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日本固有の伝統
新石器時代、日本には、主としてアイヌと呼ばれる非モンゴロイド系民族が住んでいた。(恐らく、BC2000年頃から)彼らの子孫は、今日でも北海道に生き延びている。後に(BC1000年)北アジアのモンゴロイドから早い時期に別れた民族、現代の日本人の真の祖先が住み着くようになった。古代日本の社会は、部族的なもので、宗教は精霊崇拝であった。その儀礼の遵守は、後の「神道(神々の道)」として知られる宗教に多く寄与している。
神道の歌、厳粛な社殿で旋律は狭い音域で合唱して歌われるが、最初は明らかに自由な朗誦であった。後の時代には、より形式的になったけれども。それは、一音一音離れた音の間に、ゆったりとしたトリルのあることが特徴的である。それは、今日でも日本の朗誦に見られる一つの特徴である。古代から、神道の歌は、竹の笛、和笛(yamato-bue)と柔らかな音色の六弦のツィター、和琴(yamato-goto)によって伴奏されてきた。--その楽器は、他の笛やツィター(中国起源の造りの異なったもの)と区別して、日本人は固有のものとみなしている。この笛の起源は、女神アマテラスまでさかのぼる。アマテラスは、一人の男の神によって六つの長弓で作られたツィターの音に魅せられて、洞窟から再び姿を現し、世界に光を回復し、踊りと音楽を人間にもたらした。この神話は、神楽(kagura)と呼ばれる神道の社殿で、歌と踊りで演じられる舞台の基礎になっている。遅くとも、一条天皇の時代(AD.987)から、その二つの楽器と篳篥(ひちりき)(sad-toned tube=悲しい音色の笛)と呼ばれる小型のオーボエの伴奏で演じられている。現代の社殿での祝福の踊りのような形態の神楽は、チベット起源(大鞨鼓(かっこ)、糸巻き枠で引き締めた太鼓)や中国起源(大太鼓、円筒形の太鼓)の大きな太鼓が加えられた。神道の儀礼は、日本音楽の最も初期の伝統を保存しており、そのスタイルは常にずっと独自であり続けようとする傾向がある。
固有の伝統は、また、催馬楽として広く知られている歌の中に探し求めることができる。それは、歴史時代に王朝の宮殿で演じられたけれども、初期の日本の民衆音楽に起源がある。
日本の三つの五音音階の一つで、恐らく最も用いられることの少なかったものが、特に、民衆音楽の中に見いだされるし、また、古代にまでさかのぼることができる。この音階は、二つの分離型[テトラコード]の4度のそれぞれを、全音と短3度に分ける。すなわち、ドレファーソラドである。それは、中国の音階と容易に取り違えられる。しかし、そうした音階は、初期の中国が(これからまさに述べようとしている)日本に及ぼした影響を及ぼさなくなったとき以後になるまで優勢ではなかった。
日本の石器時代は、紀元1世紀の後半から、中国が(初めは朝鮮を通して)金属が伝わることで終える。日本人は、初期は、他の文明の有益な特徴を採り入れる受容力を示し、これが、日本の音楽史を形成するのに役立っている。
紀元291年、中国の音楽家と楽器が、神功皇后の朝鮮征伐に続いて、日本に伝来した。6世紀初期は、朝鮮の音楽そのものから何らかの影響を受け、6世紀中頃、日本は朝鮮の宮廷を通して、中国の儀礼音楽を採り入れ始めた。これは、仏教の教えと共に始まった。仏教は、数世紀前にインドから中国に伝来し、日本の仏教は、その初期の時代から歌を持っていた。仏教の朗詠には、単一の音節を手の込んだ音のまとまりで歌うことが含まれている。6世紀の終わりから、時折、12世紀まで、若い日本の音楽家たちは、中国や朝鮮にその国の音楽を求めて渡り、8世紀の初めには、雅楽寮が、彼らのもたらした音楽の研究をするために文武天皇の宮廷に附属させられた。728年に、満州(渤海)の影響を受けた証拠がある。また、736年には、インドの舞踊が中国から日本に伝えられた。インドでは消滅した古代の形式が、今日でも演じられている。それは、インドの王、シラディティヤ(Siladitya)の舞踊を含んでいる。--これは、今日でもまだ残っている世界で最も初期の音楽劇の例の一つである。752年、数百人のこれら外国人の音楽家たちが、奈良の東大寺の巨大な仏陀(仏像)の開眼式で演奏した。そして、この式典で実際に用いられた多くの楽器が、まだ、奈良の正倉院の宝物殿に保存されている。仏教は強い組織力があり、日本の合奏団が仏教との関連で最初に発展したことはほとんど疑いがないように思える。
