<1>
外は、雨だった。けっこう激しく降っている。薄い闇の中、俺は座ったまま両手を前に突き出して、肩甲骨のあたりを伸ばした。
ライフルのスリングが膝から滑り落ち、金属部分が床に当たって微かな音を立てる。
「そろそろ、行くか?」
と、俺の隣りで、不健康にも煙草を吸っていた相棒が囁いた。
「ああ」
俺は、腕時計を見た。待ち合わせまで、あと五分だ。
「雨も降っていることだしな…」
相棒のヨハンは、薄汚れたバッグの中から防水スプレーを出すと、自分の装備に吹きかけた。そして、俺に缶を渡した。
俺達は今、お迎えが来る時間を待っているところだった。
北欧の、某小国家に亡命していた高名な政治犯を暗殺してきた帰り道さ。仕事はうまくいったのだが、ここで季節はずれの大雨に見舞われて、国境付近の戦場の廃ビルの一角で、一息ついているわけさ。土砂降りだが、そんなに寒くない。
普段から、俺達は二人で仕事をしていた。俺はコージというネームで仕事をする傭兵で、まだ十七歳だけど、この仕事を始めてもう五年以上になる。地図読みのコージといえば、ちょっと有名なんだ。一緒にいるのは、ヨハン・ラヴェリール。俺と同じフリーの傭兵で、スナイパー。二十歳。金髪で碧眼。
俺達はかれこれ五年近く一緒に仕事しているんだが、お互いの素性はあまり深く知らなかった。俺がヨハンのことで知っていることといえば、オル・ダールという地中海沿岸の小軍事国家の国籍を持っているどこぞの貴族の末裔、ということだけだった。
ヨハンも俺のことは、年齢と、日本からの留学生ってことくらいしか知らないだろう。実際に俺達は、それで十分に仲良くやっていけた。何しろ、お互いのスキルを、完全に信用しきっていたからね。
「コージ、アーサーの奴は確実に迎えに来てくれるんだろうな?」
「雨が降ってるから、一分前後のずれはあるかもしれないけどね」
「一分か。まあ、なんとかするしかないな」
と、ヨハンは煙草を揉み消し、それを小さな携帯灰皿に入れた。なにしろ、煙草の唾液から個人識別が出来てしまう時代だ。
暗殺した政治犯はオル・ダールの元王族で、十年ほど前のオル・ダール王の暗殺事件への関与が取りざたされていた。そんなだから、俺達は煙草も何も、落としていかないほうが無難だということさ。
「さて、と」
俺が立ち上がろうとすると、ヨハンが腕を掴んで耳元に口を寄せてきた。
「あと少しだ。あてにして信じてる」
これはもう、儀式みたいなものだ。あとは迎えを待つばかり、という段階になると、ヨハンは必ずそうやって囁いた。信じているのはお互い様だ。俺は確実に帰るのが仕事だし、ヨハンは必ず、いつも完璧に俺のガードをする。
俺達は黙って立ち上がり、外の様子を伺った。暗殺された閣下を護衛をしていた陸軍兵士たちが、ちょっと必死になって俺達を追っている。
「来てる。これ以上ぐずぐずしていると、アーサーとの待ち合わせに間に合わない」
「ああ。行こう」
俺は、先に出た。二十メートルも走ったところで、銃撃が始まる。俺達はアーサーという奴の指定したポイントまで、一気に走る予定だった。
激しい雨音と俺達の足音、それに重なる銃声。硝煙の匂いが、湿った匂いとともに立ち込める。
「コージ!」
後ろから俺を援護していたヨハンが、叫ぶと同時に俺を物陰に引きずり込んだ。
びしゃっと泥溜りに俺達は伏せ、戦闘服は泥だらけ。防水スプレーの効果なんて、あるんだか無いんだか…
その次の瞬間、俺達が走っていた所にロケットが着弾する。泥が吹き上がり、激しい衝撃が泥の大地を伝ってくる。
「コージ、待ち合わせまであとどれだけある?」
「二分。ヘリでくる予定らしいけど、そろそろ…」
「またそんな、一発食らえば落ちるような物でねぇ」
と、ヨハンが呆れる。まあ、アーサーってのは、送り迎えのプロだからな。ヘリだろうが何だろうが、確実に来て確実に安全地帯に送ってくれるだろう。
「車で迎えに来てくれるより、安心だろ。ここから安全地帯まで、十キロあるんだから」
俺は袖のまだ汚れてなさそうなところで鼻の下を拭った。
あ〜あ。こんんなに汚れる仕事、久しぶりだよ…
「コージ、ヘリの音だ。行くぞ」
ヨハンは一足先に物陰から飛び出し、マシンガンを乱射する。
「コージ!」
