レオナルド・ダ・ヴィンチ
16世紀のイタリア人数学者のリストは、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)(1)に何らかの言及をしないことには完成しないだろう。そして、その名が年代順に相応しく並べられると、このように記録の最初に来るこの天賦の才溢れる人の著しい業績は、そのようなものであった。彼は、フィレンツェ近くのヴィンチで生まれ、フィレンツェ、ミラノ、ローマに住み、1516年に王の招聘でフランスへ赴き、1519年にアンボワス(Amboise)近くで没した。画家、彫刻家、金細工師、血液循環の研究者、全般的な科学者、建築家、機械学、光学、遠近法(透視図法)の著述家として著名で、この数学の分野での才能を、これら他の分野で発揮した類い希な才能によって覆い隠さなかったとしたなら、彼は価値ある数学者の仲間入りを果たしただろう。応用数学では、彼は現代の光学理論の創始者の一人と見なされている。幾何学では、単一の曲率と二つの曲率?(curves of single and double curvature)を区別した星形多角形のテーマに多大な注意を払い、コンパスの開きを変えずに作図することに関心をもち、正多角形の様々な正確なまた近似の作図を示している。物理学では、傾斜した平面の理論を知っており、角すいの重心を発見し、毛管現象と回析の分野でも仕事をし、レンズのない暗箱のカメラを知っていた。また、空気の抵抗と摩擦の効果についても研究した。世界は稀にそうした万能の天才を生み出す。
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方程式の分野での初期の著述家
3次と4次の方程式の解法は、16世紀イタリア数学の主な業績であったので、この仕事で極めて優れた学者たちをひとまとめに扱うのが相応しいだろう。彼らの主な貢献の詳細は第2巻に書くが、今ここでは彼らの業績を簡単に見ておこう。 ボローニャ生まれのシピオーネ・デル・フェッロ(Scipione del Ferro)(2)、カルダーノは彼のことをラテン語名スキピオ・フェッレウス(Scipio Ferreus)と呼んでいるが、彼は生まれた都市(ボローニャ)の数学の教授であった。幾何学では、彼はコンパスの一つの開きで作図するのに興味があった。代数では、xxx + ax = b という特別な場合の3次方程式の解法を発見した。 1506年、彼は、この方法を弟子のベネチア人、アントニオ・マリア・フィオル(Antonio Maria Fior)(3)に示した。彼は、当時流行し人気のあった数学の競技会でその情報を利用しようと研究を進めた。フィオルの生涯についてはほとんど知られていないが、タルタリア(4)によって 1536年には生きていたことが語られている。 ツアンネ・デ・トニーニ・ダ・コイ(Zuanne de Tonini da Coi)(1530年頃)(5)は、ブレシア(Brescia)で教師をしており、問題解決という観点で数学に興味を持っていた。(6)1530年、彼はタルタリアへの一種の挑戦として次の二つの方程式を送っている。
xxx + 3x = 5
と xxx + 6xx + 8x = 1000
しばらくの間、タルタリアはそれを解くことができなかったが、私たちが第2巻で見るように、彼は遂にそれを解くのに成功した。これは3次方程式の一般式を解く重要な第一歩である。
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カルダーノ
3次方程式の解法で重要な二人の先駆者の最初の一人は、ジロラモ・カルダーノ(Girolamo Cardano)(7)であった。彼は、法律家ファチョ・カルダーノ(Facio Cardano)(1444-1524)の庶子であった。彼はミラノの法律学と医学の教授であり、ペッカム(Peckham)のペルスペクティヴァ・コムニス(Perspectiva communis)を校訂編集している。ジロラモは、それと著しく対照的な人物であった。彼は占星術師であったが、哲学の熱心な学徒でもあり、ギャンブラーであったが、一流の代数学者でもあり、正確の観察の習性のある自然科学者であると同時に、彼の言説は極端に信頼できない人で、内科医師であるが殺人者の父であり擁護者でもある。ある時はボローニャ大学の教授であり、ある時は救貧院の収容者であり、盲目の迷信の犠牲者でもあるが、ミラノの医科大学の学長でもあった。キリストのホロスコープを敢えて出版した異端者であるが、教皇から年金を受け取っていた人でもあるというように、常に極端の、常に天才の、常に主義に欠ける人であった。ある苦い敵対者は、ボルテールについて「こ奴は、他のすべての悪徳よりも悪い悪徳を持っている。時折、美徳を持つことがあるということだ。」と語っているように。そのことはカルダーノにも当てはまった。 彼の「アルス・マグナ(Ars Magna)」(8)は、代数だけを扱った最初のラテン語の論文であり、1545年、ニュールンベルクで出版され、当時知られている限りの代数の方程式の理論が書かれている。3次方程式の解法も含まれ、それは、彼が秘密の保持の保証の下、タルタリアから得、その後恥ずべきことに出版したように思われる。また、彼の弟子、フェッラリによって発見された4次方程式の解法も含んでいる。彼は、また、算術(9)、天文学(10)、物理学(11)など様々な知の分野(12)についても著述し、彼が著しく多才で博学であることを証明している。
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タルタリア
16世紀イタリア最大の数学者の一人、ニコロ・タルタリア(13)は、ブレシアで生まれた。タルタリアとして知られているが、私たちは、彼の遺言(14)から彼の兄弟の名がフォンタナであったことを知っている。彼は、ガストン・ド・フォワ(Gaston de Foix)(1512)によるブレシアの占領に子供ながら参加していて、その時に顔をサーベルで斬りつけられ、それが原因で話すことが不自由になったと言われている。こうしたことから、彼はタルタリア(「どもる人」)というあだ名が付けられ、その名が公に彼の出版した著作の中で用いられた。彼は独学の人であったが、数学おいて非常な能力を得、ヴェローナやヴィチェンツァ、ブレシアやヴェネチアで学問を教えることで生計をたてていた。(1535年) タルタリアは、三次方程式の解法を実質的に完成していたように思え、すでに述べたように、カルダーノにその秘密を告げたが、カルダーノがその誓いを破り、1545年にそれを出版したように思える。(15) タルタリアは、数学を砲術に応用した最初の人であった。(16)そのテーマは、偉大な師ガリオ・ド・ジェヌイラック(Galiot de Genouillac)とジャン・デストレ(Jean d'Estrée)によって、完成されたばかりであった。彼は、また、その世紀イタリアに現れた算術についての最良の論文も書いている。(17)それは、極めて十分に数の操作(演算)とイタリアの算術に商業規則について議論している。人々の生活、商人たちの習慣、そして16世紀の算術を改善しようという努力が、すべてこの注目すべき著作には書かれている。タルタリアは、また、エウクレイデス(ユークリッド)とアルキメデスの版も出版した。(1543年) カルダーノによる秘密の誓いの後、タルタリアの3次方程式の解法の出版の問題については、カルダーノの伝記作家ではあるが、16世紀の影響を感じることのできなかった人は、こう述べている。
