能楽
13世紀から14世紀までの武士の時代は、新しい文化環境をもたらし、14世紀中頃に、猿楽の能という劇が上演されるようになった。その名は、すでに述べた猿楽に起源があることを思い起こさせる。能(文字通りの意味は、才能、すなわち才能の表出である)あるいは能楽は、初めから神道の社殿や河原の野外劇場で、様々に演じられた厳粛な音楽劇の形態であった。能楽は、その底には、仏教的なものが横たわっているが、日常生活のいろいろな場面を利用している。実際、それは聖と俗との媒介するものであり、上演に於いて、抑制され理想化されて、役者の何人かは面をかぶる。最も有名なテキストの中に、15世紀の作家、世阿弥のもの(例えば、敦盛)、この芸術が絶頂期を迎えた時代頃に書かれたものがある。現存する能のテキストは、17世紀以前からおよそ300あり、およそ250の演目が今日でも演じられている。
能楽の音楽は、謡曲あるいは謡い(Utai)と呼ばれる。それには、謡曲を謡う役者のソロの歌と、ユニゾンの合唱曲と、クロス・フルート(横笛(yokobue))と三つの太鼓で演奏される器楽の伴奏がある。劇の歌特有の様式は、レシタティヴォとアリアが交互になされることである。リズムの基盤は、様々な太鼓によってなされる。肩に掛け手で打つ小さな太鼓(小鼓)、手で打つ大きな小太鼓(大鼓(otsuzumi))そして棒で打つ大きな太鼓(taiko)、劇を通じて8拍あるいは16の半拍の韻律が守られ、含まれていて、これらの拍子(hyoshi)に、すべての言葉を合わせなければならない。韻の構成は、7音節と5音節(日本の詩歌の標準的な韻律)に不揃いに分けられた12音節の連句になる傾向があるので、声はしばしば切分したりいろいろに変化したりして、基盤となるリズムを横切って動く。声は、笛によってユニゾンで伴奏される。アリアの終わりでは、伝統的なエンディングをするため、その最後の音から滑り落ちる(スライドダウンする)。
レシタティヴォは、一定のピッチの音を好む。アリアは、ある意味でインドのラーガと比較しうる標準的な旋律パターンに基づいている。音階は、長三度の形の五音音階であり、--後に述べる日本音階の重要な音階の一つ--伝統的な声の様式は、古代仏教起源の特徴を含み、スライドやヴィブラートその他の装飾技法を通して、音階の主な音程をより小さな音程で変化させている。
17世紀頃、能楽は、本質的に貴族の芸術となった。その世紀初め、阿国、出雲の神社の女の踊り子が、仏教の笛と太鼓の伴奏の舞踊を広め、人気を博した。この新しい民衆の形態は、歌舞伎と呼ばれ、阿国の死(1610年)の頃、女の歌舞伎の劇が形成された。笛と太鼓にギター(三味線)が加えられた。これが、音楽を全く異なったものにした。そして、そこから、後に、能楽の「合奏」に三つの三味線が加えられるようになった。
その歌舞伎の劇は、初め、中断された。女性による上演は、1629年に、女歌舞伎は不道徳であるという理由で禁止されたように、それ自体を、芸術的魅力にだけにとどめておくことができなかった。1630年頃、若い男たちの歌舞伎によって受け継がれた。1652年には、同じような運命に遭遇する。しかし、歌舞伎は、様々な形で引き継がれた。1680年頃、劇作家が、歌舞伎のために特別に劇を書き始めた。そして、17世紀の世紀の変わり目頃には、その民衆劇は頂点に達した。
16世紀の間に、新しい型の音楽が盛んになった。これらの音楽は、過去に深い根を持っていた。1254年に、日本の仏僧が、竹の縦笛(尺八)とその音楽を中国からもたらした。この楽器の助けを借りて、その後継者たちは、旅をし街角で仏教の教えを広めていった。戦に敗れたり、内乱で身の危険を感じた武士たちが、それが保障した庇護を求めて、この流浪の僧たちに加わるようになり、その楽器は、16世紀終わりから、広く用いられるようになった。それには五つの穴が開いており、音階は、後に述べる日本の「硬い」音階(陰旋法)の上昇形と同一である。唇の角度に大きく依存する特殊な吹く技術は、ピッチの微妙な陰影や滑るような音も生み出せる。