俺は腰を屈めたままで走り出し、四十メートル先の待ち合わせ場所に向かった。ヨハンが放つ、超高速の三拍子の銃声が、俺の気持ちに余裕とリズムを思い出させてくれる。
雨雲でどんよりと灰色に濁った空で鈍く光る迷彩ヘリから、縄ばしごが下りてきた。
<2>
『殺しの仕事、来なかったか?』
電話の向こうからのジェシーの問いかけに、はあ? と思った瞬間、俺はくしゃみをぶっぱなしていた。
「ひえっくしっ!」
『汚ねえなっ!』
と、ジェシーが悪態をつく。彼は、俺よりひとつ年上の十八歳で、イギリス人。俗に言う「殺し屋」だ。そして俺は、そういう奴等に現場の詳細な見取り図や地図を売ったり道案内をする、「地図読み」というのが本当の裏稼業。
名前は、樹 神氏。これで、『いつき こうじ』と読むが、みんなにはコージと呼ばれている。
本職は学生だけど、どうせここはオル・ダールという国。日本と違ってこういう稼業に寛容なんだ。今は第三次世界大戦から二五年。世界大戦は終わったけど、それで戦争が無くなったわけじゃない。世界の立ち直りは早かったけど、依然混沌としている。ヨーロッパは二十世紀に存在した幾つかの国家が統廃合され、軍事国家も多い。
俺が留学しているオル・ダールも、第三次世界大戦直前にダール公という貴族によって建国された、地中海沿岸の小国家さ。日本人は少ないし、地図読みの仕事は多い。そして、小さいながらも世界屈指の先進国。
住むところとしては、けっこういいよ。
現在は、ダール公の末息子が王様やってるんだけど、彼は軍の庇護者でね。だから傭兵やってる奴が、けっこう住んでいたりする。俺にとっては最高の環境。
とはいえ、ここは冬でも結構寒い。俺は先日の作戦で泥にまみれたのが良くなかったのか、風邪を引いて、日本の家族から送ってもらったこたつに首まで浸かっている有り様だった。足のほうは、反対側にはみ出ていて冷える。
「それで、何の仕事だって? 殺し?」
と、俺はもう一回聞き返した。
『そう、殺し。来ていると思ったんだが… 俺の電話のほうが先回りしたかな?』
「そんな仕事、俺の専門じゃないぜ。お前みたいな“殺し屋”から、現場の案内を頼まれるんならありうるけどな」
『だけど、直接依頼が行くと思ったんだ』
「一体、どんな内容だ? 差し障りのない程度、教えろよ」
俺の言葉に、ジェシーはちょと間を置いた。
『…ターゲットが今現在、行方不明なんだよ』
「行方不明?」
オウム返しの俺の言葉に、ジェシーは即答しなかった。
「そんなのって、有りかぁ? ターゲットあっての“ヒット”だろ。それが…」
『ターゲットは、“王子様”だ。彼は陸路でオル・ダールに入国し、そこで消息をたった。多分、故意にな。そいつを探すよう、依頼があるかと思ったんだ。オル国内の探しモノなら、コージに頼むのが一番早くて確実に見つけてくれるだろうからな』
「ちょっ、ちょっと待てよ!」
俺は、受話器を両手で握った。
「王子様って、何のコードネームだ?」
『コードネームじゃない。その通りだ。とりあえず、俺がリーク出来るのはその程度なんだ』
「んなこと言ったって、俺の専門は人探しじゃなくて、道案内だぞ。まあ、少なくともこの狭い国の中に、俺の知らない「場所」はないからな、人探しの依頼が来てもおかしくはないけど… でも、依頼は来てないぜ」
と、俺は念を押した。
『多分、これから来ると思う。…いいか、コージ。殺しの依頼は、絶対に受けるな。面倒なことになるぞ。探すところまでにしておけ』
「お前がそう言うなら、そうするが… 『人殺し』じゃなくて、『人探し』ならいいんだな?」
『ああ。そいつを探すのは構わないが、絶対に、殺しの依頼は受けるなよ』
「分かったよ。それで…答えなくても構わないが、お前はその殺しの依頼を受けたのか?」
『俺は断わった。おかげで、ストーキングされてるんだけどな』
「スト…」
俺は、受話器を見つめた。
「この電話、大丈夫なんだろうな?」
『それは安心しろ。俺はそんなに間抜けじゃない。それより、いいな。殺しの依頼だけは、絶対に受けるなよっ。…と、ここもそろそろ退散したほうが良さそうだ。無事だったら、また連絡する。じゃあな』
俺の返事を待たず、奴は電話を切ってしまう。今頃、電話の向こうで派手に銃撃戦かよ? まあ、ジェシーが殺られることはないだろう。十八歳っていったって、その筋じゃあ有名な、超が幾つも付くA級スナイパーだ。
