レスポンソリウム)、唱和用短句(Versicle)と唱和(response)、アンティフォン(交唱)でのシメオンの歌(Nunc Dimittis)、聖母マリア(Our Lady)の4つのアンティフォン(交唱)(Alma Redemptoris Mater; Ave Regina coelorum; Regina coeli laetare; Salve Regina)のうち一つが、終課の後、季節に応じて歌われる。時には、賛課や晩課の後で歌われることもある。
完全な聖務日課は、修道院のものであろうと修道院外のものであろうと、--エジプトの聖アントニウスがアレクサンドリアから逃れたように--大都市の堕落した生活から砂漠へ男女たちが逃れ、そこで自ら修道院共同体を組織した初期の時代にさかのぼる基礎の上に築かれたものである。聖ベネディクトは、後に彼自らもローマから逃れ、ズビアコ(Subiaco)の洞窟で隠者の生活を送り、--後には、モンテ・カッシノの大修道院を創設し、第二次世界大戦で破壊された後、現在、幸運なことに修復されている--修道士たちに会則を与え、それが西洋の他のすべてのものに取って代わった。そして、実際、「8世紀から12世紀までは、ベネディクト会の修道院制度が、西洋に知られる宗教生活の唯一の形式であって、今日のベネディクト会修道院で行われている典礼の伝統の起源であった。そこでは、神の業(Opus Dei)は、今日でも修道士たちの最も重要な仕事である」6
6 Knowles, op. cit. |
グレゴリオ聖歌の作曲者たち
グレゴリオ聖歌の名前の知られない作者たちを作曲家として語ることは、都合がよい。彼らは、作曲家だと認識してはいなかっただろうが。彼らは、技芸家であって、何世紀もの間を通して、彼らが非常に敬意を払って見ていた定型の旋律、あるいは、実際の旋律を受け継ぎ、常に、定められた典礼の領域で、典礼法に従い、事実、最も実際的な教会音楽であったし--なぜなら、それは決して典礼の行為を遅らせないから--また、美学的精神的に最も満足のいく--永久に完全な手段の応用の故に--ある機能的な音楽を生み出した。実際に、それは完全に演奏家の歌である。
単旋律聖歌の様々な形式は、これまですでに述べたが、これからは、それらのいくつかについてより詳細に検証しなければならない。
交唱の聖歌(Antiphonal psalmody)
交唱の聖歌の本質は、二つのグループが交互に歌うところにある。応唱聖歌では、一つのグループが独唱(一人か二人のカントール(先詠者))に応えるのとは反対に、交唱聖歌では、リフレインが詩編の前やそれぞれの詩や対の詩の後に歌われるようになった。これらのリフレインは、(単なる叫び声の期間の後)何よりも先ず、聖処女マリア(B.V.M)の清めの祝祭に蝋燭を配る間に歌われたミサや交唱聖歌集(Antiphon)、祈祷書聖歌(Cantide)の中に残された初期の交唱聖歌の歌の完全な形式として、詩編そのものから取られた。交唱(聖歌)のテキストは、ヌンク・ディミティス(Nunc Dimittis)の4番目の詩から取られていることが分かるだろう。
譜例 8.
歌われるべき詩編からではなく、聖書の他の部分から取られたものである。オリジナルのテキストの規定と、詩編の最後でだけ(歌われる)交唱聖歌の繰り返しは、後に発達したものであった。全般に、交唱聖歌は、音高を表し、詩編の音調の旋法(モード)を示す実際的な方法、典礼として詩編が歌われている間、心に留めておくべき先の考えを規定するものと見なすことができる。降誕祭(クリスマス)あるいは復活祭(イースター)の賛課(Lauds)と晩課(Vespers)の交唱聖歌の検証は、これらの「時課(hours)」のそれぞれを通して、祝祭のドミナント(第5音)がどのように変わって(移って)いくのかのよい考えを与えてくれるだろう。
聖務日課の詩編朗詠(psalmody)は、夜と昼との数時間を占めている。交唱聖歌にスムーズに移ることを確実にするために、8つの詩編の音調7が、多くの異なる終止で規定された。これらは、交唱聖歌集(Antiphonary)の中で、交唱聖歌の旋法の数と並んで示されている。それぞれの場合、母音 E, u, o, u, a, e がグロリア・パトリス(Gloria Patri)の後に置かれ、sa, E, c, U, l, O, r, U, m, A, m, E, n に適合するように選ばれた終止を表している。その例では、交唱聖歌は、7.c. で終わる第7旋法と印されている。その交唱聖歌は、その旋法の終止音で終わる。その詩編の音調の終わりは、交唱聖歌(アンティフォン)の最初の音にスムーズに繋がるように選ばれている。なぜなら、これは、その旋法のどの音からも始めることができたから。
下の例は、歌い出し(intonation=incipit)、保続音(reciting note=tube)、中央カデンツァ(middle cadence=meditatio)、保続音、そして終止カデンツァ(end cadence=treminatio)を示している。
7 9番目の詩編の音調がある。それは Tonus peregrinus--「奇妙な」音調--と呼ばれる二つの暗誦の音を持っている。 |
聖務日課の交唱聖歌(アンティフォン)は、ミサのとは異なり、普通、スコラではなく、一般の聖歌隊の修道士たちのために意図されたように、単純な性格のものである。しかし、それらは大祝祭日においては、より手の込んだものになる傾向がある。新約聖書の賛美歌(canticles)においては、歌い出し(intonation)はずっと通して繰り返される。
応唱の聖歌(Responsorial Psalmody)
グラドゥアーレ(Gradual)8: 今日歌われる応唱のグラドゥアーレ(Graduale Responsory)は、その特徴を失ってしまっている。カントール(先詠者)たちが詩を歌ってしまうと、その歌い出しの部分が繰り返されなければならない。これは、確かに、グラドゥアーレを引き延ばすことになるだろう。しかし、省略すれば、テキストを無意味なものにするかも知れない。例えば、洗礼者ヨハネの祝祭日の、詩が「(主は)私の口に触れ、そして私に言った。」で終わるが--「主が言ったこと」(グラドゥアーレの最初に歌われた言葉)は繰り返されないときのように。それ故、グラドゥアーレは、ABAではなく、ABの形式のままであり、聖典礼省(?)(Sacred Congregation of Rites)による何らかの禁止のためではなく、単に都合がよいという理由で切って短くされる。
8 白衣の主日(Low Sunday)からキリスト昇天(Ascension)後の日曜日まで、グラドゥアーレは省略され、別のアレルヤ唱が歌われる。 |
譜例 10.