しかし、この時期の日本音楽の主要な流れは、全く異なった方向にあった。平和な時代が長く続くにつれて、武士階級は衰退し、成長するブルジョワ(商人)階級の影響で、純粋な世俗の芸術を好むようになり、声楽と器楽の音楽は流行となった。
日本は、すでに、16世紀以前から長くずっとソロの歌を好んできた。それは、宮廷貴族(Court Nobles)の時代の中国の詩に付けられた歌にまでさかのぼることができる。また、武家の時代に特に盛えたリュート(琵琶)の音に合わせて歌われる。長いロマンスや軍記物、仏教の朗詠も行われていた。しかし、1560年頃以降、新しい楽器が日本に伝えられた。長いネックの三弦のギター(三味線)が、琉球諸島から伝えられた。琉球は、それより200年ほど前、中国から受け入れていた。日本では、そのギターを大きなスペクトラム(ばち)を用いて、4度や5度に様々に調弦された弦を弾くだけでなく、皮で覆われた「箱」を打って、衝撃音を出したりした。文学や民衆の音楽によってインスピレーションが与えられた音楽家たちは、やがて声の伴奏にも、そのギターを用い、この役割においては、リュート(琵琶)は、急激に影が薄くなった。恐らく、それは、今日、最も人気のある楽器で、特に街角の音楽家たちの中に見いだされ、芸者のバラードや踊りの伴奏をしている。
この時代、重要になった第三の楽器は、琴であった。およそ6.5フィートの長さで13弦あり、象牙のプレクトラムを親指と人差し指、中指に付けて演奏したツィターである。楽器は床に置かれ、演奏者は、その前に正座する。この楽器は、日本固有の和琴とは全く異なって、ずっと以前に中国から輸入されたもので、宮廷の舞踊を連想させる箏の琴として知られる形をしていた。何らかの改良が形になされたあと、琴は、八橋(Yatsushashi)(1614-85)という名の盲目の天才音楽家によって、突如、人々に愛好されるようになった。彼の曲「六段の調べ」は、今日現存する。それは、初め琴を学んでいた女性たちによって、多く演奏された。おおよそ、イギリスの乙女たちが、ヴァージナルを練習していた時代である。
琴は、急速に日本固有の楽器となった。それは、ソロで、あるいは声の伴奏として演奏される。ソロの曲は、変奏曲の形(段もの)をとる。それぞれの変奏曲(段)は、52の小節(拍子)がある。最初のものは54で、最後のものは50だけれども。ソロの音楽より一般的なもの(最近まで)は、琴と声(組)のための作曲である。琴は、本当は、これらの基盤となっている。それは、すべてのスタンヅァを通して、その中を貫き、形式はそれに基づき、声のパートは、琴が伴奏をするというより、むしろ琴の伴奏をしている。琴と声とは、何らかの相互作用は起こるけれども、本質的にはユニゾンである。例えば、琴は、声が音を保持している間、リズムを刻み続ける。音階のほとんどどの音程でも、二音のコード(合わせる)が、私たちの知っているような和声のためではなく、むしろ響きを増大させるために、時折、強調して加えられる。
琴の調弦は、おおよそ2オクターヴを超えて広がる五音音階に基づいている。その基本的な形は、普通の調弦である、平調子に調弦されるとき、第五弦(主音)から第十弦(その1オクターヴ)の琴の弦の中に見られれる。これは、二つの「分離型」テトラコード(4度の音程)で作られる「柔らかな」音階(陽旋法)である。その各々は、下降の時に長三度と半音--エンハーモニックとしてギリシア人に知られていた分割の原理--とに分割される。その音は、(下降で):ド、ラflat、(上昇音階ではシflat)、ソ--ファ、レflat、ドである。これは日本の主要な音階であり、全音と短三度との中国の五音音階とは異なっている。