俺も電話を置き、ため息をついた。ジェシーの奴、あれは絶対、何か隠しているよな。まあ、詮索したところでどうにもならない。奴の言っていた依頼はまだ来ていないし、来るかどうかもわからないんだし…
と、その瞬間、置いた電話がまた鳴ったんだ! 俺はぎょっとして飛びのき、おかげでこたつ板に、背中をいやって程ぶつけてしまった。
「あいててててててて…」
居留守を使おうかと思ったくらいさ。でも、電話を取ったよ。ジェシーからの救援要請だったら、困るもん。
「はい、コージ…」
『よう、俺だ。ヤーブなんだけどさ。ちょっといい?』
「ああ、久しぶり。なに、今、家か?」
俺はこたつから這い出て、きちんと座った。そういえば、コーヒーを飲みかけて忘れてた。
ヤーブっていうのは、やっぱり傭兵稼業やっているんだ。もともとは、お医者さん。まだ、二十歳くらいじゃないのかな? それで医者してるくらいだから、頭のいい奴なんだろうけど、気取ったところも無くて、まあ、ぼんやりとして気の弱そうな、丸メガネのオタク兄ちゃんといった感じ。で、隣りのアパルトマンに住んでいるんだ☆
『残念なことに、今は軍のカフェテラス。軍経由の仕事受けたところ。メンツに加わらないか? 人探し&護衛だよ。報酬もまあまあ』
おれは、さっきのジェシーの忠告を思い出した。
「殺しじゃ、ないんだな?」
『殺し? いや、違う。殺されそうな人を守るんだ。ただし、そのターゲットの所在がはっきりしないんだ。コージなら、探せるかと思って』
こりゃ、絶対にビンゴだ! ジェシーの言っていた話に違いない。とすると、この誘いは受けるべきだよな。俺は更に姿勢を正した。
「いいぜ。その仕事、のった。打ち合わせはいつだ?」
『今日。お前の相棒も誘えよ。スナイパーも必要だから』
「ヨハンの奴ね、了解。それでヤーブは、他に誰を誘う予定なんだ?」
『ファーダだよ。あいつにメインで作戦進めてもらうんだ。あとのメンバーは、ファーダ次第』
「ファーダって、フリーの指揮官だろ?」
と、俺は聞き返した。一緒に仕事はしたこと無かったけど、ファーダといえば、こいつもまた、結構名の知れた奴だった。同じこの王都に住んでいるんじゃないかな? フリーの指揮官で、何か大きな仕事があると、メンバー集めてチーム作って仕事するんだ。作戦成功率は、九割九分だという。
「いいぜ。俺も一回、一緒に仕事してみたかったんだ」
『じゃ、俺からの推薦で、コージとヨハンな。他のメンバーは、送迎屋のアーサーと、罠担当のランディだと思う。ジェシーも誘ったんだけど、フラれちゃってね』
「フラれた…?」
俺は、呟いた。殺しの依頼を断わったのなら、ヤーブの依頼を受けてもいいと思うんだが… あいつ、一体どういうつもりなんだろう? 俺にリークした以上のこと、それどころか、この件の真相そのものを知っている可能性もあるぞ。
俺は、とりあえずそれを黙っていた。まあ、それがしきたりってもんだしね。ヤーブも、俺の不信そうな呟きが聞こえていただろうけど、何も聞き返してこなかった。
『午後三時に、ダール国王記念公園の銅像前に居てくれ。迎えに行く。詳細はその時に。じゃな』
と、ヤーブは明るく言う。俺も、Bye!と言い返して電話を切った。軍からの極秘依頼ということは、報酬は期待できないけど、内容としては、おもしろいこと間違い無し。
しかし、軍が依頼してくる人探し&護衛… ターゲットは、裏の人間なのか?
俺は相棒であるヨハンの顔を思い浮かべた。さあて、ヨハンとどうやって連絡とろうかな? このまえの作戦の後、なんか用事があるとかで、連絡が取れなくなっているんだよな。まあ、相棒といえ同居しているわけじゃないから、関知しない時間や行動も多いんだ。今頃は、どこ行っているんだろう?
俺は再び、そのまま後ろに寝転んだ。ああ、近いうちに日本から、座椅子も送ってもらおう…
と、その時だった。また電話が鳴ったんだ! 今日は一体、どうなっているんだ? 続けざまに電話が三本なんて、今までにないことだ。俺は飛び起きて、ドキドキしながら受話器を手に取った。
「…はい…」
『どうした? その用心してるような口調は。何かあったのか?』
その心配そうな声は、今話していた当人、ヨハンだったんだ!