キリエ・サンクトゥス・アニュスデイ: 9重に重なるキリエ・エレイソンが、ミサの通常文の作曲では、様々な扱いを招き受ける。最も単純な形式は、A(初めの三つのキリエ)B(クリストゥス)A1(2番目のキリエ)である。どの場合も、作曲家の芸術的な直観が、最後のキリエの旋律にいくらか多様性をもたらしている。
譜例 11.
形式がABCになるように(例えば、キリアーレ(Kyriale)のミサII)、あるいは、その定型が最初と最後のキリエと クリストゥスに適用されるよう、あるいはまた、私たちが、この定型がABA1、CDC1、DED1(譜例 2.)であるいことが分かるように、最後の3つのキリエには様々なストレイン(曲)があるのかも知れない。
ミサの最後の「退去(dismissal)」の文(Ite missa est あるいは Benedicamus Domino)は、普通、ミサの最初のキリエで用いられた旋律に作曲されている。
サンクトゥスでは、ホザンナ・イン・エクセルシスは、普通、ベネディクトゥスの後に繰り返された時と同じ旋律句である。アニュス・デイは、その3つの繰り返しのそれぞれと同じ旋律、あるいは、上で述べたキリエの形式に従っている。
賛美歌(Hymns)とセクエンティア
聖務日課の賛美歌は、もちろん、ストロフィックな形を持っているが、その韻律は様々である。その大部分は、短長格(iambic)の二歩格(dimeters)である。聖アンブロシウスは、シリアの習慣に従って、彼の人々のために書いた賛美歌にこの韻律を使った。当時、彼らは女帝ユスティナによって導かれたアーリア人に対して、ミラノの教会を守っていた。歌うべきこうしたものや詩編があるのだから、「単調で退屈な悲しみの中で沈み暮らさないように。」包囲戦が終わっても、賛美歌を歌う習慣は保持され、「世界の他の地域全体で、汝(神)の会衆のほとんどすべての人々によって」真似された。
先にその報告が引用された聖アウグスティヌスは、短長格の韻脚を「3拍の短長」と定義したが、ローマ聖務日課書(Roman Breviary)の確実に聖アンブロシウスによるものとされる賛美歌、Aeterne rerum conditor(日曜日、賛課)、Splendor paternae gloriae(月曜日、賛課)、Aeterna Christi munera(多くの殉教者たちの共通典礼文(Common of many Martyrs))は、今日の交唱聖歌集(Antiphonary)では、同じ音価の音になっている。もし、かりに、Aeterna Christi munera の旋律が、テキストの韻律に応じて歌われるとするなら、現代の記譜法では、下のように書かれるだろう。
譜例 12.
アクセント(強勢)は、アンブロシウスの時代に、すでに長短にとって代わられていて、それ以後の賛美歌の作曲家たちは、自由に韻律を無視でき、実際にそうしている。聖アンブロシウスの賛美歌のオリジナルの旋律は、イタリアの民衆の歌を適用したものだと、ずっと言われている。そのことは、それらが極めて広く広まっていたことを説明しているのかも知れない。彼は、事実、それらで人々を「魔法にかけた」と言われている。
「ローマ人に広まっていた詩は、初めからアクセント(強勢)に基づいていたように思える。・・・アクセントに基づいた広く広まっていた韻による典礼詩の起源(原典)を探し求めなければならない。たとえ、これらの聖務日課の賛美歌の作曲のモデルが、全般に、古典の韻律のものであったとしても」とずっと言われている。
洗礼者ヨハネの祝祭日のための、8世紀の賛美歌 Ut queant laxis は、現代のソルミゼーション(階名唱法(全音ソルファ))体系をグイード・ダレッツォ(Guido d'Arezzo)(995年頃)に思い浮かばせた。旋律の各半行が次の上の音で始まるようになっていて、最初の詩行では、これらの旋律の上昇は、最後のものを除いてソルファの階名(音階)と一致している。
Ut queant laxis Mira gestorum Solve polluti Sancte Johannes. | Resonare fibris Famuli tuorum Labii reatum |