「硬い」音階(陰旋法)では、(日本の国歌に見られるように)、テトラコードは、異なった分割がなされる。上昇音階では、ド、ミflat、ファ--ソ、シflat、ド;下降音階では、ド、ラ、ソ--ファ、レ、ドである。琴の弦を通すブリッジ(こま)は、動かすことができ、こうすることで調子を容易に変える効果が出せる。半音の五音音階(「柔らかい」音階:陽旋法)に調弦された琴では、「そこにない」音を、弦への圧力の程度を変えることで生じさせることができる。演奏のスタイルは、厳格であるが、半音以下のピッチの陰影を含めて、三つの型の旋律の装飾を含んでいる。このように、テトラコードを分割しているこの二つの音は、「軟らかい」音階(陽旋法)と「硬い」音階(陰旋法)の上昇と下降に応じて位置を変えることとは別に、音楽の表現の必要に応じて、柔軟に移動できる性格を持っている。これは、日本音楽に特徴的なことであって、聞き手は、その五音音階を七音音階と取り違えることもある。それとは別に、真の七音音階も、日本の音楽には存在する。短調の律(ミflatとシflatがつく)と長調の呂(ファsharpがつく)である。--モンゴル地方に、初期の類似性をもつ古代の音階である。
1868年、今や極めて堕落した武士による支配は廃止された。封建制度は、終わりを告げた。この間に起こった変化は、それまで存在していた音楽の伝統に深く影響を及ぼした。能はそれほど排他的ではなくなり、歌舞伎はそれほど伝統的なものではなくなった。流浪の仏僧(虚無僧)たちは、保護された階級ではなくなり、その竹の笛(尺八)は、より広く用いられるようになった。今や、三味線と琴との三重奏がなされるようになった。仏教の儀式の音楽(声明)と民謡(追分け)は続いていた。民謡は、その世紀の終わり、再び古典的な歌い方に影響を及ぼしたけれども。
同時に、明治維新は、計画的に日本を開き、近代世界の影響にさらし、音楽的に言えば、その結果は遠く広くに及んだ。日本陸軍は、イギリス陸軍を模範にして楽隊を編成した。西洋の声楽と合唱が学校で教えられた。ピアノとオルガンが採用された。政府の音楽アカデミー(学院)が西洋音楽を教えるために東京に設立された。後に、西洋美学と音楽史とがカリキュラムに加えられた。初め、教師の中に多くのアメリカ人がいた。ヨーロッパの人々がそれに続いた。日本の音楽家たちは、西洋で学んだ。東京などの大都市には、西洋のシンフォニー・オーケストラ(交響楽団)が作られ、すべてではないにしても、西洋の型のほとんどの楽器が日本国内で製造されている。
多くの日本の作曲家が西洋のスタイルを採用し、何人かは、真に有望な作品を書き、ヨーロッパの音楽祭への道を見いだしている。当然、七音音階が重要性を増し、否応なしに平均律が採用され、また、西洋の音楽家たちの間で使用されている十二音の体系が研究され、ほとんど予想もつかなかったような仕方で、想像力豊かにずっと扱われている。小船幸次郎(1907年生まれ)、松平頼則(Yoritsune)(1907年生まれ)、諸井誠(1930年生まれ)その他の作曲家たちは、全身全霊をこめて西洋の素材と方法とを採り入れる一方で、自らの文化の本質的な部分には真であろうとし、形式の使用においてはある程度、精神においてはなんとか純粋な日本人であることに成功している。日本の音楽文化は、実際、その自らの歴史を繰り返している。少なくとも、7世紀と9世紀の間に場所を占めた音楽と同じぐらい著しい雑交受精を行っているように思える。
しかし、すべての日本の音楽家が西洋を見ているわけではない。伝統音楽を教える二つの重要な学校がある。そして、その二つの極の間で--完全な西洋の音楽と純粋な日本の音楽--更に他の可能性が実現しつつある。伝統的な音楽家たちは、新しい表現のメディアを進化させようとし、完全に日本の楽器だけで構成されているが、西洋の様式によってインスピレーションを受けた合奏で実験を試みている。これも、また、1000年前に、外国の刺激を受けて日本固有の形態を復活し、甦えらせたことと平行している。
日本では、そうした文化の融合が、故意にしかも芸術的に意味のあるレベルで起こっているように思える、極東(東アジア)で唯一の国である。その十分な結果は、もう現れなければならない。