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二十分後の二時四十分。俺はヤーブと約束した、銅像の前に行った。ヨハンが先に来て、待っている。彼は、自転車を飛ばしてきた俺を見つけると、軽く手を上げた。
「やあ、コージ。ヤーブが依頼してきた人探しっていうのは、何なんだ?」
「詳しくは、俺も知らない。詳細はこれから」
と、俺はずれたマフラーの端を背中に投げた。戦闘服ではないヨハンは、栗色の髪をきちっと撫で付けて、ダークグレーのスーツとコートを着こなしていた。手袋はもちろん黒の革。貴族の末裔らしく、きりっとしたきつい顔。そしてこの、貴族趣味的服装。少しの乱れも無いんだよ。俺なんか、ダッフルコートにマフラー、毛糸の帽子に揃いの手袋。ジーパンに防水のスニーカー、そして自転車だった。
銅像前は、ちょっとした待ち合わせ場所になっているが、夜中に降った雪のせいでぬかるんでいて、あまり人はいなかった。刺すように冷たい日差しの中、雪の積もった広い芝生で、冬休み中の子供たちが遊んでいる。
俺は自転車にまたがったままの格好で、ジェシーからの電話のことを話した。この話がしたくて、ヨハンを早めに呼び出したんだ。彼は、微かに眉をひそめた。
この仕草。絶対何か、知ってるな?
「何か、その類の情報、知らないか? ヤーブからの依頼と、一部合致してると思うんだけど」
「してそうだな… だけど、ジェシーの奴」
彼は口を噤んだ。
「何か知ってるのか?」
「いや、知っているというほどでは無いんだが… “行方不明の王子様”というのは、現国王の甥のことだと思う」
と言ってヨハンは、銅像をちらりと振り返った。
「ダール公の第一皇孫だ」
「それって、王位継承者の…」
俺は呆気に取られて銅像を見上げた。軍服姿のいかつい大男が、威風堂々と立っている。建国の戦士として、未だに国民の人気は高い。お城の中の薄汚いおとぎ話に興味はないが、知識としては知っている。
ヨハンの言う、ダール公第一皇孫っていうのは、病弱で精神不安定な薄倖青年、アルベルト・フォルセス王子のことさ。表向きは、隣国スイスに留学中となってるけど、実際は心の傷の療養中らしい。
なにしろ十年前のクーデター騒ぎで…
その瞬間、俺達は殺気を感じて、道路と公園を隔てる生け垣を振り返った。激しいエンジン音とともにコニファーをなぎ倒し、ジープが突っ込んできたのだった。銃口が、きらっと光る。
「ヨハン、乗れ!」
俺は強くペダルを踏み、ヨハンが後輪の車軸に足を掛ける。何しろこれは、どこかの軍の山岳部隊も使っているタイプのものに俺専用の改良を施してあるんだ。雪の解けたぬかるみくらいなら、平気で進める。って、それ相応の体力が要るんだが…
なんて言っている場合じゃない! 後ろから、機銃がぶっ放される。俺たちは、公園から走り出た。ヤーブたちとの待ち合わせ、どうしよう!
「コージ! ヤーブとの待ち合わせまで、あと5分だぞ!」
ヨハンが、そう怒鳴って俺の右耳を塞ぐ。パン! と、塞がれた耳元で銃声だ。後ろに向けて何発も撃っている。俺は、車の間を縫うように走った。武装ジープは俺達の斜め後ろ、公園の中を走っている。久々の修羅場だ!
銃撃戦に気付いた車が、次々と停車する。銃の携帯が許可されているこの国じゃ、そう珍しいことではないけれど……
「公園を一周回って、時間を稼ぐ。もう来てもいい頃だからな。異常に気付いてくれりゃ、助けてくれると思いたい!」
と、その時だった。前方の北欧製の四輪駆動車が、渋滞からバス専用車線に躍り出た。
「コージ!」
後部のドアが勢い良く開けられ、ヤーブが覗く。
「コージ! ヨハン! 援護する! 飛び乗れ!」
自転車は、すでに時速五十キロ近い。って、普通の自転車とは違うから、こんなにスピードが出るんだけど。車は俺達と並んだ。車の中は後部の座席が取り払われ、広々としている。その中に、ヤーブと、顔なじみのランディっていう男がいたのだった。
とすると、運転しているのは、このまえヘリで迎えに来てくれた、アーサーに違いない。
「ヨハン! 先に来い!」
ヤーブの声に、ヨハンが片足を後輪の車軸から外す。
「行けっ!」
俺の声にタイミングを見計らい、彼は自転車から飛び降り、道路に一歩足をついただけで車に飛び乗った。俺達をつけてくるジープが、機銃を撃ってくる。
避けるため、俺は軽くなった車体を少し傾け、反対車線に出た。この騒ぎで、あちこちの車が急停止だ。一度抜いたヤーブたちの車が、一気に加速して俺の前に再び飛び出す。
「コージ、今だ!」
俺は自転車ごと、その車の中に飛び込んだ。素早くドアが下ろされ、車は更にスピードを上げた。