一つの情報を秘密に所有するという排他的な権利を主張しようとすること、それは自由な学問(科学)の前進の次なるステップであったが、共通の蓄積に彼がそれを秘蔵するまでそれを彼自身の名で記して加えることへの拒否、彼自身有利な方向へと大きく向かうといういくらかの希望を抱いている余裕があった。それを彼においては、彼が粗雑な育ちで、独学であり、彼はよりよく知ろうとしないようだという事実によってだけ弁解される。知識に貪欲な自由な知的職業の人は、だれも友愛と尊敬を失う。カルダーノが守る権利の全くない秘密の約束を、タルタリアが要求する権利は全くなかった。(18)
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しかし、すでに述べたように、1545年の状況を想像することは困難であり、私たち自身の時代とはそれほどまで異なる状況において、現代の倫理を適用することは、ほとんど正当とは言えないであろう。
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フェッラーリ
ロドヴィコ・フェッラーリ(Lodovico Ferrari)(19)は、卑しい境遇に生まれたが、15才の時に、ミラノのカルダーノの家に引き取られた。カルダーノは、すぐに彼の著しい才能を認め、彼を自分の助手にした。彼の手に負えない気質と不敬な(神を冒涜する)習性にもかかわらず、後に彼はカルダーノによって弟子としてまた友として受け入れられた。数学的イタリアは、カルダーノの一族の中に彼の代わりとなる人物を多く与えていただろう。しかし、そうしたことは争いでしかなく、再び外へ出されることの方が多かっただろう。18才の時に、フェッラーリでさえ、パトロンとのあらゆる関係を絶つことを望み、一人でミラノで教え始めた。彼は、そこでまた当時の数学の競技会で非常な成功を収め、マントゥヴァの宮廷や枢機卿の注目をひくことになった。後者の恩顧を得て、彼は地位を確かなものとし、多くの収入を得た。それから、彼はボローニャで数学の教授になった。しかし、そこでの勤務の一年目に、33才で恐らく唯一人の姉妹によって毒殺されて死ぬ。 ツァンヌ・デ・トニーニ・ダーコイ(Zuanne de Tonini da Coi)は、方程式
x^4 + 6x^2 + 36 = 6x
と関わる問題を提出した。 この問題をカルダーノは解こうとしたができず、フェッラーリに与えた。フェッラーリは、その方法をうまく見つけ出すことができ、こうして4次方程式の解法が発見された。フェッラーリは、数学に関する著作を何も書き残さなかったが、カルダーノは、「アルス・マグナ(Ars Magna)」(1545)の中にこの方程式の理論への著しい貢献を載せて出版した。
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ボンベッリ
ラファエル・ボンベッリ(Rafael Bombelli)(1520年頃生まれ)は、ボローニャの生まれで、3次及び4次方程式の解法に何らかの著しい仕方で寄与した、16世紀イタリアの数学者たちの最後の人物であった。彼は「3書からなる算術の大いなる代数の書(L'Algebra parte maggiore dell' arimetica divisa in tre libri)」を書き、1572年にボローニャでその著作を出版した。(20)この著作の中で、ボンベッリは、想像的な表現ではあるが、三乗根がタルタリアとカルダーノの公式によって確かなものとされた結果の中に、ある場合には3次方程式に三つの根があることを示している。その書は、その当時までイタリアに知られていた中で最もわかりやすく体系的な代数を含んでいる。 ボンベッリの生涯については、ほとんど何も知られていない。彼は代数への序文から、彼の書を捧げたパトロン、メルフィ(Melfi)の司教、アレッサンドロ・ルフィーニ(Alessandro Rufini)に仕える教師であったと考えられている。
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原注1
P.Duhem, "Etudes sur L&éonard de Vinci," 2 vols., Paris, 1906-1913. 概説については、D.Merejkowski, "The Romance of Leonardo da Vinci," New York [1902] を見よ。
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原注2
1465年頃生まれ。ボローニャで 1526年10月29日と 11月16日の間に没す。L.Frati, "Bollett. di bibliogr. d. sci. matem., XII, 1. 名は Ferri あるいは Ferreo としても現れる。
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原注3
これはタルタリア(1546)の証言に基づいている。カルダーノ(1545)は、彼の著作の時より30年ほど早かったと言っている。ということは、1514年あるいは 1515年ということになるだろう。名前は様々な綴りで現れる。特に、Antonius Maria Floridus というラテン語形や Antoniomaria Fior という形。
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原注4
tar tä-lya と発音された。p.297 を見よ。
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原注5
Zuane, Giovanni, Giovanno, John, とも。最後の名は、時々Colle, あるいはラテン語形の Colla となっていることもある。
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原注6
1540年に書かれた手紙の中で、タルタリアは、戻ってきた「あの悪魔」について語っている。「彼はここに帰って来た。ツアンネ・コッレというあの悪魔が(Eglie ritornato qui quel diauolo de Messer Zuanne Colle.)」