9世紀までに、日本の外国の音楽と舞踊は、非常に多様化し、--インド音楽、中国音楽、朝鮮と満州(渤海)--日本の音楽家たちは、それを分類し、自らの必要のために応用し始めた。インドと中国起源の資料を左方の楽と呼び、朝鮮と満州起源の資料は右方の楽と呼んだ。右と左というのは、踊り手が舞台に入ってくる方向に関して右、左である。両方の音楽とも、三つの打楽器を採用した。そのうち二つは共通している。すなわち、大きな太鼓(taiko)と銅鑼(鉦鼓=shoko)であり、一方、もう一つは、左方の楽では鞨鼓(かっこ)という太鼓(中国起源)であり、右方の楽では、三ノ鼓(san-no-tsuzumi)(朝鮮型の同じ楽器)という太鼓であった。同様に、両方の音楽は、二つの弦楽器、リュート(琵琶;中国の p'i-p'a参照)とツィター(箏の琴=so-no-koto)を用いた。(右方は普通弦楽器はないと思いますが=訳注)その役割は、旋律を飾ることであった。旋律そのものは、第三のグループ、送風楽器(管楽器)で演奏された。これらは、その二つの分類の音楽では、大きく異なっていた。右方の楽では、二つ、小さな笛(高麗笛(狛笛)、満州(高句麗)起源)と小さな型のオーボエ(篳篥)しかなかった。これらは、幾分中世ヨーロッパのオルガヌムの様式でのように、異なった旋律を同時に演奏した。一方、左方の楽には、三つの管楽器があった。そのうちの二つは、中位の大きさのクロス・フルート(横笛(oteki)(竜笛)、中国起源)とオーボエ(篳篥)で、ユニゾンで演奏された。一方で、リード・マウス・オルガン(笙、中国の sheng参照)が六音の和音でハーモニーを付け加えた。複数のドローン(持続低音)のように用いられ、これらは、柔らかな雰囲気や豊かな和声を創りだし、その中を旋律が動き適度な強調をもたらしている。
貴族たちは、外国起源の仏教音楽を非常に好んだ。そして、宮廷貴族の時代、仏教音楽が、宮廷音楽そのものになった。儀式のためであれ、王朝での宴の楽しみのためであれ、その他の折りのためであれ。この貴族的で優雅な芸術は、雅楽(gagaku)(優雅な音楽)として知られていた。それは、いくつか異なるジャンルの音楽を含むようになっていた。舞楽(bugaku)は、厳格な性格の古典の宮廷舞踊であり、奏楽(Sogaku)は、一種の合奏音楽の形式であり、舞踊もあるものもあればないものもある。舞楽は、日本に今でも残っており、今日でも、時折、公に演奏されている。
初期の世紀からずっとそうであったように、音楽が外国の環境に移植されると、それは静止し、そのオリジナルの性格を広く保とうとする傾向がある。そして、日本が、まだ、東洋の最も古い音楽の伝統を、インドや中国、朝鮮ですでに廃れてからも長く保っていることは疑いない。しかし、音楽が、その自らの環境の中にとどまるとき、それは、普通展開し続ける。それで、この時期、日本で非常に盛んになった外国音楽は、古代日本の固有の音楽の形成に新しい刺激を与えた。神道の社殿の音楽は、すでに述べた歌舞、神楽で新しい生命を得た。そして、猿楽は、11世紀前半から、一種のパロディとして、それと関連している。
しかし、やがて、貴族のフォーマルな音楽は衰退し始め、新しい形式が好まれた。次の6世紀の間、武家政権や仏僧が文化の担い手になるという状況の下、日本の人々の音楽は発展し、それが今日まで残る特徴ある形式の多くを発展させた。