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原注7
1501年パヴィアに生まれる。1576年9月21日ローマで没す。名前は、Hieronymus Cardanus や Jerome Cardan として現れる。普通、英語の著述家からは Cardan と呼ばれる。H.Morley, "The life of Girolamo Cardano," 2 vols., London, 1854 (以後は、Morley, "Cardan"として言及) Cantor, "Geschichte," II, chaps. 64, 65, 66; V.Mantovani, "Vita di Girolamo Cardano," Milan, 1821; Gherardi, "Facolta Mat. di Bologna, 47 seq.
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原注8
Artis Magnae, sive de regvlis algebraicis, liber vnvs, Nürnberg,
1545; Basel, 1570.
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原注9
Practica arithmetice, Milan, 1539.
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原注10
De revolutione annorum, mensium et dierum ... liber, Nürnberg,1547; De temporum et motuum erraticarum restitutione, Nürnberg,1547; Aphorismorum astronomicorum segmenta septem, Nürnberg,1547;
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原注11
De subtilitate, Nürnberg,1550; パリでのリプリント版、1551年。
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原注12
彼の全集(Opera)は、1663年、リヨンで 10巻で出ている。
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原注13
1506年頃生まれ、1557年12月13/14日ヴェネチアで没す。名前は、Tartalea とも綴られる。それは、1556年の彼の著作のタイトルページでそう綴られている。
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原注14
Boncompagni によって 1881年に出版された。
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原注15
フェッロ(Ferro)に負っている可能性については、G.Eneström, in Bibl. Math., VII(3), 38.を見よ。
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原注16
Nuova scienza, cioè Invenzione nuovamente trovata, utile per ciascuno speculativo matematico bombardiero ... , Venice, 1537; Qvesiti ed invenzioni diverse, Venice, 1546.
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原注17
General Trattato di nvmeri et misvre, 2 parts (volumes), Venice, 1556-1560; Tutte l'opere d'arithmetica del famosissimo Nicolò Tartaglia, Venice, 1592, being substantially Volume I of the General Trattato.
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原注18
Morley, Cardan, 1, 270; Rixner and Siber, "Leben und Lehrmeinungen berühmter Physiker am Ende des XVI, und am Anfange des XVII. Jahrhunderts, Sulbach, 1820; Firmiani, Girolamo Cardano, Naples, 1904. D.Martines, "Origine aritmet., p.61 n.の中にタルタリアの完結で優れた伝記がある。また、A.Favaro, "Per la biografia de Niccolò Tartaglia," Archivio storico Italiano, 1913, and "Niccolò Tartaglia," in Isis, I, 329. も見よ。
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原注19
1522年、ボローニャに生まれる。1560年頃没す。彼の死の年代は、また 1562年とも 1565年とも言われる。Morleyは 1560年としている。クリスチャンネームはルイジ(Luigi)とも書かれる。カルダーノは、出版されてないが Vita Ludovici Ferrarii Bononiensis を残している。また、G.de'Sallusti, "Storia dell'Origine e de' Progressi delle Matematiche," I, 38 (Rome, 1846)も見よ。
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原注20
第2版は、1579年、「L'Algebra Opera」という別の題名で献辞の手紙は差し替えられボローニャで出版されたが、その他は 1572年版と同じである。名前は、著作のいずれの版でも上述のとおり綴られている。
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